裁判というと、自分の思いのたけを語る場所だと思っている方は少なくありません。
「私はこんなに苦しんだ」
「相手は本当にひどいことをした」
「正義は自分にある」
そうした強い気持ちを、裁判官の前でしっかり伝えたい、というのは、ごく自然な感情です。
けれども、こと民事裁判においては、そうした
「思い」
や
「感情」
を正面からぶつけることは、かえって逆効果になることがあります。
民事裁判の世界で問われるのは、
「何を思ったか」
「どう感じたか」
ではなく、
「何があったのか」
という事実だけです。
そして、当事者が語るべきなのも、この
「事実」
に限られています。
汝(当事者)、事実を語れ。
我(裁判所)、法を適用せん。
この古代ローマの法格言が示すように、裁判の基本的な仕組みは、当事者が事実を整理して提示し、それに対して裁判所が法を適用して結論を出す、というものです。
言い換えれば、評価や解釈や法律論を当事者が語るのは、裁判官の役割を“侵す”ことになるのです。
たとえば、ある控訴審で、当事者による意見陳述の機会を求めて裁判所に一度相談してみたのですが、その答えは
「できればご遠慮ください」
でした。
つまり、それは、
「聞きたくない」
という意思表示です。
裁判官は、感情的な訴えや、素人による法律論、主観的な評価に対しては非常に慎重で、むしろ
「この当事者はコントロールできない」
と見なされる危険性さえあります。
特に担当裁判官が
「超エリート型」
「無駄や混乱を嫌う」
「整然とした審理を好む」
というプロファイルの場合、その傾向はより顕著になります。
当事者の思いが強ければ強いほど、その熱量をぶつけたくなりますが、それが裁判官にとっては“雑音”となってしまうのです。
たとえば、あなたがレストランのシェフだとして、繊細で食の細い美食家に料理を出す場面を想像してみてください。
そんな時、
「これは30年研究して作った最高の味です! 絶対にうまい! 食べて損はありません!」
と大声でまくし立てられたら、食欲が失せてしまうのではないでしょうか。
裁判官という“食の細い美食家”にとって、当事者の強すぎる主張は、まさにそのような圧になるのです。
では、当事者は何も語れないのか。
そうではありません。
大切なのは、感情や評価を語るのではなく、
「事実」
を丁寧に伝えることです。
「いつ、どこで、誰が、何をしたのか」
「何が起きて、何を見たのか」
これらは、裁判所が知りたい情報ですし、当事者からしか出てこない貴重な材料です。
さらにいえば、裁判所が歓迎するのは、
「世の中の仕組み」
や
「業界の慣習」
など、事実に準じた背景情報です。
これらは評価や感情ではなく、客観的な理解を助ける材料として有効です。
たとえば、
「この業界ではこういうやり取りが一般的です」
といった説明は、裁判所にとって重要な判断材料になります。
つまり、裁判官が知りたいのは、
「何が正しいか」
ではなく、
「何が起きたのか」。
そして、
「それを支える証拠があるのかどうか」。
ここに焦点を合わせて、必要な情報を、無理のない形で提供する。
それこそが、当事者に求められる最大の貢献です。
私たち弁護士は、そうした裁判の仕組みと裁判官の嗜好をふまえて、当事者の思いをどうやって伝えるかを設計しています。
自由記述として別添したり、
「補足資料」
として背景をそっと添えたり。
メインディッシュではなく、あくまで“別皿”として、食の細い美食家が
「食べられそうならどうぞ」
と手に取れるように工夫するのです。
裁判という場は、正義を訴える劇場ではありません。
事実だけを、必要な順番で、適切な形で提示する、極めて理性的で冷静な舞台です。
当事者にとってはもどかしいかもしれませんが、
「語るべきは感情ではなく事実。評価ではなく出来事。正しさではなく、証拠」
それが、民事裁判を有利に進めるための、もっとも重要な
「語り方」
なのです。
著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所
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