02175_見えないものをミエル化する知恵_「協力的」_税理士と弁護士、同じ案件に向き合うときに起きる“温度差”の正体

ある企業で、顧問弁護士が交代しました。

契約関係やリスク対応を、より専門的に支えてくれる人材を求めての変更だったといいます。

社長としては、次のステージに進むための、前向きな判断だったそうです。

その
「次のステージ」
とは、具体的には事業承継でした。

親族への株式の引き継ぎを見据えて、支配構造を整理するフェーズに入ったのです。

その過程で、株式の移動や評価、贈与の手続きといった問題が生じ、税務と法務の両面での対応が必要になりました。

その企業には、以前から長く付き合っている税理士がいました。

経理や申告のやりとりはすべてその税理士に任せており、社内でも信頼されている存在です。

新しい顧問弁護士と、この税理士が連携して進めることになった事業承継案件は、両者の専門性を組み合わせて進めるべきものでした。

打合せを終えたあと、社長がこんなひと言をもらしました。

「〇〇先生(税理士)は、本当に協力的で・・・」

「弁護士であるあなたはそうではない」
そんな含みが、言葉に込められていました。

協力的=賛成してくれる人?

「税理士さんは、こちらの事情をわかってくれて、協力的です」

「弁護士さんは、やたら慎重で、なんだか否定から入る感じがするんですよね」

「協力的」
という言葉は、いったい何を指しているのでしょうか。

あるいは、何が含まれていて、何が抜け落ちているのでしょうか。

そもそも
「協力的かどうか」
の違いなのでしょうか。

それとも、
「協力的に“見えるかどうか”」
という感覚の違いなのでしょうか。

実は、この言葉の使われ方には、ある種の“誤認の構造”が潜んでいます。

たとえば、弁護士が株式移動に関する契約条項を見て、
「ここは再確認が必要です」
と指摘したとします。

あるいは、
「このまま進めると、後日トラブルになる可能性があります」
と止めます。

その瞬間、
「面倒くさい人」
「話が前に進まない人」
「協力的じゃない」
と感じられることがあります。

一方で、税理士は
「この評価額で問題ありません」
「申告上、処理できますよ」
と答えます。

レスポンスも早く、内容の調整もしやすいです。

結果として、
「スムーズだ」
「協力的だ」
と評価されることがあります。

しかし、そこには、そもそもの職責の違いがあります。 

税理士は、決算や申告の業務を支え、社内の安定運営をサポートする存在です。

設計図どおりに現場が動けるよう、数字と処理を整えます。

日々の会計や税務を担う、“内側から支える存在” ともいえます。

一方、弁護士は、リスクや合意の不備に目を向ける立場にあります。

全体の構造と着地点を設計できるよう助言をし、“外側から見て支える存在”です。

税理士は
「どう処理できるか」
を見ており、弁護士は
「それで問題が起きないか」
を見ています。

どちらが“協力的か”という話ではなく、そもそも立ち位置と責任のベクトルが違うのです。

見えない“反対”をしているのは、誰か

「反対する=協力的ではない」という思い込みが、無意識のうちに働いてしまうこともあるでしょう。

場合によっては、それが判断や役割の本質を見えにくくさせてしまうこともあるのです。

弁護士は反対しているわけではありません。

必要な検証やリスクを確認し、説明しているのです。

あるいは、
「この部分は一度立ち止まりましょう」
と提案しているだけです。

“これで本当に問題ないのか”
“後から否定されるリスクがないか”
“合意の内容は整理されているか”

そうした問いを投げかけることこそ、弁護士の役割です。

それは“協力していない”のではなく、“確実に前に進めるための協力”です。

ただ、それがそう見えにくい。

ときに
「足を止めているように映ってしまう」。

そこに、温度差が生まれるのです。

これは、どの企業でも起こり得る話です。

似たような場面は、実は、社内や関係者とのやりとりにおいても、よく見かけられます。

たとえば

1.新サービスのリリース会議で、参加者が次々に「問題なし」とうなずく中、最後に法務担当が「利用規約の表現に不備があります」と発言した瞬間、空気がピリついた。

2.外注先との契約更新をめぐり、営業チームが「今回は早めにサインして進めましょう」と言うなか、総務担当が「前回トラブルがあった条項を見直したい」と口にした途端、会議の雰囲気がどんよりと沈んだ。

3.親族間の株式譲渡の相談で、「話がまとまってよかった」と和やかな空気の中、一人の親族が「この内容は契約書にしておきましょう」と発言した瞬間、社長が「そんなに固くしなくても…」と苦笑した。

こうした場面では、往々にして、何も言わなかった人のほうが“協力的”に見えて、止めた人、確認を求めた人のほうが“非協力的”と受け取られてしまうものです。

実際には、その逆であることも、決して珍しくありません。 

ミエル化することで、誤解は減らせる

「協力的だったと思っていたのに、突然否定された」
「そんなこと、もっと早く言ってくれればよかったのに」

そんな感想が残る場面もあります。

しかし、その多くは
「協力的」
という感覚が、文書や確認のプロセスに落とし込まれないまま、やりとりされていたことに原因があります。

つまり、イメージに頼り、“感じ方”に依存してしまったのです。

だからこそ、
「協力的」
という言葉は、態度や印象ではなく、プロセスとして“ミエル化”していく必要があります。

・合意された内容は何か
・誰がどこまで了承しているか
・立場の違いがどのように影響しているか

これらを言葉にして、記録として、確認として残していくこと。

その積み重ねが、
「協力的かどうか」
という感覚的な評価を、より健全で実務的なものに変えていきます。

協力的であるということは、「異を唱えないこと」ではない

さて、はじめの話に戻りましょう。

弁護士も税理士も、それぞれ異なる視点から企業を支えています。

立場や役割の違いが、ときに
「態度の違い」
のように見えてしまうこともある。

目的は同じはずです。

ときには“言いにくいこと”を伝えるのも、専門家としての責任です。

税理士も弁護士も、企業の判断と実行を確実に支えるために、専門性を発揮しているのです。

「どちらが“協力的”か」
と比較してしまうと、本質を見失います。

「前向きではない」
「協力的でない」
と見なされるとすれば、
「協力」
という言葉が、違った意味合いで使われているのかもしれません。

「協力的」の内実を、言葉にしておく

では、どうすれば誤解を減らせるのでしょうか。

ひとつは、
「協力的」
という言葉を、感覚で使わないことです。

それが意味するのは、
「どの立場で関わり」
「どの責任を担い」
「どのように連携し」
「どの範囲を支えてくれるのか」
という、もっと具体に落とし込んだ話なのです。

もうひとつは、
「役割」
を明確にしておくことです。

税理士には税務の見地からの支援を。
弁護士には法的な整合性の担保を。
それぞれの専門性が、どの地点で、どのように連携するのか。

その設計をあらかじめ共有しておくことです。

そして、確認は言語化・文書化しておくこと。

「聞いたつもり」
「伝わったはず」
は、誤解の火種になります。

信頼関係こそ、カタチで残すべき

協力とは、
「同じ目的」
に向けて、それぞれの役割をまっとうすることです。

異を唱えることも、違う角度からの支援のかたちです。

「〇〇先生は協力的なんだけど」
求めているのは、おそらく
「安心感」
なのでしょう。

本当の安心とは、
「何を共有し、どこまで合意し、誰が何を受け持つか」
がミエル化されている状態のはずです。

弁護士だから、税理士だから、という話ではありません。

誰と、どう仕事を組むか。

それを曖昧な言葉ではなく、具体的な設計として考えていく。

「協力的」
という幻想に流されず、関係性そのものを、もっと言葉に、カタチにしていく。

そうした視点こそが、企業にとって意味のある“協力関係”を育てていくのではないでしょうか。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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02174_見えないものをミエル化する知恵_ファミリービジネスにおける事業承継の「段取りと視点」

事業承継の現場には、法務だけでは語りきれない
「感情のもつれ」
がつきものです。

親子間のわだかまり。

兄弟姉妹の不公平感。

義理の家族との距離感。

たとえば、長男に会社を継がせると決めていた父親が、いざ引退の時期が近づいてくると、急に決断を先送りにしはじめる。

あるいは、会社を手伝ってきた長女が、いくら貢献しても
「経営は男がやるものだ」
と言われてしまう。

このようなケースは、法的な契約や制度設計だけでは処理できません。

なぜなら、問題の本質が
「法」
にあるのではなく、
「気持ち」
にあるからです。

それでも、会社の所有や経営は、制度やルールにのっとって進めなければなりません。

ここで求められるのは、感情のゆらぎと、法的な白黒を、適切に切り分けて設計する力です。

要するに、感情の話と、制度の話とを
「分けて」
扱うこと。

そして、両者を
「行き来できる道筋」
を、あらかじめ設計しておくことです。

ファミリー企業では、
「言わなくてもわかるだろう」
「わたしが我慢すればいい」
といった思い込みや自己判断が、しばしば意思疎通の妨げになります。

その結果、あとから不満が噴き出すのです。

現場で支えてきた弟と、手続きを進めた兄のすれ違い

たとえば、こんなケースをイメージしてください。

地域の庭園づくりや緑地管理を手がける造園業。

父親がケガをして余儀なく引退となったため、経営を引き継いだ兄弟がいます。

若くから父親と仕事を共にしてきた兄は、経営を継ぎ、事務と経営を回してきました。

弟は、30代から携わるようになったとはいえ、年配の職人たちからの受けも良く、50代となった現在はベテラン職人として、木にも石にも詳しく、現場では頼られる存在です。

兄は、公共工事の減少や人手不足の影響を強く感じていました。

将来的には、造園業からは手を引き、会社の敷地を活かしてアパート経営に移るつもりでした。

弟はというと、若いころに家を飛び出し、音信不通の時期がありました。

親に心配ばかりかけていた弟は、兄にも負い目がありました。

それだけに、再び現場に戻れた今、
「働けるだけで、もう十分」
と自分に言い聞かせていました。

そして、父親が入退院を繰り返すようになります。

兄は事業承継の手続きを進めるなかで、株式はすべて自分の子に譲る方針を固めました。

弟には
「現場は任せるけど、株は持たせない」
と決めたのです。

弟は表向き、何も言いませんでした。

けれども、父親の喪が明け、古い社員と二人きりになったとき、ぽつりと本音を漏らします。

「親父を優先させただけなのに。俺やっぱり門外漢なんだな」

実は、兄は、弟と話し合いの場を何度も設けようとしましたが、弟は
「見舞いが先だろ。すべて兄貴に任せる」
と言い放ち、毎日仕事終わりに父親の病院に通っていました。

このような経緯もあって、兄は淡々と父親の死後を見据えて手続きをすすめたのです。

承継計画の内容は、合間をぬって、何度も弟に説明しましたし、議事録も、経営計画も、書面で整っていました。

それでも、弟には、
「自分は蚊帳の外だった」
という気持ちが、残ってしまったようです。

要するに、
「共有されていた情報」
と、
「共有されたという実感」
とは、まったく別ものだったのです。

気持ちの整理と、手続きの設計は、別々に行う

制度面では冷静に、事務的に。

感情面では丁寧に、くり返す。

両者を1つの会話に押し込めてしまうのではなく、場面や手段を分けて設計していく必要があります。

制度の話をする場では、書類を使い、議事を残す。

感情の話をする場では、時間を取り、第三者を交える。

そのように分業するだけでも、
「話がややこしくなる」
ことをかなり防げます。

怒りや後悔の爆発を、未然に防ぐ“予告型”の工夫

感情がこじれる理由の多くは、
「唐突に知らされた」
と感じることが一因です。

内容ではなく
「タイミング」
が問題になることが多いのです。

これは、事業承継のあらゆる場面で起こります。

たとえば、父親から
「来月の株主総会で社長をおまえに代える」
と突然言われた長男が、プレッシャーで夜眠れなくなる。

妹からは
「どうして私には事前に話してくれなかったの」
と詰め寄られる。

こうした混乱は、あらかじめ
「何が、いつ、どう決まっていくのか」
という全体の流れを、予告型で示すだけでも、大きく軽減できます。

いわば、
「気持ちを追いつかせる時間」
を用意するのです。

その意味で、感情のもつれは
「法的な問題」
になる前に、段取りとして
「ミエル化」
しておく必要があるとも言えるでしょう。

「感情」と「制度」のあいだに、道を通しておく

設計したことを、実際の現場に落とし込むには、丁寧な段取りが必要になります。

事業承継にまつわるご相談は、たいてい
「問題がこじれてから」
来られるケースが大半です。

一方で、上手に事業承継を進めている企業ほど、
「こじれる前」
に相談していただいています。

企業によっては、こうした段取りの設計そのものを弁護士に任せるケースもあります。

対応のタイミングは、企業や家族の状況によってさまざまですが、一例として、次のような段取りを事前に意識しておくと、こじれを防ぎやすくなります。

・まず、ある段階(※これは企業や家族ごとに異なります)で必ず一度、家族全員と対話する機会をつくっておく
・税務上の論点が出てきそうな場面では、必要に応じて顧問税理士とも連携しておく
・感情面の合意がむずかしいと感じる場面では、無理に言葉でまとめず、文書で確認を残す

たとえば、次のような対応を組み合わせると、さらに具体的な備えになります。

・話し合いの場を設けたが、誰かが欠席した場合は「出席できなかった経緯」を記録に残す
・“言った・言わない”が起きがちなテーマ(墓守、退職金、代表権の時期など)には、専用のメモをつくり、合意と未決事項を分けて書いておく
・「気をつかって言い出せないこと」が起こりやすいタイミング(法事、相続登記前、施設入所など)では、あえて第三者を“話の交通整理役”として位置づけておく

これらはすべて、
「あとから見えるようにしておく」
ための段取りです。

感情をなだめるというよりも、感情がすれ違う前に、情報の通り道を先に作っておく。

つまり、“感情が噴き出す地点”を予測し、その部分だけでも
「ミエル化・カタチ化・文書化」
しておくのです。

要するに、感情が爆発する前に、“カタチ化”しておくこと。

あとからモメめないように、最初から
「モメめそうなところ」
に目を配っておくこと。

制度と感情を分けて考える。

それは、見えないものを
「ミエル化」
する第一歩です。

そしてもう1つ、大切な視点があります。

こうした段取りをあらかじめ整えておけるのは、たいてい、少し引いたところから自分たちを見つめる余裕があるときです。

ところが、いざそのときになれば、当事者であるかぎり、自分のこと、家族のこと、会社のことほど、実は見えていないことが多いものです。

当事者には見えないものを、誰が、どこから見ておくか。

感情に巻き込まれすぎない距離から、静かに観察すること。

その視点を、どこかにそっと組み込んでおくこと。

「ミエル化」
とは、ただの記録や制度設計ではありません。

見えないものを
「ミエル化」
していく知恵は、感情と制度が交差する現場において、ほんとうに意味のある“手続き”を可能にしていくのです。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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02173_見えないものをミエル化する知恵_議事録に署名があっても、責任の所在は見えない

うなずいていたから、理解していた”のは、本当か?

たとえば、美術館の展示会で、音声ガイドを聞きながら歩いている人がいます。

黙ってうなずきながら、説明に耳を傾けている。

けれども、その人が展示内容を本当に理解しているかどうかは、外からは見えません。

「うなずいていたから、理解していたはず」
とは、言い切れないのです。

さて、美術館で音声ガイドを聞いている人は、その内容をもとに何かを判断したり、責任を問われたりするわけではありません。

理解していなかったとしても、大きな問題にはなりません。

ところが、企業の意思決定の場では、そうはいきません。

会議に出席した以上、何が話され、どのような判断が求められたのか――

その場での理解は、
「判断したかどうか」

「その責任を引き受ける意思があったかどうか」
に直結します。

とはいえ、実際には、なんとなく流していたり、雰囲気で相槌を打っていたりすることも、ないとは言えません。

そして、周囲は
「理解していたはず」
と思い込んでしまう。

このような“外からは見えない理解”という構造は、企業の中では、もっと厄介なかたちで現れます。

社内会議の場では、この誤解がすれ違いを生んでも、
それと気づかれないまま時間が過ぎ、
事態が悪化してからようやく判明し、
最終的には、弁護士のもとに相談が持ち込まれる――

実は、そんなケースは、決して珍しくありません。

異議を唱えない――それは、判断し責任を取るという意思表示か?

ある会社で、M&Aの検討委員会が開かれていました。

議題は、事業を軌道に乗せたばかりのIT企業を買収するかどうか。

資料には、財務状況・法的リスク・買収スキーム案などが整然と並んでいます。

メンバーには、社内の事業部長、財務・法務担当役員に加え、社外取締役も顔をそろえています。

進行役が言います。
「一通り説明をしました。リスクも想定内ということで、先に進めてよろしいでしょうか?」

数秒の沈黙。

誰も異を唱えません。

進行役はうなずき、こう締めくくります。

「ご異論がなければ、この方向でまとめさせていただきます」

議事録が作成され、出席者の署名と押印がそろう。

その会議は、形式的には“円満に”進んだことになります。

ところが、その
「沈黙」

「押印」
は、ほんとうに
「内容を理解したうえで、自らの判断として意思表示した」
ことになるのでしょうか。

その場にいた一人は、こう感じていたかもしれません。
「法務の論点は難しくて、正直ついていけなかった」
「そもそも、買収先の事業内容をよく知らない」
「でも、他の人が何も言わないから、自分も黙っていた方が無難だろう」

こうして、
「その場で異議を唱えなかった」
という事実だけが残り、それが
「理解したうえで判断し、その責任を引き受けた」
と見なされてしまう。

――このズレこそが、組織の“見えないリスク”を生み出していくのです。

署名・押印が意味すること、意味しないこと

会議の場では、何かが
「決まった」
ように見える瞬間があります。

たとえば、
「ご異論がなければ、この方向でまとめさせていただきます」
と議長が言い、誰も異議を唱えないまま、議事録が整えられ、出席者全員が署名・押印する。

その場に立ち会った全員が、
「一応、まとまった」
と感じるかもしれません。

けれども、それは本当に、
「それぞれが理解し、判断し、その判断に責任を持つ」
という意思表示になっているのでしょうか?

気をつけたいのは、署名や押印があるからといって、それだけで
「同意した」
と判断するのは、早計だということです。

実際、署名や押印は、あくまで
「そこに居合わせ、会議が行われた」
ことの形式的な確認にすぎません。

その内容を本当に理解し、リスクを踏まえたうえで意思決定に加わったのか――

そうした“内面の判断”までは、署名や押印からは読み取れないのです。

たとえば、議事録の確認が会議の翌週にメールで回ってくる。

他の業務に追われていた出席者は、
「まあ、特に問題なさそうだ」
と流し読みし、内容まで検討せずに署名する。

このような“事務的な動作”が、のちに
「本人の判断が加わっていた」
「協力的だった」
と誤解される。

まさに、ここにリスクがあります。

形式がそろっているから、内容も合意されているはずだ――

そう思い込んでしまうことで、組織の合意形成は
「ミエルようで見えない」危うさ
をはらんでいきます。

形式と実質のズレが、あとから火を噴く

M&Aの検討会議から数か月後。

買収先企業の財務状況に、予想を超えるリスクが潜んでいたことが明らかになり、プロジェクト全体が凍結される事態となりました。

副社長は言います。
「各部門が出席して、誰も異議を唱えなかった。正式な手続きを経て、全会一致で承認されたはずだろう」

しかし、ある出席者がこう答えるのです。
「実は、自分はリスクの意味を十分に理解できていませんでした。
あのときも、判断を保留したまま沈黙していました」

形式上は“決定された”ことになっていた案件。

しかし、ふたを開けてみれば、
「誰が何を理解し、どのように判断したのか」
が不透明なまま、前に進められていただけだったのです。

――このようなズレが、組織にとっては、致命的なダメージに直結することがあります。

“判断と責任”を支える設計――意思形成プロセスの精度を高めるために

「納得していたかどうか」
は、たしかに主観的なものであり、外からは見えません。

だからこそ、主観に頼らず、
「理解し、判断し、責任を引き受ける意思があったのか」
を読み取れるような設計が必要です。

意思形成のプロセスに、あらかじめ“ほぐし”や“問い直し”の構造を組み込むことで、後からでも
「誰がどこまで理解し、どのように判断に関与したのか」
をたどれるようになります。

たとえば、次のような意思形成プロセスの確認手順をあらかじめ組み込んでおくことで、のちに
「誰がどの範囲をどう判断し、どの責任を担ったか」
を読み解く足がかりになります。

・会議のまとめ役が、「ご異論ありますか?」と全体に問いかけるだけでなく、
 「〇〇部長、この論点についてはどうお考えですか?」と個別に確認する。
 ――形式的な同意ではなく、各人の“判断のプロセス”を引き出すために。

・参加者が「即答できない」ことを自然に表明できるよう、
 「判断保留」や「条件つき了解」といった立場を許容する場の設計を行う。
 ――イエスかノーかに単純化させない、判断のグラデーションを認める設計。

・議事録に「確認コメント」や「留保事項」を記録するスペースを設ける。
 ――たとえば、「〇〇氏は、法務的リスクの全容については判断を保留した」と記録する。

こうした工夫のすべては、単なるチェックリストではありません。

組織における“理解と判断”の所在を、可視化するための仕組みなのです。

うなずき、署名、沈黙。

それらが、あたかも“納得し、判断し、責任を持った証し”であるかのように解釈される。

実際には、そこに判断のプロセスがあったのかどうかは、記録されていなければ見えません。

だからこそ、意思形成のプロセスそのものを可視化し、記録に残すことが不可欠です。

 「うなずいた責任」を、どう担保するか

意思形成の過程では、
「判断し、責任を引き受ける」
というプロセスを、あらかじめ設計しておく必要があります。

たとえば、
・この範囲は法務がリスク検証済みだが、事業上の可否は経営判断に委ねた――といった分担の明確化。
・理解不足のまま判断に参加させないための、事前説明や別途面談の制度設計。
・その場で黙っていた者に対し、あとからフォロー確認をとる慣行の整備。

こうした仕組みが整ってはじめて、
「その場でなされた判断は、誰がどこまで理解し、どこまで責任を持つとしたものだったのか」
が、あとからでも読み取れるようになります。

形式ではなく、実質としての責任所在。

それを支えるのが、法務が担うべきプロセス設計の本質なのです。

判断と責任が、あとからでも見えるように

「言わなかったから納得していた」
「署名していたから理解していた」
そのような“見えない前提”に合意を預けてしまえば、後日、何かが起きたときに、その合意は根元から揺らいでしまいます。

だからこそ、重要なのは――
形式ではなく、プロセスを見直すこと。
沈黙に委ねるのではなく、確認の手続きを設計しておくこと。
そして、関係者一人ひとりが、どこまで理解し、どの範囲を自らの判断として引き受けたのか。

その“理解と責任の所在”が、あとからでも読み取れるように記録を整えることです。

問うべきは
「何を決めたか」
ではなく、
「どうやって、誰が、その決断にたどり着いたか」。

 “見えないもの”を見えるようにする――
すなわち、
「ミエル化の知恵」
であり、ミエル化は、信頼のインフラなのです。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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02172_見えないものをミエル化する知恵_株主総会の議事録が無効になるとき_“納得のプロセス”をどう残すか?

企業では、
「理解しました」
という言葉がよく交わされます。

それがそのまま
「同意があった」
と受け取られてしまうことも、少なくありません。

しかし、法務の立場から見ると、
「理解=同意」
とは限りません。

たとえば、
「Aという事実があったことは理解している。でも私はそれに納得していないし、同意もしていない」。

こう言われてしまえば、
「理解していたはず」
と反論しても、もはや意味をなしません。

なぜなら
「理解」
とは、知識や認識の確認であり、
「同意」
とは、意思や判断の表明だからです。

似ているようで、まったく別もの。

根本がちがうのです。

にもかかわらず、
「署名したからOK」
「押印したから問題ない」
「無言だったから納得していた」
というのは、都合のいい解釈にすぎません。

中小企業の株主総会において

たとえば、上場していない中小企業で、株主が親族や旧知の関係者に限られている場合――株主総会も、どうしても
「形式より空気」
で進んでしまう傾向があります。

けれども、株主総会の議事録は、会社法にもとづく正式な文書。

つまり、そこで何が行われたかを記録する
「法的な事実」
です。

中小企業では、以下のような流れが、実務上よく見られます。
・議案があらかじめ決まっており、議事進行が形式的に進む
・あらかじめ用意された「議事録案」を、出席株主に配布
・「異議なし」という無言の承認の後、その場で押印
・押印済み議事録を保存し、コピーを後日郵送する

こうした進め方は、
・株主が一堂に会するのは年に一度きりという事情や
・その場で押印をとっておくことで、後日の異議申立てを防ぎたいという意図から
実質的に
「議事録を読む → 異議なし → 押印」
という流れが、半ば儀式化しているのです。

そこに署名・押印があれば、
「総会の内容に異論がなかった」
と見えるかもしれません。

しかし、それはあくまで“体裁”にすぎません。

「異論が出なかった=同意があった」
と見なすのは、法的にみれば、少し乱暴な解釈と言わざるを得ません。

実際、あとになって次のような声が上がることは、決して珍しくありません。

「議事録の内容が読み上げられていなかった」
「説明がよくわからなかったが、場の空気で印を押しただけ」
「押印はしたが、話の流れに納得していたわけではない」
「読み込む時間が与えられていなかった」
「確認の余地がないまま、署名を求められた」

こうした事情が明らかになれば、たとえ形式が整っていても、
「正当な意思確認があった」
とは言いきれなくなるのです。

押印がそろっていても、無効になることがある

実際、議事録に署名・押印があっても、意思表示のプロセスが不透明であれば、あとから
「決議は無効だ」
と訴えられることがあります。

ある事件では、株主総会が開催されたとされる当日の議事録に、出席者全員の署名と押印がそろっていました。

被告側は
「総会は適法に開催され、押印もある。したがって手続は正当である」
と主張しました。

しかし、裁判所の判断は異なりました。

当日の招集通知が送られた事実を示す記録はなく、議事の詳細な説明もありません。

さらに、署名・押印をしたはずの株主が
「その内容について十分な説明を受けた覚えはない」
「後日、印を押した」
と証言したのです。

裁判所は、
「たとえ署名・押印がなされていても、それだけで総会の手続が適正に実施されたとはいえない」
とし、株主総会の決議の取消を認めました。

この判決が示しているのは、署名や押印はあくまでも“形式”であり、それだけでは同意の真正性を裏づける証拠にはならないということです。

ひとことでいえば、関係性に甘えないこと

では、企業はどう備えるべきでしょうか。

ひとことでいえば、関係性に甘えないことです。

要するに、確認の“プロセス”をきちんと見えるカタチで残しておくことです。

誰が、いつ、何を理解し、どう同意したのか、そのプロセスに“納得の跡”があったかをミエル化することです。

たとえば、
・議事録案は事前に配布し、「内容を確認しましたか?」と口頭で問いかける
・「具体的に、どこか違和感や不明点はありますか」と聞く
・「特に異議がないということで、よろしいですね」と念押しする
・そのうえで、署名・押印をしてもらう
・そのやりとりも、議事録や備忘録に記載しておく
・署名・押印は「理解の上での同意である」と明示して行う

こうして、
「確認して同意を得た」
というプロセスをミエル化しておく。

これが、のちに
「意思の真正性」
を説明するための下支えになります。

トラブルの多くは“過程”のあいまいさに潜む

トラブルの多くは、ほんの小さな行き違いから生まれます。

「そんなつもりではなかった」
が火種になる前に、その過程を“ミエル化”しておくこと。

これが、法務の役割です。

多くの現場では、時間の制約があります。

空気を読んで、そのまま書類にサインすることもあるでしょう。

承認も予定調和で進むことが少なくありません。

しかし、そうした流れの中で押されたひとつの印が、後になって
「同意していなかった」
と否定される。

これは、実際に現場で起きていることです。

過程がミエル化されていなければ、手続きは
「整っていたはず」
と言えたとしても、リスクの芽は残ります。

形式は整っていても、過程が問われる――そのことを忘れてはいけません。

企業は“意思の記録”を、プロセスの中に残しておく必要があるのです。

形式ではなく、過程が問われる

議事録に署名や押印がそろっていても、それだけで
「同意があった」
とは言いきれません。

形式が整っていれば問題ない――そう思いたくなる気持ちはわかります。

けれども、企業の現場で起きているトラブルの多くは、
「確認の過程」
が曖昧だったことに根があります。

意思を示した“瞬間”をきちんと残しておく。

誰が、いつ、何を理解し、どう同意したのか。

その
「納得のプロセス」
を、あとから見えるかたちで確認できるようにしておくこと。

これは、何も特別な対策ではありません。

法務の視点から見れば、企業を支えるための、ごく基本的な“心がけ”なのです。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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02171_修正申告は企業法務の落とし穴_“収益の帰属”を見誤った善意の訂正が招いた結末

「修正申告=正しい対応」とは限らない

税務の世界には、誤りを正すための
「修正申告」
という制度があります。

たしかにこれは、制度として当然のものと言えるでしょう。

実際、多くの企業が、税務署から指摘を受けては、すぐに修正し、納税し直しています。

ところが、そこには落とし穴が潜んでいます。

そもそも修正申告とは、あくまで
「自発的な訂正」
として扱われるものです。

税理士や会計士の指示に従って修正申告を行ったはずなのに、あとになって
「これは自白だ」
「認識があった」
と見なされてしまうことが、実際にあります。

問われているのは、単なる税務処理の是非ではありません。 

「副業」のつもりが“隠ぺい”と見なされたケース

あるIT系の受託開発会社は、創業当初こそ社長(エンジニア)と共同経営者、デザイナーの3名体制でしたが、法人との契約案件を軸に事業を拡大し、次第に社内外のエンジニアを数多く抱えるまでになっていきました。

そして、社内ではリソースのやり繰りに追われるほどの状況となっていたのです。

一方で、創業当初の収益を少しでも補おうと、エンジニアのノウハウを活かして立ち上げた
「広告収益型の副業サイト」
が、数年のうちに密かに急成長を遂げていたのです。

動画解説やテンプレート素材、技術記事などを通じて、まとまった額の広告収入などが伸び続け、社内でも想定していなかったほどの売上になっていました。

この収益については
「本業とは切り離した個人の活動」
という認識のもと、法人とは分けて、代表者個人の口座や別名義で処理していました。

税理士からも
「副業扱いだから、それほど問題にならないでしょう」
と言われたまま、数年経過していました。

ところが税務調査で、法人の設備・人材・時間を使って収益を上げていた以上、
「実態としては法人の収益ではないか」
と指摘されたのです。

そこで、社長は税理士に相談し、その勧めに従って、広告収益の一部を法人売上に組み込み、売上に含める形で修正申告を行いました。

申告額は決して小さなものではありませんでしたが、
「これで事態は収まる」
と思いました。

忘れたころに、今度は国税局査察部、いわゆる“マルサ”が調査に入りました。

調査官はこう言いました。
「ご自身で修正したということは、最初から収益の帰属先を認識していたということですね?」

「誤りを正した」
つもりの修正申告が、
「意図的な認識があった」
と見なされ、最終的には
「故意の隠ぺいを認めた証拠」
として扱われてしまったのです。

信じがたい話でしょうが、それが実務の現場で起きているのです。

当時の社内には、副業の位置づけや判断過程を記した記録も残っていません。

どの契約書がどちらの事業に属していたのかも不明確で、判断の根拠がすべて“後出し”に見えてしまったのです。

税理士とのやりとりも口頭で済まされ、文書化されていませんでした。

その結果、修正の行為そのものが
「自白」
とみなされ、さらに、
「何も残っていない」
ことが
「隠ぺいの意思があった」
とみなされ、最終的に刑事告発にまで発展しました。

訂正する前に、法的構造を“見える化”せよ

このような現実は、企業にとって他人事ではありません。

税理士の助言に従った善意の訂正が、法的には刑事処分の対象と見なされてしまうこともあるのです。

まさに見落としがちなグレーゾーンです。

そして、こうした場面では必ず問われます。
「どのように判断したのか」
「どんな経緯でその決断に至ったのか」

その
「検証の仕組み」
がなければ、いくら主張しても通用しません。

修正するかどうかの判断は、単なる反省や道義ではなく、法的な構造と戦略性の有無によって決めるべきものです。

「税務署に言われたから」
「税理士がそう言ったから」
それだけを理由に動くことの危うさを、知らなければなりません。

そして、
「税務署の指摘・税理士の助言を、法務としてどう扱い、社内でどう再評価し、どのような記録を残すか」
という視点が不可欠なのです。

そこに目を向けなければ、たとえ外部の専門家が関与していても、最終的に刑事責任を問われるのは企業自身なのです。

突き詰めれば、問われているのは――税務そのものではなく、法務と専門職の関係性の構築なのです。

信じるのではなく、検証すること
従うのではなく、構造を理解すること
それを、記録化し、言語化し、判断過程の文書化すること

これが、企業を守るための最低限の備えです。

企業法務としての“防衛策”――記録の4点セット

端的にいえば、プロの言葉であろとも、鵜呑みにしないということになります。

具体的には、こうした事態を防ぐために企業として残しておくべき記録は、最低でも次の4点です。

(1)修正に至った背景に関する記録
(2)誰の助言に基づいたかの履歴
(3)社内でどのような検討をしたかの議事録やメモ
(4)訂正が及ぼす影響範囲の整理資料

記録を残すことで、仮に後日、調査や訴追があったとしても、企業として
「合理的な判断を下した」
「過失であった」
と立証できる環境を整えることができます。

要するに、記録があるかどうかで、
「経営判断だった」と言えるか、
「ただの自白だった」とされるか、
が決まってしまうのです。 

信頼ではなく、検証と構造理解が企業を守る

経営とは、常にリスク判断の連続です。

企業において
「善意の訂正」
は決して悪いことではありません。

しかし、たとえ善意の訂正であっても、法的には
「自白」
「隠ぺいの認識があった」
と見なされるリスクがあるということを知らなければなりません。

信じて鵜呑みにするのではなく、疑う
従うのではなく、「どう扱われるか」を検証する

経営における“法の構造理解”は、そこからしか始まりません。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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02170_記録を仕組み化する_記録文化をつくる設計思考

なぜ書かれないのか

ある管理部門で、予算修正に関する会議が開かれました。

議論は白熱し、最終的には
「部内で再検討のうえ、来週もう一度提案を出す」
という流れで着地しました。

ところが、次の週になって再びその話題が上がった際、出席者のあいだで意見が食い違っていました。

「そんな話だったでしょうか?」
「了承されたと思っていましたが・・・」
「再提出の結論だったはずです」

このように、記録が残っていなければ、前提そのものが揺らいでしまいます。

誰かが書いておけばよかった。

しかし実際には、誰も
「書くこと」
を役割として担っていなかったのです。

その結果、同じ議論をもう一度、振り出しからやり直すはめになりました。

このような場面は、日々の企業活動のなかで、決して珍しくありません。

属人化から、設計へ

なぜ記録が残っていなかったのか。

会議自体は正式な稟議ではなく、部内の打ち合わせにすぎませんでした。

議事録係がいるわけでもなく、メモはあっても個人が断片的に持っているだけでした。

つまり、
「必要だとは思っていたけれども、“書く”ことが業務の流れに組み込まれていなかった」
ということです。

組織の中に、記録を残す設計がなかったのです。

こうした事態を防ぐには、個人の責任や努力に頼っていてはいけません。
「書ける人」
がいるかどうかではなく、誰でも自然に“書くようになる”仕組みを整えることが大切です。

たとえば、次のような発想が必要です。

・会議の招集メールに、記録担当者の欄を設けておく
・業務報告テンプレートに「協議内容の要点」を記載する項目を加える
・打ち合わせのあとは、要点を簡潔にまとめたメールを送ることを業務フローに組み込む
・稟議の差し戻し理由を、必ず文面で記録しなければ再申請できない設計にする

このように、書く・残す・送る・共有する、それ自体が業務の流れの一部になるように設計するのです。

「あとで余裕があれば書こう」
ではなく、
「書くまでが一連の業務である」
という考え方です。

確認メールが未来を守る

ある企業では、幹部の人事異動の打診をめぐって、
「言った・言わない」
のトラブルが起きました。

役員会で伝えたつもりの内容が、人事部側には
「まだ決定ではない」
として処理が止まっていたのです。

関係者の信頼関係にヒビが入ったのは、言うまでもありません。

この件を受けて、その企業では
「確認メールを必ず送る」
というルールが生まれました。

内容は、
「本日〇月〇日の役員会において、次のコメントがありました」

という一文に、要点を2〜3行添える程度の簡易なものです。

しかし、それだけで誤解や責任のすれ違いが大幅に減ったのです。

記録が残っているかどうか。

それだけで、後日の立場や判断がまったく違ってきます。

あとから見返せる言葉があるだけで、過去の空気を再現できるのです。

文化”はつくれる

「記録文化がない」
と嘆く前に、見直すべきは業務の設計です。

記録する習慣が育たないのは、意識や教育の問題だけではありません。

書かなくても済んでしまう構造になっているからです。

たとえば、
「報告が口頭だけで済んでしまう」
職場では、記録は定着しません。

逆に、
「報告するには、必ず一行でも文字にしなければならない」
仕組みになっていれば、自然と“書く”という行動が根づいていきます。

要するに、文化をつくるのは“人”ではなく、“設計”なのです。

仕組みが行動をつくり、行動の反復が文化になります。

記録は防波堤になる

書いておく。
残しておく。
共有しておく。

これだけで、トラブルを未然に防げることがたくさんあります。

「言っていなかったこと」
が言ったことにされる。

あるいは、
「言ったはずのこと」
が、言っていなかったことにされる。

こうした場面で、たった数行の記録が意思決定の根拠として機能するのです。

“記録”というのは、ただの保存ではありません。

それは、未来の自分たちを守る手段でもあります。

書いておく”を、設計する

記録の仕組みを設計し、
「書くこと」
が個人の工夫ではなく業務の一部になるようにする。

そのうえで、残された文書が、次の意思決定へとスムーズにつながるように設計する。

こうして初めて、“書いておく文化”が根づいていきます。

個人に頼らない。
感覚に任せない。

「書ける人」
をつくるのではなく、
「書ける組織」
をつくる。

これが、“記録の仕組み化”という発想の出発点です。

そしてそれは、個人のリスク回避ではなく、組織の意思決定インフラになるのです。

企業活動において、地味だけれども決定的に重要な下支えなのです。

「意思決定インフラ」とは

端的にいえば、意思決定を正しく進める・守る・再現できるようにするための“情報の基盤”です。

たとえば、組織で何かを決めるときには、必ず
「背景」
「判断材料」
「検討プロセス」
「合意内容」
といった要素があります。

それらを記録せずに進めてしまうと、判断は記憶や感覚に頼ることになり、意思決定がブラックボックス化してしまいます。

あとから検証もできず、トラブルが起きても
「なぜそうなったのか」
が、たどれません。

だからこそ、次のような
「文書や情報が整備された状態」
が、組織の土台として機能するのです。

・会議の議事録(発言内容と合意点の記録)
・稟議や承認フローの履歴(誰がどこで判断したか)
・否決理由の記録(なぜ却下されたのか)
・メールやチャットでのやりとりの整理(言った・言わないの防止)
・プロジェクトや契約の経緯をまとめた報告やログ
・覚書や契約書のバージョン管理と保管

このような情報が整っていれば、
「過去にどう判断したか」
がすぐにわかります。

「前例」
に照らして、今の判断が妥当かどうかも見えてきます。

「なぜこう結論づけたのか」
を社内に説明でき、社外への説明責任にも応えられます。

これが、単なる
「記録」
ではなく、
「意思決定のインフラ(基盤)」
であるという理由です。

まとめにかえて

シリーズを通じてお伝えしてきたのは、
「記録」
とは、
「書いておく」
こと以上に、
「未来の自分や組織が、どう語れるか」
の準備であるということです。

ミエル化は、力です。

カタチにしておくことが、次の判断を生みます。

記録は、組織の思考と判断の積み重ねになります。

そして、その記録を
「仕組みとして根づかせる」
ことは、企業活動における設計思想の一つなのです。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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02169_確認メールはどこまで“証拠”になり得るか_“契約未満”の合意を文書に残す技術と視点

確認メールが“社内防衛”で終わっていないか?

私のもとに寄せられる企業法務の相談には、ある共通点があります。

それは、
「言った・言わない」
の泥仕合が、背景に潜んでいるということです。

その多くは、社外とのやりとりに起因しています。

取引先との協議、外部関係者との打合せ、委託先との折衝——

その場ではうまく進んでいたはずの話が、いつの間にか“言質の空白地帯”に変わってしまっているのです。

原因は、記録が残っていないこと。

あるいは、残っていたとしても
「社内宛」
の確認メールだけで終わってしまっていることです。

たとえば、こんなメール。
「A社との打合せ内容、さっきの説明でよかったよね?」
「担当役員の承認、取れてると思っていいですよね?」
「結局、調査するのはAさん? それともBさん?」

こうした社内向けの“防衛的な確認”メールは、たしかに実務上、一定の意味はあるでしょう。

しかし、それだけで終わってしまうのは、実にもったいないことです。

メールというのは、ただ確認するためだけのツールではありません。

それ以上に、
「未来のために、記録をカタチに残す」
という側面があります。

「備忘録」ではなく「証拠力をも持つ文書」を送るという発想

「確認メールはちゃんと送っておこう」
多くの会社で、若手のうちからよく言われる言葉です。

背景には、
「メールは記録に残る」
という理解があるのでしょう。

たしかに、社内のやりとりを記録として残しておくことは、後々の誤解や“言った・言わない”を避ける意味で重要です。

“備忘録的な使い方”も悪くはありません。

ところが、相手が社外である場合には、意味合いがまったく変わってきます。

それは、単なる備忘録ではなく、
「証拠の確保」
すなわち
「証拠力を持つ文書」
に変わるのです。

たとえば、発注の意思があったかどうか。

あるいは、契約書に明記されていない細部の取り決めが、現場でどう合意されていたか。

その判断材料として、やり取りされたメールが引き合いに出される場面は、法務の現場ではよくあります。

社内メールと社外メールの“証拠力のちがい”

社内メールがいくら出てきても、当事者が一方的に記録しただけでは
「相手が認めた事実」
とまでは言えません。

社内メールは、あくまで“社内でのメモ”。

法的には、独り言に等しい扱いとなってしまうのです。

一方で、社外の相手に送った確認メールはどうでしょうか。

たとえば、
「先日の会議では、〇〇について、御社の了承をいただいたと理解しております」
「もし相違がある場合は、遠慮なくご指摘ください」
というメールに対して、
「承知しました」
と返信があった場合。

そのやりとりは、“両者が合意していた証拠”として機能します。

相手の返事があることで、その内容が“凍結された事実”として文書に固定される。

このちがいを、ミエル化・カタチ化の視点から捉え直すことが大切です。

契約書がなくても、確認メールが“証拠”になることがある

企業間のやりとりは、たいてい
「契約未満」
のグレーゾーンにあります。

交渉中、調整中、提案中——
その段階では、まだ契約書という“山の頂上”には至っていません。

けれども、途中経過のひとつひとつを、“証拠としてつないでいく杭”のように残しておくことができます。

その手段が、確認メールです。

たとえば、ある企業のケース。

挨拶メールの末尾に、こう記されていました。

「先日の会議で合意いただいた〇〇の件、御社内でも確認のうえ、問題ないというご理解でよろしいでしょうか」

それに対して相手の返信メールには、
「先日の会議の件、問題ありません」
と追伸が添えられていました。

たったそれだけ。

しかし、そのメールが残っていたことで、“言った・言わない”の争いを未然に防ぐことができたのです。

確認メールは、契約未満のやりとりを
「証拠化」
する技術でもあるのです。

返信がない場合でも意味がある——黙示の承認という視点

確認メールを送っても、相手から返信がない。

こうしたケースも当然あります。

そのとき、
「返事が来なかった=意味がなかった」
とするのは早計です。

法務の世界では、
「黙示の承認」
「異議なき受領」
という考え方が存在します。

内容に異議があるなら反応してほしい、という機会を提供しておけば、 “反応がなかった”という事実それ自体が、後に有力な判断材料になるのです。

たとえ返信がなくても、
「その時点で相手に送った」
「こちらはこう理解していた」
という証拠は残る。

それだけでも、送らないよりはるかにましなのです。

「契約未満、証拠以上」——確認メールの立ち位置

確認メールは、正式な契約書の代わりにはなりません。

けれども、裁判になったとき、記憶よりも記録、主観よりも文書が優先されるのが現実です。

法的にはこれを“準取引文書”と捉えることもあります。

形式的な契約には至っていなくても、やり取りの痕跡が文書として存在していれば、それは大きな意味を持つのです。

いわば——
確認メールとは、「契約未満、証拠以上」。

そんな立ち位置にあるツールなのです。

確認メールはいつ送るべきか

・打合せのあと
・電話で条件の了承があったとき
・ちょっとした決定がその場で出たとき

こうしたタイミングこそ、確認メールを送るべきタイミングです。

そして、大切なのは“セットで回収する”という視点です。

・相手が読んでくれたか
・認識の相違がないか
・必要であれば「ご返信いただけると幸いです」と添えること

たった1通のメールで済む話が、後で何日もかけて争うことになる。

だからこそ、“先に書く”という予防が、実務の世界では決定的な差を生むのです。

確認メールは“未来を守る”ための技術である

誤解されがちですが、確認メールの目的は、“気配り”でも、“お行儀”のためのマナーでもありません。

もちろん、礼儀を欠いてはなりませんが、本質はそこではないのです。

それは、
「未来に向けて、カタチを残すため」
の実務技術です。

今この瞬間に送ったメールが、2年後のトラブルを防ぐかもしれない。

この視点が社内に根づけば、日常のやりとりひとつひとつが、企業を支える土台になります。

「リスクは、見えているところから」
しか管理できません。

だからこそ、法務部門には、“見えるようにする”ための仕組みを社内に広げていく役割があります。

法務部門が率先して、
「確認メール文化」
を社内に根づかせていく。

それは、契約書をつくることと同じくらい大切な、
「未来の合意を見えるカタチに変える」
ための実務技術なのです。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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02168_議事録がなぜ“契約未満”であって“証拠以上”なのか_実務担当者が知っておくべき文書の真価

議事録は、契約書とちがって署名も押印もされていないことがほとんどです。

したがって、厳密な意味での
「合意書」
ではありません。

それにもかかわらず、実務の現場では、この議事録がときに
「契約書以上の意味」
を持つことすらあります。

それはなぜか。

どうして
「契約未満」
なのに、
「証拠以上」
の役割を果たすのか。

この一見矛盾するような構図に、組織実務の本質が見えてきます。

今回は、企業実務における議事録の位置づけについて、
「ミエル化・カタチ化・文書化」
という観点から、 実務的にひもといてみましょう。

契約書とはちがう「生きた事実」の記録

そもそも契約書というのは、交渉の末に
「合意した内容」
を、正式に文書に落とし込んだものです。

その意味で、契約書には
「合意内容がすべて」
だという前提があり、外に出ることも想定されています。

一方で、議事録は、交渉や協議の
「過程」

「前提」
が丸ごと記録されていることが多いです。

そこには、まだ固まっていない議論や、感情の機微、あるいはちょっとした合意の芽のようなものが含まれていることがあります。

要するに、議事録には
「議論の流れ」
が記録されているのです。

それは言い換えれば、“その場で交わされた議論という事実”であり、
「どんな文脈で何が語られたのか」
という証拠です。

なぜ“証拠以上”になりうるのか

たとえば、あるプロジェクトでのトラブル。

「言った・言わない」
で揉めたとき、議事録があれば、
「その場で何が共有されていたか」
がはっきりします。

もちろん、それは
「契約」
としての拘束力はありません。

しかし、意思決定のプロセスに沿った同席者の
「共通認識」
として、非常に強い力を持ちます。

もっと言えば、同じ会議に出席していた複数人の
「了解事項」
がそこに残っていれば、それは
「黙示的な合意」
を裏づける証拠として機能します。

議事録は、たしかに
「合意文書」
ではありません。

それでも、それを読み返せば、
「あの場では、こういう前提が共有されていた」
ということが、明確な証拠として、動かしがたい形で立ち上がってくるのです。

これこそが、
「契約未満」
なのに
「証拠以上」
と言われる所以です。

書いておけば、
「その時点のリアルな空気」
が記録されるのです。

議事録の効力は“凍結された時間”の中にある

議事録の力は、その瞬間の時点の記録であることです。

つまり、それが書かれた
「そのとき」、
どんな認識が、どんなメンバーの間で共有されていたのか。

それが、あとから再現できる。

これは、法務の実務感覚で言えば、
「その時点の認識を文書で固定する」
行為です。

たとえるなら、
「時間を凍結させる」
ようなものです。

言葉を変えれば、
「フローの事実をストックに変える」
ことともいえます。

フローで流れていく議論、口頭のやりとりを、ストック=残るものとして可視化する。

これが議事録の本質なのです。

そして、組織にとっての真価はここにあります。

すなわち、
「いつ(When)、どこで(Where)、誰が(Who)、何を(What)、なぜ(Why)、どのように(How)、(いくらで(How much))言ったのか」(5W2H)
という
「瞬間の記録」
が、後日の意思決定や責任追及の拠り所となるのです。

ミエル化・カタチ化・証拠化の起点になるということです。

議事録に求められるのは、正確さよりも“意図の反映”

もちろん、発言の一字一句が記録されている必要はありません。

むしろ、その場にいた人たちが
「たしかに、そんな流れだったね」
と思える納得感のある内容が重要です。

「客観性」
よりも、
「納得性」
が重視されるのが、議事録という文書の特性です。

たとえば、強めの反対意見があったのに、それが記載されていないと、後からその人が
「言ってないことにされた」
と感じてしまいます。

これは、後日の火種にもなりかねません。

一方で、細かく書きすぎて混乱させてしまっては本末転倒です。

事実と意図、そして空気感。

この3つをどう
「ミエル化」
するかが、腕の見せどころです。

「記録しておくこと」が組織を守る

議事録があるだけで、
「言っていなかったこと」
が言ったことにされるリスクは減ります。

逆に、言ったはずのことが、言っていなかったことにされる危険も回避できます。

これは、単なる証拠としてではなく、
「記録の習慣」
が組織にとっての安全網となっている、ということです。

書いておく。
残しておく。
見えるカタチで共有しておく。

これだけで、組織の意思決定やトラブル対応の地盤が、格段にしっかりしてくるのです。

「契約未満」だけど、「無視できない」
それが議事録のポジション

議事録というのは、法的に強制力を持たないこともあります。

しかし、それが組織内外で
「どれほど共有され、参照されていたか」
によって、それ以上の力を持つことがあります。

要するに、
「合意されていなくても、共有されていた」
ということが、結果として強い証拠になり得るのです。

それが議事録という文書の、絶妙な“立ち位置”です。

明文化されこそいないが、現場では重要なニュアンスの違いを理解しておくと、 書き方も、活かし方も、ひと味変わってくるはずです。

議事録は、書くだけでは半分。

議事録の真価は、
「残し方」
ではなく
「活かし方」
にあるのです。

どう「残し」、
どう「読まれるか」
までを考えてこそ、
「証拠以上」
の力を持つのです。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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02167 _“言った”“言わない”の地獄から抜け出す技法_「信じるな」から始まる、トラブル予防の技術

「そういう意味では言っていない」

「いや、間違いなくそう聞いた」

この手のすれ違いは、企業活動の至るところで発生します。

そして、厄介なことに、どちらかが意図的にウソをついているわけではないことも多いのです。

むしろ、双方が
「自分の記憶こそ正しい」
と、本気で思い込んでいるのです。

そこにこそ、最大の落とし穴があります。

記憶は、最も不確かな情報源である

人間の記憶というのは、実に曖昧です。

人間の判断もまた、驚くほど不確かです。

にもかかわらず、私たちは
「たしかに言ったつもり」
「たしかに聞いたはず」
という“つもりの会話”で、日々の業務を進めてしまっています。

たとえば、こういうことが起きます

内装工事の仕様を、社内会議で打合せたとしましょう。

その場で、担当者は
「壁はグレーでいこう」
と発言したつもりになっていました。

ところが発注側の責任者は、
「白に寄せたほうが良い」
と聞き取っていました。

しかも、互いにメモまで取っていたのです。

ただし、色番号の共有はなされていませんでした。

どちらも、間違ったことを言ったつもりはありません。

どちらも、はっきりと覚えているのです。

そして、完成直前になって
「いや、白じゃなかったのか?」
「いえ、グレーで決まっていたはずです」

やりとりは、次第に
「どちらの記憶が正しいのか」
という水掛け論になっていきます。

ここで問題が収まれば、まだいいほうです。

この色指定のすれ違いが、発注先の施工会社を巻き込み、壁の張り替え、工程のやり直しへと発展します。

最終的には、納期の遅れにつながります。

納期遅延に怒った顧客が
「違約金を請求する」
と言ってきたとしたら――

はじまりは、ただの“記憶のずれ”だったにもかかわらず、企業としては、数百万円単位の損害賠償リスクに直面することになるのです。

会議、打合せ、口頭の説明、電話応対――
どれも記録されていないにもかかわらず、何となく成立した気になっているのです。

しかし、それらの“つもり”が破綻したとき、どうなるでしょうか。

企業は、損害賠償請求を受けます。

プロジェクトは、止まります。

部署間の信頼は、崩れます。

では、どうすればよいのでしょうか。

「自分を信じるな。他人はもっと信じるな」

この姿勢が、すべての出発点になります。

「信じていたから説明しなかった」
「信頼関係があるから記録は省略した」

それでは、何の対策にもなりません。

信頼関係とは、あくまで主観です。

法務の世界で必要なのは、
「信頼」
ではなく、
「証拠」
です。

信じないから書く。

疑うから残す。

会議のあとに議事録を送る。

電話で説明したことは、必ずメールでフォローする。

口頭の合意は、文書で再確認する。

そして、すべてに履歴をつけておくのです。

こうした記録の習慣は、決して
「相手を疑っているから」
ではありません。

「信じてしまう自分自身を疑う」
ために行うのです。

記録する会社が、生き残る理由

記録文化のある企業は、トラブルに強いです。

逆に、こうした文化が根づいていない企業は、同じミスを繰り返します。

その違いは、
「自分の記憶」
にどれだけ懐疑的になれるかという一点に尽きます。

「気心が知れているから、あえて書かない」
「今さら言語化するのは失礼かもしれない」
――こうした気遣いが、最も危険なのです。

むしろ、
「信頼していないからこそ書く」。
「失礼のないように、きちんと残す」。

そういう姿勢こそが、信頼の本質を守るのです。

では、どんなところから始めればよいのでしょうか。

たとえば、次のような動きを習慣化するだけで、“地獄”は大幅に遠ざかります。

・会議の議事録は、その日のうちに共有する
・電話の内容は、メールで即フォローする
・契約外の依頼には、文書で確認をとる
・決裁の判断には、履歴付きで記録を残す

記録することは、相手への配慮でもあるのです。

「検証できる仕組み」が、唯一の脱出口

「言った・言わない」
の地獄に堕ちる企業には、共通点があります。

・記録がない。
・言語化していない。
・文書が残っていない。

だからこそ、私はこう考えます。
「人を疑っているのではない。人間という仕組みを疑っているのだ」
と。

「自分の記憶」は信用しません。
「相手の記憶」も、同じように信用しません。

この“疑いの視点”こそが、
「言った・言わない」
の地獄に堕ちないための、唯一の武器になるのです。

記憶は変わります。

感情はねじれます。

信頼はすり減ります。

だからこそ――
記録する。

言語化する。

ミエル化・カタチ化する。

信じるな。記録せよ。

信頼ではなく、記録で守るのです。

記憶ではなく、データで検証するのです。

「信じる」
より、
「疑い続ける」
ことこそが、企業の知的防衛線になるのです。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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02166_民事裁判のリアル_裁判官は書面しか読まない

民事裁判というと、テレビドラマのようなシーンを思い浮かべる方が多いかもしれません。

大きな法廷で、当事者が感情をぶつけ合い、証人が泣きながら語り、最後に裁判官が
「判決!」
と声を張り上げる――そんなイメージを持たれている方にとって、実際の民事裁判は驚くほど静かで、そして淡々としたものに映ると思います。

なぜなら、民事裁判の主戦場は
「言葉」
ではなく、
「文章」
だからです。

要するに、民事裁判は、基本的に
「筆談」
で進むのです。

法廷に立つといっても、口頭でどんどん話すわけではありません。

当事者の主張は、すべて
「訴状」

「答弁書」
といった書面にまとめられ、裁判官はその文書を丹念に読み込み、そこに書かれた事実や主張を整理したうえで判断を下します。

つまり、裁判というのは
「書いたもん勝ち」
なのです。

もちろん、
「書けば何でも通る」
という意味ではありません。

裁判所が納得するような論理と、裏付けとなる証拠が揃っていてはじめて、書いたことが
「意味を持つ」
ようになります。

逆にいえば、いくら真実を語っても、それが書かれておらず、証拠も示されていなければ、裁判所は何も判断できません。

ある控訴審で
「意見陳述をしたい」
という要望が出されたケースがあります。

裁判所からは
「できればご遠慮ください」
とやんわり拒否されました。

これもまさに、民事裁判が
「筆談」
を重視する仕組みのあらわれです。

当事者の熱い思いや心情は、裁判官にとっては
「ノイズ」
になり得るのです。

たとえるならば、裁判官というのは、ものすごく食が細くて、好みがはっきりしている
「美食家」
のような存在です。

その美食家に向かって、何でもかんでもてんこ盛りの大皿を差し出すと、逆に嫌がられてしまいます。

だから弁護士たちは、その裁判官の嗜好にあわせて、丁寧に一皿ずつコース料理のように主張や証拠を
「盛り付け」
ていくのです。

ここで大切なのは、
「何を言うか」
以上に、
「どう言うか」
「どんな順番で出すか」
「どんなカタチにするか」
ということです。

裁判官が最も知りたいことを、最初に、わかりやすく提示し、そのあとで補足を加える。

盛りつけが整っていて、食べやすい順番になっていれば、食の細い裁判官も、完食してくれる可能性が高くなります。

民事裁判では、証拠も重要です。

もちろん、それも書面で提出されます。

証人尋問や口頭の説明は、基本的には例外的なものですし、控訴審ともなればなおさら、
「文章」
だけで決着がつくのが一般的です。

そのため、証拠の意味や背景も含めて、文章でしっかり説明することが求められます。

また、裁判官は
「当事者が言いたいこと」
ではなく、
「裁判官が知りたいこと」
にしか興味を持ちません。

これは、見落とされがちですが、実は裁判における核心です。

自分の思いや評価、解釈をいくら語っても、それは
「分をわきまえない行為」
として逆効果になる可能性があります。

あくまで、事実を冷静に語り、法の適用は裁判所に任せる――これが民事裁判の基本です。

「汝、事実を語れ。我、法を適用せん」

民事裁判の現場に身を置くと、この構図が本当によく見えてきます。

当事者に求められるのは、事実を丁寧に書き残すこと。

そして、弁護士とともに、その書き方や伝え方を工夫すること。

これこそが、裁判に臨むうえでの要です。

民事裁判とは、裁判官との間で交わす
「筆談」
です。

しかも、相手は食の細い美食家。

だから、伝えるべきことをしっかりと、過不足なく、そして嗜好に合ったかたちで届けていく。

これが、民事裁判を戦ううえでの、本質的なポイントなのです。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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