「前任者からそう聞いていました」
現場で問題が起きたとき、よく耳にする言葉です。
その裏には、暗黙のルールや文書化されていない手順、口頭だけで引き継がれてきた慣行が、当たり前のように存在しています。
たとえば、ある企業の経理部門では、
「この処理、正式なマニュアルはないんです。でも、◯◯さんから『こうやればいい』と聞いて、ずっとそうしていました」
という声が聞かれました。
その
「慣れたやり方」
は、いつの間にか標準となり、誰も疑問を持たないまま、年単位で運用されていたのです。
問題が表に出るまで、そこにリスクがあるとは、誰も気づきませんでした。
別の企業の法務部門でも同じような構図があります。
たとえば、株主総会の招集通知を作成していた法務担当者は、こう話しました。
「昨年のファイルを参考にして、ほぼ流用で作りました。前任者から『この文案で問題なかった』と聞いていたので──」
ところが、新任の監査役から、次のような指摘が入りました。
「この文言、会社法改正前の表現のままですね」
「総会参考書類と事業報告との整合性がとれていません」
「この記載、どの会議体で承認されたのですか?」
担当者は答えに詰まりました。
なぜそう書いたのか。
誰が決めたのか。
どういう経緯だったのか。
記録も、承認履歴も、残っていなかったのです。
経理部であれ法務部であれ、根っこにあるのは共通しています。
それは
「構造化されていない業務」
というリスクです。
「引き継ぎでそう聞いた」
「前任者の資料を真似た」
こうした属人的な継承は、平時には機能しているように見えても、いざトラブルが起きれば組織としての説明責任にはなりません。
そして、それは企業法務にとっての“構造的な盲点”なのです。
「言われていたから」「見よう見まねで」では通用しない
こうした口伝え文化には、
「たまたま知っている人がいたから機能していた」
だけ、という危うさがあります。
制度としての裏付けがなければ、それは単なる
「偶然の安定」
にすぎません。
重要なのは、組織として次の問いに答えられるかどうかです。
「なぜその手順なのか?」
「どの会議体で承認されたのか?」
「リスクは検討されたのか?」
これに答えられなければ、監査対応も、訴訟対応も、行政対応も、すべて後手に回ります。
そして、そうした
「答えられない業務」
の背景には、必ず
「構造の欠如」
があります。
「教わっていないから」では、もう通用しない
特に新任担当者のミスが発端となった場合、
「引き継ぎが不十分だった」
「マニュアルがなかった」
「前任者からはそう聞いていた」
というような反応が返ってくることがあります。
それ自体が責められるものではないにしても、企業法務の視点では、それこそがリスクの根源です。
非公式な引継ぎが積み重なるほど、組織の記憶は個人に依存していきます。
そして、ある日、その個人が退職すれば、ノウハウもルールも消えてしまうのです。
これは、最も危険な属人リスクです。
「慣行」や「習慣」も、文書化されてこそ組織の意思になる
ある中堅メーカーでは、
「Aという処理は月末ではなく翌月1日にずらすのが慣例」
になっていました。
理由は
「前任者がそうしていたから」。
けれども根拠は誰も知らず、ルール化もされていませんでした。
その結果、財務報告に誤差が生じ、監査法人から是正指摘を受けました。
ここで問われるのは、その慣行の
「良し悪し」
ではありません。
「なぜそうしていたのか」
「誰が承認したのか」
「文書として、どう残されているのか」
その有無が、ガバナンスを問う土台になるのです。
長年の慣習であっても、組織としての合意と記録がなければ、それは
「個人判断」
とされかねません。
つまり、説明責任を支えるのは、感覚でも経験でもなく、
「記録された構造」
なのです。
必要なのは、“属人性”から“構造”への転換
属人化した業務は、一見するとスピーディーです。
けれども、その効率性は
「透明性のなさ」
という代償を伴います。
これを防ぐには、業務の棚卸しと再設計が不可欠です。
たとえば、
・引継ぎの標準化と記録のルール
・慣行の背景を記述した補足文書
・意思決定プロセスのログ保存
・定期レビューとアップデート体制
・「個人判断」の範囲と承認基準の明確化
こうした仕組みがあって初めて、業務の再現性が担保され、属人リスクは構造へと転換されます。
それがすなわち、
「ミエル化」
「カタチ化」
「言語化」
「文書化」
「フォーマル化」
という、組織の安全設計なのです。
“伝統”と“惰性”は、紙一重である
慣行が
「伝統」
として尊重されるか、
「惰性」
として批判されるか。
その分かれ目は、文書による裏付けと、継続的な検証です。
「そう聞いていたから」
ではなく、
「なぜそうするのか、明文化されています」
と言えること。
そこにこそ、組織の成熟度が現れます。
そして、リスクは
「構造にしなければ残り続ける」
のです。
「文書がなかった」
では、もはや言い訳にならない時代なのです。
著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所
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