1 憲法、法律、契約は、全て「約束」の一種として、説明出来る
ところで、企業法務を理解する上では、法律や憲法や契約のことを理解しなければなりません。
法律や憲法や契約については、大学の法学部でしか学べないような思い込みがあるかもしれませんが、別にそんなことはありません。
大学の法学部で法律を学んでいないからといって、法律について無知で、法律を理解しないまましょっちゅう法律違反するか、というと、そうとは限りません。
また、大学の法学部で法律を学んだからといっても、法律のことをよくわかっていない法学部卒業生もたくさんいます。
ここで、極めて、シンプルに法律、憲法、契約のことを理解してしまいましょう。
法律、憲法、契約、これらは、ざっくりいうと、
「約束」の一種
です。
2 契約は「一般ピーポー(一般人や一般企業)」と「一般ピーポー(一般人や一般企業)」 との間の厳(いか)つ目の「約束」
契約は、
「一般ピーポー(一般人や一般企業)」同士の「約束」、
すなわち、
「一般ピーポー(一般人や一般企業)」と「一般ピーポー(一般人や一般企業)」との間の「約束」
のことです。
「じゃあ、約束でいいじゃん」
「なんで、約束のことを、わざわざ『契約』なんて、堅っ苦しい言葉遣いするの?」
という声が聞こえてきそうです。
日常用語の「約束」と違う点は、
約束違反した場合に、法的責任(民事責任)が生じ、裁判所で責任追及出来る、というところにあります。
小学生同士に放課後サッカーで遊ぶ約束をしたとして、急な用事で約束を守らなかったからといって、損害賠償責任が発生したり、裁判所でその責任を追及したりすることはありません。
他方で、企業同士が数十億円の商品や原料の取引の約束をしておいて、これをすっぽかしのに、一切お咎めなし、となると、経済社会が崩壊します。
その意味で、
「約束違反したらヤキを入れられる、法的責任が生じる、あるいは、法的責任を負う覚悟で行う、厳(いか)つめの約束」
が、
「契約」
というわけです。
3 法律は、「国家」と「一般ピーポー(一般人や一般企業)」 との間の「約束」
法律も
「約束」の一種
です。
ただ、約束の相手が特殊です。
法律は、
「国家」と「一般ピーポー(一般人や一般企業)」との約束
です。
こういう言い方をすると、
「え? 日本国家とそんな約束した覚えねえよ」
と言われそうですが、民主主義というフィクション(強引なつくり話)によって、
「一般ピーポー(一般人や一般企業)」は「国家」と「約束」した、
ということとなり、法律という約束を守らされます。
近代以前の遅れた社会においては、法律は、
「一般ピーポー(一般人や一般企業)」
の知らないところで、王様とか将軍といったその地域を支配する最大の暴力団のトップによって、勝手に定められました。
ところが、
「自分たちの知らないところで勝手に決められた約束とか知るか、守れるか」
という当たり前の話が出てきて、
「議会」
というものが作られ、議会に
「一般ピーポー(一般人や一般企業)」
の代表を集めて、法律を作る、というところに落ち着きました。
「他ならぬ自分たちで決めたんだから、忘れた・知らないとは言わせないぞ。お前ら、きちっと守れよ」
というわけです。
もちろん、選挙権をもつ以前からあった法律とか、生まれる前に出来た法律とかは、
「知ったこっちゃない」
という文句ももっともですが、お父さんとかおじいさんとか、自分たちの身近な
「一般ピーポー(一般人や一般企業)」
が関わって作っているわけなので、やや強引ではありますが(フィクションが介在する、という言い方になります)、
「テメエらで決めた約束事だから、責任もって守れよ」
となるわけです。
法律を守らないと、刑事責任を食らったり、行政処分を食らったりする、という形で一定のペナルティが生じます。
4 「民法」や「商法」は、法律は、「国家」と「一般ピーポー(一般人や一般企業)」 との間の「『一般ピーポー(一般人や一般企業)』同士の典型的な『取引あるある』『約束あるある』」の国家推奨の標準モデル
ちなみに、
「民法」
「商法」
といった法律(私法と呼ばれます)がありますが、これは、
「国家」と「一般ピーポー(一般人や一般企業)」との約束、
というものとは趣が異なる内容が盛り込まれています。
すなわち、
「民法」等で細々と書かれているのは、
「一般ピーポー(一般人や一般企業)」同士の約束を、一定の内容に決めつけ、モデル化したもの
です。
「こういうことを約束する一般ピーポー(一般人や一般企業)は、だいたいこういうことを考えているだろうから、こういう形で問題を処理しといたらいいんじゃね」
という国家のお節介であり、余計なお世話的なものです。
だから、民法や商法の中で、気に入らない取り決めがあったら、いっくらでも上書きして消し去ってしまうことは可能です。
要するに、民法や商法は、
「『一般ピーポー(一般人や一般企業)』同士の典型的な『取引あるある』『約束あるある』」
の国家推奨の標準モデルで、特に当事者が断りなければ、このモデルで約束トラブルを解決します、という程度のものです。
5 憲法は、「理念(人権保障理念)」と「国家」との「約束」で、「国家」を雁字搦め(がんじがらめ)に縛り上げ、国家を監視し、国家の暴走を防ぐもの
憲法も「約束」の一種
ですが、
他の法律とは異なった「約束」
です。
憲法は、
「理念」と「国家」との約束
であり、もっぱら、
国家が「理念」を無視して変なことをしないように、国家が「理念」を忘れて暴走しないように、国家を縛り上げる「約束」
という点に特色です。
約束させられているのは、国家であり、
「一般ピーポー(一般人や一般企業)」
ではありません。
したがって、国家が憲法違反(約束違反)を問われてネチネチイジメられることはあっても、
「一般ピーポー(一般人や一般企業)」
は約束の当事者ではないので、憲法違反とかいわれてイジメられることはありません(細かいことを言うと、私人間効力、という特殊な例外はありますが、ここでは置いておきます)。
「国家」が約束した相手方
である
「理念」とは何か、
というと、
人権保障という理念
です。
6 民主主義のダークサイド(特定少数民族から自由・生命・財産を暴力的に奪ったナチスドイツは、民主主義が暴走した悲劇)
そして、人権保障というのは、特に、少数者の人権を守る、という点に重要性があります。
民主主義の世の中であり、法律は国民が参加して作りますから、国民がよほど愚かで、自分で自分のクビを締めるようなおかしな真似をしない限り、わざわざ
「人権保障」
などという理念で国家を縛り上げる必要がないかのようにも思えます。
しかし、民主主義というのは、あくまで、多数派が牛耳るシステムです。
51%牛耳った側が、49%の声を無視して、好き勝手出来る、というダークサイドをもっています。
で、歴史上、実際、このような暗黒面が現実化しました。
第一次世界大戦後、
「当時としては画期的なほど民主的と評価されたドイツのワイマール憲法下において誕生した、究極の民主的政権」
が誕生しました。
ナチスドイツです。
国民の大多数が、
「ユダヤ人を排除せよ」
「ユダヤ人を強制収容所に入れて殺してしまえ」
という意思をもち、この民主主義的意思が政治過程において適正に表明されました。
この場合、
「民主主義」
を貫けば、このような常軌を逸した政治的意思が正当性を有することになります。
実際、第二次世界大戦において、ドイツにおいて、民主主義の名の下に、ユダヤ人等の得チエ少数民族が相当数、生命、自由、財産を不当に奪われる、という、人類史上最悪の愚行が行われました。
民主主義体制下の国家であっても、こういう
「暴走」
は防ぎようがありません。
そこで、
「たとえ、51%牛耳った側であっても、49%の人権を不当に奪えない」
という理念を、民主主義による国家運営の上位理念として設定し、当該理念が、国家の暴走や愚行を監視し、禁止する、という
「シン・民主主義」
ともいうべき国家運営理念が採用されるようになったのです。
これが、立憲民主主義(リベラルデモクラシー、あるいは自由民主主義)であり、このような考え方に基づき、我が国憲法は、人権保障理念を体現し、国家に対して
「少数者を含めた全ての方々の人権を保障します」
と約束させ、約束違反があれば、国家にヤキを入れる、という体制を採用しているのです。
7 常識や宗教・教典も、一種の「約束」
ちなみに、付け足しで余計なことを言っておきますと、
「社会」と「一般ピーポー(一般人や一般企業)」との「約束」が「常識」
と呼ばれます。
ただ、
「社会」の範囲や、
「常識」の範囲や中身等
については曖昧模糊としており、
「常識」と「常識」が対立して、
不毛な論争を招くこともあります。
さらに、
「法律」も往々にして「常識」と異なります。
さらに、余計なことかもしれませんが、
「神様」と「一般ピーポー(一般人や一般企業)」との約束事が宗教とか教典、
という言い方になりますでしょうか。
聖書というのは、神様とキリスト教信者との約束事が文書化されたもの、ということかと思います。
著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所
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