00644_“げに恐ろしきは法律かな”その5:「法律」はわりと適当に解釈される

非常識な内容を含み、
「日本語を使いながら、およそ日本語の文章とは言えないほど壊滅的にユーザビリティが欠如し、呪文や暗号のような体裁の奇っ怪で不気味な文書(もんじょ)」
であり、おまけに公権的解釈が複数存在し、何を信じていいか皆目不明の、
「げに恐ろしき」
法律ですが、
そんな代物でも、最終的に解釈運用する方々が、ある程度理解可能で判別可能なシキタリや運用哲学やプロトコルにしたがって、きちんと堅実に使っていただければ、という一縷の望みを託したくなるものです。

しかし、そんなかすかな望みが無残に打ち砕かれるような話ですが、法律は、わりと適当に解釈されちゃいます。

法の最終的な解釈運用権限は、いうまでもなく裁判所という奉行所(国家機関)に託されています。

では、その裁判所は、どういうシキタリや運用哲学やプロトコルにしたがって、法の最終的解釈権限を行使するのでしょうか?

「法の最終的解釈権限」
という強大な権力を託され、これを振るう国家機関である裁判所を構成する裁判官は、さぞ規律がしっかりしており、ルールで雁字搦めにされ、個性が否定されるだろう、というのが通常の発想だと思われます。

ちなみに、行政官僚(国家機関たる各大臣の補助機関たる官庁に勤める公務員の皆さん)は、
「法律による行政」
「絶対的上命下服」
の2つの原理で厳しく規律されています。

仕事に個性を発揮するということは、法律の軽視や指揮命令の混乱につながるため、厳しく禁じられ、ひたすら個性を埋没させ、私情を排して公正・公平な法を実現します。

そして、行政官と裁判官は、バックグラウンドも出身大学も試験科目もライフスタイルも酷似しています。

すなわち、
だいたい同じように小さいころからお勉強ができ、
だいたい同じように東大や京大を始めとするやたらと受験偏差値が高い難関大学を卒業し、
だいたい同じように大学では調子に乗ってフラフラ遊ぶことなくお勉強に勤しみ、
だいたい同じような小難しい法律の試験(司法試験や国家公務員試験)をパスして、
だいたい同じように小難しい顔やつまんなそうな顔をして地味なスーツを着てつまんなそうに仕事をしている、
だいたい同じように話しても理屈っぽく細かく退屈でつまんなそうなタイプの方々(注:以上は、世間的なイメージを私が推定したものであり、実際はそうでないかもしれません)
です。

行政官と裁判官は、このようにバックグラウンドも出身大学も試験科目もライフスタイルも酷似した公務員であり、裁判官は、公務員以上に、重大な権限を振るう厳かさが求められます。

すなわち、日本国においてもっとも強大な権力である法の最終的な解釈運用権限を振るう裁判官ともなれば、行政官僚と同様、あるいはそれ以上のとてつもなく厳しい規律に服し、何から何まで雁字搦めの窮屈この上ない生活を強いられるのであろう、と思われます。

しかしながら、事情はまったく逆で、裁判官は、上司もおらず、個性と私情を発揮して、さしづめ
「やりたい放題」
なのです。

しかも、
「裁判官が、個性の赴くまま、やりたい放題で仕事してもいい」
ということは、なんと、法律の親玉、キング・オブ・法律である、
「憲法」
に明記されているのです。

憲法76条3項をみてましょう。

「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」
とあります。

枕詞や無意味な修飾語を省いて、シンプルに再記述しますと、
「すべての裁判官は、独立してその職権を行ってよい」
すなわち、
「裁判官は、天下御免の勝手次第で、誰の命令に従うことなく、独立して職務をして差し支えない」
と憲法が明言しています。

裁判官が、その職務権限を行使するにあたっては、外部の権力や裁判所内部の上級者からの指示には拘束されないことが憲法上保障されているのです。

この憲法76条3項、裁判官職権行使独立の原則などといわれますが、私のような一般庶民でもわかるような言い方に直せば、
「裁判官やりたい放題の原則」
ともいうべき、リベラルで、反体制的で、パンクで、ロックンロールな憲法原理です。

例えば、行政官が、
「この法律は、私の良心や憲法解釈に反するので、個人の判断として執行をしません」
とか言い出すとそれだけで大問題となります。

他方、裁判官は自分の良心と自身の憲法解釈・法律解釈に基づき、気に食わない当事者に敗訴を食らわしたり、自己の憲法解釈からして許せない法律や行政行為を違憲無効と判断したり、一見して憲法に反するおかしな法律制度であっても維持したり容認したり、することができるのです。

こういう言い方をすると、
「はあ? 何いっちゃんてんの? 東京地裁に勤めるそこらへんのヒラの裁判官も、普通のサラリーマン同様、裁判所のトップである東京地方裁判所所長にヘーコラ頭下げて、揉み手でご機嫌を伺いし、きちんと指揮命令や叱咤激励にしたがって、組織人として宮仕えするんでしょ! それに、東京地裁の上に東京高裁ってのがあるじゃん! 東京地裁の裁判官といえども、東京高裁の裁判官や、東京高裁の長官の指示や命令に逆らえないでしょ!」
という声が聞こえてきそうです。

いえ、違います。

やっぱり、憲法が明記するとおり、
「裁判官は、天下御免の勝手次第で、誰の命令に従うことなく、独立して職務をして差し支えない」
のです。

その天下御免、自由奔放っぷりは、絶対的なものであり、たとえ地裁のしがないヒラ裁判官であっても、相手が地裁所長であれ、高裁長官であれ、最高裁長官であれ、内閣総理大臣であれ、天皇陛下であれ、アメリカ合衆国大統領であれ、ローマ法王であれ、どんな偉くて立派な人の言うことであっても、ビタ1ミリ聞く耳を持つ必要がなく、文字通り、やりたい放題、法を解釈運用して差し支えない、というスーパーフリーの状態を意味します。

ちなみに、上記憲法に明記された大原則を無視ないし軽視し、前述のとおり、
「地裁に勤めるそこらへんのヒラの裁判官も、普通のサラリーマン同様、裁判所のトップである地方裁判所所長にヘーコラ頭下げて、揉み手でご機嫌を伺いし、きちんと指揮命令や叱咤激励にしたがって、組織人として宮仕えする」べき、
という、
「実に常識的というか、微笑ましいというか、未熟で無知というか、普通のサラリーマン同様の陳腐な考え」
に基づき行動してしまい、
その結果、世間を騒がす大しくじりをやらかした(ある意味、微笑ましいほどに一般ピーポーな)地裁所長がいらっしゃいます。

長沼ナイキ訴訟という事件に関連した
「平賀書簡事件」
で、憲法に悖る大チョンボをやらかした平賀健太という札幌地裁所長さん(当時)です。

「長沼ナイキ訴訟」
という事件については、話せば長くなるのですが、ごくかいつまんでお話をしますと、ベトナム戦争中、日米安保問題で国を賑わす安保論争が巻き起こっていた最中の1969年、航空自衛隊が北海道夕張郡長沼町馬追山に
「ナイキ地対空ミサイル基地」
という基地を建設しようとしました。

そうしたところ、この建設の障害となっていた国有保有林を伐採するため、当時の農林大臣が森林法第26条第2項に基づいて国有保安林の指定を解除しました。

これに反発したのが麓の一部の地域住民で、
「保水力が低下して麓に暮らす自分たちの生活が危険にさらされるし、さらにいうと、そもそも自衛隊は違憲の存在である」
などいったことを理由に
「基地建設に公益性はなく、保安林解除は違法なので、解除処分を取消せ」
という、(保守的なエスタブリッシュメントからすると)反体制的で反国家的な訴えを札幌地方裁判所に提起するに至りました。

この札幌地方裁判所の第一審を担当したのが福島重雄を裁判長とする合議体を構成する3人の裁判官でした。

当然ながら、 憲法が
「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」
と保障しているとおり、地裁所長であれ、高裁長官であれ、最高裁長官であれ、内閣総理大臣であれ、天皇陛下であれ、アメリカ合衆国大統領であれ、ローマ法王であれ、どんな偉くて立派な人の言うことであっても、福島裁判長は、ビタ1ミリ聞く耳を持たなくてよく、独立してやりたい放題法解釈運用をして良いはずです。

そうなると、ひょっとしたら、
「こんなミサイル基地建設に公益性はなく、保安林解除は違法なので、解除処分を取消した方がいいじゃん!」
という保守的なエスタブリッシュメントが聞けば卒倒しそうな、スーパーリベラルで驚天動地の判決が出ちゃうかもしれません。

しかも、そんな(保守的エスタブリッシュメントからすると)容認しがたい驚天動地の椿事が起こるかどうかは、福島裁判長の胸三寸で決まる、というかなりあやふやで不安定な状況です。

こんな、
「保守的で親米的で体制擁護的な良識あるエスタブリッシュメントからすると悪夢のような事態」
を恐れ、これを回避しようとしたのが、当時の札幌地裁所長の平賀健太という(保守的で、ゴリゴリの)オジサマです。

1969年9月14日、平賀健太札幌地裁所長は、訴訟判断の問題点について原告の申立を却下するよう示唆した
「一先輩のアドバイス」
と題する詳細なメモを、事件を担当する裁判長である福島重雄氏に差し入れました。

いや、これはアカンでしょ。

憲法76条3項に反するでしょ。

しかも、法の番人、憲法擁護の最後の砦の防人たる地裁所長がやらかした。

これはアウトです。

この事件のポイントですが、
・平賀というオッサンが、憲法を遵守すべき裁判所長という立場にありながら、加齢による認知や記憶力の低下によって憲法の学習成果が脳内から消失してしまったのか、あまりに頑迷な保守的思考のため強度の偏見により認知が歪んだせいかはわかりませんが、とにかく、法の番人でありながら、大事な大事な憲法76条3項のことが、脳の中からすっぽり抜け落ちてしまっていた(第1のしくじり)、
・しかも、証拠が残らないように、口頭で指示すればいいのに、リスク管理能力も低かったせいか、この平賀というオッサン、わざわざ自分のやったことが証拠に残ってしまう「メモにして渡す」というメッセージ伝達方法を選択した(第2のしくじり)、
・さらに、悪いことに、これを受けた福島裁判長は、武士の情けや惻隠の情を働かせ、黙って、「平賀所長、こんな憲法違反だめでしょ」とたしなめて、メモを返して穏健に指摘してあげることが可能であり、そうすれば穏便な形で話が収束したにもかかわらず、
・福島裁判長は、そのような粋な計らいをするどころか、決定的証拠であるメモを確保し、これ鬼の首を取った如く誇示して、「ほらほら、皆さん、みてみてみて! こいつ、こいつ、この所長! 法の番人、憲法を守る最後の砦の防人であるにも関わらず、憲法を全然わかっていないぞ! こんな野蛮な法の無知の極みのオッサンは、裁判官としてふさわしいのか!」といいった形で大声を上げて、事態をことさらに大事にし、晒し者にして、社会的にリンチして血祭りに上げる、というスーパー・サディスティックな方法を選択する、平賀さんにとっては悪夢のような人物だった(不幸な状況)、
という、いくつかのしくじりと不幸が重なり、ということで、特異な道筋をたどり大事件に発展していくことになりました。

このように、この1件は、
「平賀書簡問題」
となって、世間を揺るがす大事件となりました。

すなわち、平賀所長がメモを作成交付して、福島裁判長に一定の釘刺しを行った行為は、
「裁判官の独立」
を規定した日本国憲法第76条第3項に違反するとされました。

最高裁判所事務総局は、平賀所長を呼び出し、注意処分としました。

案の定というか、福島コートは、前記のような
「所長風情が何を偉そうに、メモとか出して、マウント取ろうとかしちゃってんの? そんな憲法わかっとらん所長は晒し者にして血祭りにしてくれてやる」
というくらい、パンクでロックでリベラルな福島裁判官が率いるところでしたから、出した判決も国に対して中指を突き立てるようなものでした。

すなわち、
「自衛隊は憲法第9条が禁ずる陸海空軍に該当し違憲である」
とし
「世界の各国はいずれも自国の防衛のために軍備を保有するのであって、単に自国の防衛のために必要であるという理由では、それが軍隊ないし戦力であることを否定する根拠にはならない」
という理由で、原告・住民側の請求を認める違憲判決を下しました。

ここまでは勇ましい話なのですが、やはり、揺り戻しというものはあります。

後日談としては、福島コートの判決は、その後、札幌高等裁判所と最高裁判所によって相次いで破棄され(そりゃそうですわな)、
「空気を読まず、法に違反した、憲法を知らない、ゴリゴリ保守のオッサンの先輩裁判官がやらかしたシクジリに遭遇し、惻隠の情を示すどころか、メモを証拠に、鬼の首を取ったかのように騒ぎ出し、しくじりおじさんを衆人環視の下で無知ぶりを晒すとともに、社会的に血祭りに上げた」
という
「反体制的」
という意味でアッパレな行動を起こした福島裁判官は、最高裁判所事務総局によって忌避されたか、どこぞの家庭裁判所へ左遷され、配所の月を眺める結果になりました。

ともあれ、以上の一連の経緯からおわかりのとおり、
「裁判官は、天下御免の勝手次第で、誰の命令に従うことなく、独立して職務をして差し支えない」
という憲法の原理は、嘘でも幻でも机上の空論でもなく、現実の体制運営原理として明確に存在するのです。

したがって、裁判官職権行使独立の原則というのは、
「裁判官やりたい放題の原則」
と言い換えた方がしっくりくるかもしれません。

国家三権のうち、司法権をぶんぶん振りかざす裁判所という国家機関には、地裁以上の裁判を担当できる裁判官が約3000人いますが、これら3000人が、それぞれ、独任官庁(主任大臣と同じく、個人が単独で国家機関として、国家意思を表明できるパワーを持っている)であり、しかも、権限行使は、上司もなく、干渉もチェックも入らず、やりたい放題のスーパーフリー。

民主主義を標榜する我が国においても、
「司法、すなわち裁判手続きという国家権力が振りかざされる場面」
においては、約3000の
「専制君主国家」
が存在し、そこで、圧倒的な権力(司法権)をもった独裁者が、日々、
「上司も、チェックもなく、好き放題、やりたい放題(が制度的に保障された状態で)」
権力を振りかざして、裁判という業務をさばいている、という実体が存在します。

ここで、
「裁判官やりたい放題の原則」
なんて言い方をすると、
「たしかに、憲法にはそう書いているが、そこは、理性もあり常識もある裁判官のみなさな。いかにやりたい放題だからといって、裁判官がそんないい加減なことをしないでしょう」
という声が聞こえてきそうですが、残念ながら、こういうケースがあります。

東京都内の私立小学校で学級委員を決める際、港区と千代田区から通っている生徒に5票与え、中央区と渋谷区から通っている生徒には3票、足立区と台東区から通っている生徒には2票、川崎市から通っている生徒に1票という形で付与する票数を差別すると、おそらくそういう非民主的な教育運営している教師は人権感覚をうたがわれ、即座にクビを切られるでしょう。

しかしながら、国会議員を選ぶ選挙においては、鳥取県や島根県の方々は5票与えられ、東京都民は1票しか与えられない、という選挙制度がついこの間まで存在し、しかもこの無茶苦茶な制度に基づく選挙結果を、最高裁が(多少は嫌味を言いながらも)積極的に反対せず、制度の結果が延々最高裁で容認される、というクレイジーな状況が続いておりました。

このような
「多数決ならぬ少数決による、非民主的な国民代表選出制度」
の違憲無効性が最高裁で度々審理されましたが、
「最高裁の15人の老人たちの思想・良心」
によれば(チビチビ嫌味は言いつつも、結論においては)このような制度の結果も容認する、などとされ、投票価値の不平等な長らく放置され続けてきました。

以上のとおり、裁判所は、日本国における最高・最強の権力を保持しながら、誰の指図を受けることなく、自由気ままに、個性を発揮することが憲法によって保障されており、この点において、個性の発揮が極限まで否定される行政官僚とはまったく異なるのです。

このように、
非常識な内容を含み、
「日本語を使いながら、およそ日本語の文章とは言えないほどユーザビリティが欠如し、呪文や暗号のような体裁の文書」
であり、おまけに公権的解釈が複数存在し、何を信じていいか皆目不明の、
「げに恐ろしき」
法律についてですが、
最終的に解釈運用する方々については、憲法上
「やりたい放題」
が保障されており、わりと適当に解釈されてしまいます。

まさしく、
「げに恐ろしきは法律かな」
ではないでしょうか。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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