裁判所は、
「契約管理を含めきちんとしたトラブル予防措置をぬかりなく講じた慎重な人」
にとっては快適な場所ですが、
「ロクに契約書を読まずにサインしておきながら『裁判官が自分に都合のいい解決をしてくれる』という身勝手で過大な期待を抱いた方」
にとっては失望を大きくするだけの場所です。
「裁判官」
と
「裁判官によって運営される裁判所というお役所」
は、水道や道路や警察や図書館や公民館と同じく、われわれが安心して社会生活を送ることができるようにするために税金で運営されている貴重なインフラストラクチャー(社会基盤)です。
パソコンや携帯電話も取扱説明書をよく読まないとうまく使いこなせないのと同様、裁判所なり裁判官も、本来の用法に沿ったきちんとした使い方を理解しておくべきです。
法務部あるいは法務担当者としては、このような
「一見身近なようで、謎に満ちた現代の秘境」
ともいえる裁判所・裁判官について、紛争・有事状況のゲーム環境たる裁判システムを理解する上で、詳しくみていく必要があります。
なお、裁判所というものを理解するには、司法制度の歴史や、三権分立システムについてまで話が広がっていきます。
「建前論ばかりで眠くてつまんない公民の教科書」
のようにならないように、おもしろおかしく(?)かつリアルに、日本の国家運営システムの本質にも迫りつつ、謎に満ちた裁判所というお役所の実態を述べていきたいと思います。
1 「裁判官」も「検察官」も「霞が関の官僚」も、言ってみりゃ、皆同じ?
皆さんは、テレビの裁判報道等で、法廷の壇上で不景気で陰気な顔して、妙なマントっぽいものを羽織ったおじさんやおばさん(これが裁判官です)が出てきたりするのを見られたことがあるかと思います。
また、大きな政治疑獄や経済事件で東京地検特捜部が強制捜査を開始する際、スーツを着た集団が颯爽と政治家の事務所や大企業のビルに入っていく様子(強制捜査の際、ダンボールをもって突入しているのは、検察官ではなく、検察事務官ですが)が報道されるのも見られたこともあるでしょう。
このように、裁判官とか検察官といった存在は一応社会的に認知されているのですが、世間の認識の中では
「裁判官だか検察官だか知らないが、言ってみりゃ、どっちも、東大出てて、司法試験合格していて、地味なスーツを着て霞ヶ関で働いていて、小難しい顔して法律や事件の関係のことで働いてる人で、同じようなもんでしょ」
と思われているようで、両者を正確に区別できる方はそう多くはいらっしゃらないような気がします。
さらに言えば、裁判官も検察官も中央省庁に勤める行政官僚すらも、世間一般の認識においては
「法律に関して、何か難しそうなことやってる公務員」
という括りで一緒くたにされており、その違いがあまり意識されていないような気がします。
この現象は、世間一般に限りません。
不動産登記簿謄本を入手するために法務局にしょっちゅう出入りされているプロの不動産業者ですら、裁判所と行政機関との違いにあまり頓着されない方が結構いらっしゃいます。
実際、
「裁判所って、あれでしょ、ほら、九段のところにある登記簿謄本とかもらうところでしょ」
なんて調子で、東京法務局と東京地方裁判所をごっちゃにしておられる不動産業者の方を見かけたりします。
脱税や強引な節税のかどで刑事告発されたご経験をおもちの方などにおいても、税務調査官も国税不服審判官も検察官も裁判官も
「同じような地味な人」
という括りでしか認識しておられず、事件の過程で次々と登場するスーツを着たエラそうな公務員相互間の区別がつかない、という方も少なからずいらっしゃいます。
たしかに、裁判官も検察官も税務調査官も財務官僚も法務局登記官も、雑なイメージだけで語れば
「眼鏡かけてて、勉強できて、スポーツ音痴で、東大出てて、一緒に食事してもツマンナそうな、やたらと細かい、地味な役人」
として一緒くたにされてしまいますし、これら五者の外形上の区別は困難です。
しかし、裁判官とそれ以外(行政官)というのは、まったく違う運営理念を持つ組織で働いており、生態も思考も行動様式においても、顕著な違いが存在するのです。
そして、裁判官の思考と活動と実態に迫るためには、裁判官と行政官という
「似て非なる」
両存在の違いをきちんと理解する必要がありますし、そのためには三権分立の話をしなければなりません。
2 実は不効率で無駄が多い三権分立
皆さんは、小学校の社会の授業で、
「三権分立」
という概念を習ったことがあると思います。
こういうと
「あー、知ってるよ。立法権、行政権、司法権ね。そうそう、国会、内閣、裁判所。それそれ。そんなの常識じゃん」
という答えが返ってきそうです。
しかし、三権分立というシステムは、長い人類の歴史からみると非常識かつ不効率なものであり、
「新規で特異な国家運営技術」
と位置づけられます。
前述のように、現代の日本社会に暮らしているわれわれは、三権分立による国家運営は当たり前のように思っていますが、つい200年前までは、三権は明瞭に分離させられることなく、江戸幕府という単一機関が立法権も行政権も司法権も独占して保持し、統一的な指揮系統の下にこれらを運用していました。
すなわち、江戸時代においては、江戸幕府を代表する将軍が
「御法度」等
の法律を作り、その名において徴税や治安維持や公共工事といった行政活動を行うとともに、民事の揉め事の解決や刑事裁判は将軍指揮下の奉行所において行われていました。
国家の運営の責を担う幕府側からみると、現代日本で採用されている三権分立システム、すなわち
「国家運営機能を無理矢理3つに分割し、それぞれ別の指揮命令系統で動かす」
などという代物は無駄の極みであり、ほとんど狂気の沙汰に映るのではないでしょうか。
江戸幕府が、三権分立を採用しなかったのは、
「国家運営を統一的・効率的に行い、無駄を省く」
という自然かつ合理的な感覚によるもので、決して
「バカで時代遅れの超権力志向だったから」
ではありません。
例えば、時代劇等で出てくる
「奉行所」
は、刑事警察と公安警察と治安維持のための武装部隊と検察庁と裁判所をミックスしたようなところでした。
遠山の金さんなどを見たらおわかりかと思いますが、奉行という高級官僚は、司法警察官と検察官と裁判官を兼ねておりましたので、自分で調べ、自分で体験したことを判断の基礎にして、犯罪事実を認定し、刑罰を定めていました。
こういう制度の下では、裁判官は、気になったら自らとことん取り調べができますし、その取調べの結果に基づき絶対的な自信をもって事実認定ができますので、今の日本の裁判よりもはるかに緻密な司法を実現していたのかもしれません。
もし、遠山の金さんがタイムトラベルして、今の日本の刑事司法を見たとすると
「警察署に検察庁に裁判所と指揮系統の異なる多数の役所を無秩序に作り出した挙句、1つの奉行所でできることを、無駄で非効率な形で分掌させる、信じがたい税金の無駄遣いをしている」
と映るかもしれません。
3 三権集中(三権未分離)から三権分立へ
このように、三権集中に比べ、無駄で非効率極まりない三権分立システムですが、ご存知のとおりイギリスで始まりモンテスキューが理論化しフランス・アメリカで採用され、その後全世界に広がっていきました。
世界的に広がったとはいえ、人類が文明社会を作り社会運営を行ってきた永きにわたる歴史からすると、
「三権を分離して、別ラインで運用する」
という国家運営システムは、歴史的にはまだまだ日が浅いものといえます。
では、なぜ三権集中(あるいは不分離)ではなく、
「三権分立」
という一見面倒で非効率な国家運営方法が主流になったのでしょうか。
確かに、三権を集中させた方が国家運営効率は高まりますし、英明なリーダーの下では国家は大いに発展を遂げます。
しかし、反面、ルイ16世やヒトラーのように、集中した国家運営権を使って、やりすぎてしまう奴も出てきたりするのです。
時速200キロメートルで走っているポルシェがいきなりブレーキを踏むと大事故を起こすのと同様、国家運営効率が極限にまで高まった状態で三権全てを掌握するリーダーが大失敗をやらかした場合、その影響は計り知れず、革命が起こるなどして社会が崩壊してしまい、国家インフラがズタズタになってしまいます。
こういう負の経験をふまえつつ、人類は
「効率性をある程度犠牲にしても、三権を分離して、それぞれを別の指揮命令系統下におき、相互にいがみ合いをさせながら、活発な議論の下慎重に国家運営させていった方が、大チョンボが起こりにくく、国家なり社会体制としては長続きし、国民としてもハッピーになるはず」
という認識を有するに至ったのだと思います。
ということで、現代の日本も、
「多数決で選ぶ国会議員」
「公務員試験で選抜する行政官僚」
「司法試験で選ぶ裁判官」
という3つのタイプの国家運営キャリアを設け、
「法律を作ることを国会議員が構成する国会に担わせ、法律を運用して税金を集めたり使ったりするのを総理大臣指揮下の霞ヶ関行政官僚団に任せ、法律の解釈と揉め事の解決は裁判官で構成する裁判所に任せる」
という三権分立システムを採用するようになったのです。
4 「国会」と「お役所(行政機関)」「裁判所」との違い
ここで、 立法権力、行政権力及び司法権力を付託された
「国会」
「行政官庁」
「裁判所」
という三種の国家機関の特徴を比較する形で解説しますが、 国会と他の二機関には顕著な違いが存在します。
国会議員は選挙で選ばれますが、一定の年齢制限以外、試験もなければ能力の評価検証もありません。
お笑い芸人、歌手、芸能人、よくわからない評論家、作家、ニュースキャスター、土建屋、ブローカー、成金、地上げ屋でもOK。
学歴不問、経験不問、試験無し。
自分の名前が書ける程度の学があり、選挙に通りさえすれば、基本的に誰でもなれます。
拘置所の中からだって立候補可能です(獄中立候補)。
他方、行政官僚や裁判官となると、そんなわけにはまいりません。
ハードな勉強をして、小難しい試験に合格することが求められます。
また、行政官僚や裁判官の場合、職を得てからも、一部の国会議員のように、料亭で無駄話をしたり、銀座のクラブで駄法螺を吹いているヒマはなく、目の前の大量の事務を、地味で堅実に効率よく裁いていていく必要がありますし、そうでもしないと出世もおぼつきません。
国会議員が際立った個性派ぞろいであるため、同じく国家運営の一翼を担う立場でありながら、行政官僚も裁判官も
「地味で、個性のないエリートで、とっちがどっちか外形上判別できないほどよく似た連中」
として括られてしまうのです。
そういうこともあって、一般国民の認識においても
「裁判官も行政官僚も同じじゃん」
と思われており、実際、霞ヶ関に多数いるお役人を、裁判官と行政官僚に区別するのは、至難の業です。
いずれにせよ、国会議員・役人・判事を並べてみて、
「ゴルフ焼けしてて、脂ぎってて、声がデカくて、スーツよりも作業服が似合いそうなガタイで、オシの強そうなオッサン」
と、
「地味なスーツを着て、眼鏡をかけてて、知的で神経質そうで、あまりパっとしないオジサマ」
とが並んでいれば、前者が国会議員で、後者が裁判官・行政官のいずれかであろう、という推定が働きますが、ほぼ100%当たっています。
そのくらい、
「国会議員」
とそれ以外の二者、
「裁判官・行政官」
は見た目だけで簡単に区別することが可能なのです。
5 立法府とはいいながら、実際に立法するのは「国会」ではなく「行政機関」
みなさんは、小学校で
「国会は法律をつくるところ」
「役所(行政機関)は、国会でつくった法律を運用するところ」
と習ったと思いますが、これは、建前はともかく、実体としては明らかな間違いです。
「『お笑い芸人、歌手、芸能人、よくわからない評論家、作家、ニュースキャスター、土建屋、ブローカー、成金、地上げ屋 、あるいは現在拘置所にいる刑事被告人の方』といったさまざまなバックグラウンドを有する国会議員のセンセイ方に、難解で技術的な法律の文章をつくることができるか」
というと、普通に考えて無理であることは明らかです。
もちろん、国会議員の中には元キャリア官僚という官僚もいらっしゃり、そういう方が本気を出せば法律の1本ぐらい書き上げられるかもしれません。
しかし、国会議員のセンセイには、
「地元の有権者の陳情を受けて、橋や道路をつくったり、各種違反の措置軽減や子弟の就職口を斡旋する」
あるいは
「料亭やクラブに行って派閥人事を処理する」
といった重要な仕事があるので、
「机の上に齧りつき、関係法令集と格闘しながら徹夜で法案を作成する」
という地味で面倒でクダラナイことはなさいません。
じゃあ、
「国会議員がつくらないのであれば、一体、法律は、誰が作っているんだ?」
というと、
「役所(行政機関)が法律をつくっている」
というのが答えになります。
国会は、法律をつくるところではなく、役所(行政機関)が作ってきた法律を
「ここはいい」
「ここはダメだ」
といってケチをつけるところなのです。
いってみれば、役所(行政機関)が料理(立法)のプロで、国会は
「出された料理のケチをつけることはできるが、自分では目玉焼き一つ焼けない、料理評論家集団」
といった方が正確なのです。
6 「立法機関」である「国会」が、本当に立法しちゃうと、椿事としてニュースになる
ところが、ケチはつけるが自分たちではほとんど法律などつくらない国会議員のセンセイ方が、たまに自ら法律をつくってしまう場合があります。
これは
「議員立法」
と呼ばれるものですが、国会議員が自分たちで法律を作ると、それだけでニュースになるくらい椿事とされます。
むろん、そのでき具合はお世辞にもいいとは言えず、立法のテーマも、
「国家の効率的運営による国益の向上を目指してた、後世に残るすばらしい法律」
は少なく、
「○○族と呼ばれる議員センセイが特定の業界の利益の向上と結びつくような法律」
だったり、
「選挙の際、専業主婦やサラリーマンに手柄としてアピールしやすい法律」
といったものです。
議員立法で有名なのは、故田中角栄先生です。
彼がつくった法案の多くは、道路、建設、開発あるいはこれらの財源措置や特殊法人に関するものでした。
とくに、有名なものに民主党政権の際に問題になった
「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」
という法律がありますが、これも角栄先生の議員立法として成立したものです。
この法律は、要するに
「都会のサラリーマンがガソリン購入の際に支払う税金を、田舎の道路工事のためにばらまく」
というものであり、建設業界と地元のゼネコンを利するという目的においては、非常にわかりやすい代物でした。
7 この国を動かすのは国会ではなく役所(行政機関)
話を元に戻しますと、立法のプロとして、法律をつくっているのは、
「お笑い芸人、歌手、芸能人、よくわからない評論家、作家、ニュースキャスター、土建屋、ブローカー、成金、地上げ屋 、あるいは現在拘置所にいる刑事被告人といった様々な職種で構成される、能力は不明ながら、人気だけが唯一共通の取り柄である、国会議員のセンセイ方」
ではなく、東大を卒業し、難しい試験に合格した、優秀な頭脳をもつ役所(行政機関)なのです。
つまり、中央官庁に務める高級官僚は、
「自分たちが使いやすいような法律を自分たちが法律を作り、作った法律を自分たちが使う」
というわけです。
東大の駒場キャンパスに行くと、青雲の志を抱いて地方から浪人して東京大学文科一類に入学した青年が、
「僕は、キャリア官僚になって、日本を動かすんだ!」
という夢を語る場面に出くわしますが、誰も
「カネもうけして選挙資金をためて、議員になって、日本を動かす!」
とか
「吉本に入って芸人になって知名度を獲得して参議院議員になって国を動かす!」
とは言いません。
確かに、
「自分たちが使う法律を自分たちで作る」
わけですから、
「日本という国家を動かしているのは、国会議員などという有象無象の輩ではなく、キャリア官僚という高学歴のエリート集団である」
という認識は、是非は別として、まったく間違っていません。
すなわち、日本という国は、建前でこそ民主国家として
「マジョリティが人気投票で選んだお調子者や目立ちがり屋」
が運営するなどといいながら、その実体は、試験秀才が主導する官僚国家であり、
「小さいころから地味な努力を怠らない、優秀で責任感のある試験エリートたち」
により堅実に運営されているのです。
8 役所(行政機関)と裁判所との違い
では、最後に、 同じ法を執行・運用する役所として、役所(行政機関)と裁判所(司法機関)との違いはどうでしょうか。
個性あふれる国会議員の集団とは異なり、
「地味なスーツを着て、眼鏡をかけてて、知的で神経質そうで、あまりぱっとしない、無個性なエリート」の集団
として共通する役所と裁判所ですが、似ているからといって、同じというわけではありません。
たしかに、裁判官登用試験としての側面ももつ司法試験も、行政官僚登用試験である国家公務員総合職(法律区分)の試験も、試験内容としては似通っています。
裁判官の世界でも行政官僚の世界でも東大法学部卒が圧倒的にハバを利かせておりますし、裁判所でも財務省や総務省でも、石を投げれば、たいてい東大卒に当たります。
おそらく、東大卒の人口密度は、千代田区霞が関界隈が日本でもダントツ1位でしょう。
最終的に受けた試験(司法試験と公務員試験)の科目の数や種類が微妙に異なるとはいえ、役人も裁判官も、18歳から22歳まで駒場(東大生は1・2年生をここで過ごす)と本郷(東大生は3・4年生をここで過ごす)で地味な生活を送ってきたもの同士、外見や思考やライフスタイルの面において、非常に似ています。
これほど似ている
「役所」
と
「裁判所」
ですが、実際は、両機関はかなり異質です。
すなわち、日本国家の運営を託された文系試験エリートの二大巨頭である行政官と裁判官ですが、彼らは似ているようで、まったく違った理念と見識で活動しているのです。
さらに言えば、
「役所」
と
「裁判所」
とが、衆人環視の下、大喧嘩をしたりすることだってあります。
9 裁判所は最強の国家権力を保持する
国家権力の中でもっとも強力な権限は何でしょうか。
法律を作ることや、法律を執行することでしょうか。
こういう問いに対しては、
「主権在民の理念から、主権者代表である国会が有する立法権力が日本国においてもっとも強大な権力である」
という答えが返ってきそうです。
しかしながら、国会の立法といえども憲法に反する内容が定められる可能性も否定できません。
現日本国憲法は、法律に対する優位と最高法規性を宣言しておりますので、憲法に反する法律や行政行為は無効と宣言されるべき必要が存在します。
すなわち、法律を作る権限(国会が有する立法権力)や法律を執行する権限(内閣を頂点とする行政官庁が有する行政権力)の上に、当該立法や法執行を憲法に照らして審査し、無効と宣言する
「上位の権力(スーパー・パワー)」
が存在するのです。
これは、違憲立法審査権と呼ばれるパワーですが、立憲国家においては、国家運営におけるもっとも強力な権限であると認識されています。
この違憲立法審査権を、どのような国家機関に所属させるかについてはいろいろモデルがあります。
フランスやドイツのように、一般の裁判所とは別系統の特別の裁判所を創設し、これに違憲審査を行わせるようなシステムもありますが、日本は、イギリスやアメリカと同様、通常裁判所に違憲立法審査権を付与しています。
その意味では、裁判所は、通常司法権のほか、
「違憲立法審査権」
という、
「立法権力や行政権力も凌駕し、これらを吹き飛ばす、もっとも強力な国家権力」
を保持しており、我が国において
「最強の権力集団」
ということができます。
しかし、これはよく考えてみると、相当特異なシステムといえます。
くだらない民事の揉め事や下世話な離婚の話、窃盗や詐欺などしょうもない刑事事件の面倒をみている国家機関が、国会の立法権限や行政官庁の法執行をぶっ飛ばすようなラディカルな事件を裁いてしまう、ということですから、ある意味無茶苦茶なシステムです。
例えば、東京地裁の例でいうと、民事2部、3部、38部、51部は行政“専門”部と呼ばれ、こちらは、行政事件しか割り当てられません(専門部とは、特定の種類の事件が集中的に配点され、かつ、通常の事件が配点されない部をいいます)。
他方、東京地裁民事3部は、行政“集中”部と呼ばれ、こちらは、日本国が被告となるような行政事件を集中的に審理するのですが、当該部においても通常事件も割り当てられます(集中部とは、特定の種類の事件が集中的に配点され、かつ、通常の事件も配点される部をいいます)。
したがって、東京地裁民事3部では、
「午前中は、国土交通大臣を被告とする国家賠償請求事件、午後は貸金と契約違反と近隣紛争」
なんて形で、国を揺るがすような大事件と犬も食わないような民事の揉め事が同じ感覚で裁かれる、という実にシュールな光景が繰り広げられたりする可能性が現実的にあったりします。
さらに言うと、もっと小さな規模の地方裁判所や支部になると、単独の部や、1人の裁判官が、民事事件も刑事事件も行政事件も扱うこともあるでしょう。
いずれにせよ、裁判所が日本国の中でもっとも強力な権力を有することは明らかであり、裁判所の前では、泥棒も詐欺師も民事の揉め事の当事者も首相も大臣も等しくひれ伏し、そのご託宣を仰がなければならないのです。
10 裁判官は、上司もなく、やりたい放題
行政官は、
「法律による行政」
「絶対的上命下服」
の2つの原理で厳しく規律されています。
仕事に個性を発揮するということは、法律の軽視や指揮命令の混乱につながるため、厳しく禁じられ、ひたすら個性を埋没させ、私情を排して公正・公平な法を実現します。
行政官以上に強大な権力を振るう裁判官は、行政官僚と同様あるいはそれ以上の規律に服すると思うのが素直で自然ですし、
「裁判官は、さぞ規律がしっかりしており、何から何までルールで雁字搦めにされ、個性の発揮は忌避され、個性と自由と人間性が否定された機械のような仕事が求められ、窮屈で退屈で息が詰まるような毎日であろう」
というのが一般の方の印象だと思われます。
「行政官と裁判官は、バックグラウンドも出身大学も試験科目も酷似している」
などといいましたが、この点からも、裁判官と行政官の仕事の哲学やスタイルが同じと考えるのが自然です。
しかしながら、事情はまったく逆で、裁判官は、上司もおらず、個性と私情を発揮して、 差し詰め
「やりたい放題」
といったところなのです 。
しかも、
「裁判官が、個性の赴くまま、やりたい放題で仕事してもいい」
ということは、憲法に明記されているのです。
憲法76条3項をみると、
「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」
と書いてあります。
裁判官が、その職務権限を行使するにあたっては、外部の権力や裁判所内部の上級者からの指示には拘束されないことが憲法上保障されているのです。
例えば、行政官が、
「この法律は、私の良心や憲法解釈に反するので、個人の判断として執行をしません」
とすると大問題となります。
ところが、裁判官は自分の良心と自身の憲法解釈・法律解釈に基づき、気に食わない法律を違憲無効と判断したり、憲法に反するおかしな法律制度を維持したりすることができるのです。
こういう言い方をすると、
「カタくてマジメそうな裁判所がそんないい加減なことをしないでしょう」
という声が聞こえてきそうですが、日本の最高裁は、民主主義について非常識ともいえる判断を長年敢行し続けています。
例を用いてお話しします。
東京都内の私立小学校で学級委員を決める際、クラスの担任が、
「港区と千代田区から通っている生徒に5票与え、中央区と渋谷区から通っている生徒には3票、足立区と台東区に通っている生徒には2票、川崎市から通っている生徒に1票という形で付与する」
と発表し、生徒の住所地によって票数を露骨に差別したとします。
もし、実際こういう非民主的な教育運営している教師がいたら、気でも狂ったのではないかと思われ、即座にクビを切られるでしょう。
しかしながら国政レベルにおいては、このような
「気でも狂ったか」
と思われる行為が平然と行われ、最高裁もこれを変えようとはしません。
すなわち、国会議員を選ぶ選挙においては、投票価値が平等ではなく、鳥取県や島根県の方々は3票ほど与えられる反面、東京都民や神奈川県民には1票しか与えられない、という異常な状況が長年続いております。
このような
「『多数決』ならぬ『少数決』による、非民主的な国民代表選出制度」
の違憲無効性が最高裁で度々審理されていますが、
「素性も選任プロセスもよくわからない、民主的に選ばれたわけではない、頭が良くて、毛並みがいいだけの、個性に乏しい、地味な最高裁の15人の老人たちの思想・良心」
によればこのような制度による選挙結果も
「違憲とまでも言えん」
とされ、延々と投票価値の不平等が事実上容認され、放置され続けているのです。
小学生の学級委員の選出ですら許されない非民主的蛮行が、国政レベルで平然と行われ、かつ最高裁に聞いても
「別に問題ない。これがワシらの良心じゃ。黙ってしたがっておれ」
という態度が貫かれるのです。
無論、最近では、投票格差の問題を是正するため立ち上がった弁護士グループの尽力で、ようやく、この問題が改善される動きが芽生えつつあります。
しかしながら、気が遠くなるような時間と多大なエネルギーと莫大なコスト(関わっている弁護士は手弁当参加であり、実費等もカンパで賄われているようです)をかけ、耳が痛くなるほど連呼しないと、
「少数決ではなく、多数決こそが民主主義」
という、小学生でも理解できる単純な理屈を実現してくれない。
これが、
「法の番人」
の実体です。
刑事事件や重大な憲法問題ですら、
「上司もなく、やりたい放題」
が憲法で保障されているのをいいことにあり得ない異常を何十年単位で放置するわけですから、そこらへんの民事事件の扱いなど、推して知るべしです。
法律というと、
社会「科学」
と分類されてはいるものの、単なる制度や取決めに過ぎず、集団的自衛権の議論の迷走ぶりをみてもわかるとおり、立場や時代や解釈者によってどのようにも使われます。
その意味では、法律は、
「サイエンス」
ではなく、
「イデオロギー」
なのです。
しかも、
「イデオロギー」
たる法律を解釈運用するのは、
「上司もなく、やりたい放題」
が憲法で保障されている、いわば
「独裁者」
たる裁判官。
「真理探求に謙虚な姿勢の科学者が、サイエンスを扱う」
のとは180度異なる、
「独裁者がイデオロギーを、自由気ままに振りまわす」
というのが司法という権力の実体です。
以上のとおり、裁判所は、日本国における最高・最強の権力を保持しながら、誰の指図を受けることなく、自由気ままに、個性を発揮することが憲法によって保障されており、この点において、個性の発揮が極限まで否定される行政官僚とはまったく異なるのです。
裁判所という国家機関は実にオカタイ感じのところで、そこで働く裁判官も、公務員の中でも最も個性がなく、慎重で先例を墨守する連中と思われがちです。
しかしながら、実際は、裁判官は行政官とはまったく異質で、上司もおらず、個性は発揮し放題で、先例や慣習をときに大胆に無視することも辞さない、実にラディカルな権力機関なのです。
とはいえ、裁判官の活動のベースにあるのは、
「法律と証拠による紛争解決」
であり、自由や個性といっても、
「証拠、すなわち、文書がモノを言う世界」
での話であることには変わりません。
以上を総合しますと、裁判所あるいは裁判官という権力者の特徴は、
- トラブルを法律と証拠により解決することが活動の基本
- 法律や証拠がないのに騒いだところで、冷淡に扱われる
- 一定の法律や証拠が整っており、これを前提として解釈が争われるような事件については、それなりに扱ってくれる
- 「それなりに扱ってくれる」といっても、そこからが曲者
- 裁判官は上司もおらず、細かい業務規範もないし、先例にすらしばられない。
- 「法廷において、裁判官は、やりたい放題で、自由に個性を発揮していい」ということが憲法で保障されており、いってみれば法廷内では「裁判権」という国家権力を独裁的に振り回して暴れまくることができる
と要約されることになります。
ちなみに、このような
「三権分立制度の間に漂う権利や法律関係」
ですが、
知的財産関係(特許庁と裁判所)、
税務争訟関係(税務当局と裁判所)、
金融商品取引法事件(金融庁、証券取引所、証券取引等監視委員会と裁判所)、
独禁法事件(公正取引委員会と裁判所)
などなど、ビジネスと法律が交錯する多くの分野で、行政と司法の緊張関係が顔を出します。
無論、多くの場合、結論だけでみると司法判断と行政判断には一致がみられます。
しかしながら、つぶさに観察すると、権利や法律関係の扱い方やアングルが相当異なることがわかりますし、
「同じ日本の権力機関だから、一緒だ」
という安易な考えは早計といえます。
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初出:『筆鋒鋭利』No.081、「ポリスマガジン」誌、2014年5月号(2014年5月20日発売)
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初出:『筆鋒鋭利』No.083、「ポリスマガジン」誌、2014年7月号(2014年7月20日発売)
初出:『筆鋒鋭利』No.084、「ポリスマガジン」誌、2014年8月号(2014年8月20日発売)
初出:『筆鋒鋭利』No.085、「ポリスマガジン」誌、2014年9月号(2014年9月20日発売)
初出:『筆鋒鋭利』No.086、「ポリスマガジン」誌、2014年10月号(2014年10月20日発売)
初出:『筆鋒鋭利』No.087、「ポリスマガジン」誌、2014年11月号(2014年11月20日発売)
著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所
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