“うなずいていたから、理解していた”のは、本当か?
たとえば、美術館の展示会で、音声ガイドを聞きながら歩いている人がいます。
黙ってうなずきながら、説明に耳を傾けている。
けれども、その人が展示内容を本当に理解しているかどうかは、外からは見えません。
「うなずいていたから、理解していたはず」
とは、言い切れないのです。
さて、美術館で音声ガイドを聞いている人は、その内容をもとに何かを判断したり、責任を問われたりするわけではありません。
理解していなかったとしても、大きな問題にはなりません。
ところが、企業の意思決定の場では、そうはいきません。
会議に出席した以上、何が話され、どのような判断が求められたのか――
その場での理解は、
「判断したかどうか」
や
「その責任を引き受ける意思があったかどうか」
に直結します。
とはいえ、実際には、なんとなく流していたり、雰囲気で相槌を打っていたりすることも、ないとは言えません。
そして、周囲は
「理解していたはず」
と思い込んでしまう。
このような“外からは見えない理解”という構造は、企業の中では、もっと厄介なかたちで現れます。
社内会議の場では、この誤解がすれ違いを生んでも、
それと気づかれないまま時間が過ぎ、
事態が悪化してからようやく判明し、
最終的には、弁護士のもとに相談が持ち込まれる――
実は、そんなケースは、決して珍しくありません。
異議を唱えない――それは、判断し責任を取るという意思表示か?
ある会社で、M&Aの検討委員会が開かれていました。
議題は、事業を軌道に乗せたばかりのIT企業を買収するかどうか。
資料には、財務状況・法的リスク・買収スキーム案などが整然と並んでいます。
メンバーには、社内の事業部長、財務・法務担当役員に加え、社外取締役も顔をそろえています。
進行役が言います。
「一通り説明をしました。リスクも想定内ということで、先に進めてよろしいでしょうか?」
数秒の沈黙。
誰も異を唱えません。
進行役はうなずき、こう締めくくります。
「ご異論がなければ、この方向でまとめさせていただきます」
議事録が作成され、出席者の署名と押印がそろう。
その会議は、形式的には“円満に”進んだことになります。
ところが、その
「沈黙」
と
「押印」
は、ほんとうに
「内容を理解したうえで、自らの判断として意思表示した」
ことになるのでしょうか。
その場にいた一人は、こう感じていたかもしれません。
「法務の論点は難しくて、正直ついていけなかった」
「そもそも、買収先の事業内容をよく知らない」
「でも、他の人が何も言わないから、自分も黙っていた方が無難だろう」
こうして、
「その場で異議を唱えなかった」
という事実だけが残り、それが
「理解したうえで判断し、その責任を引き受けた」
と見なされてしまう。
――このズレこそが、組織の“見えないリスク”を生み出していくのです。
署名・押印が意味すること、意味しないこと
会議の場では、何かが
「決まった」
ように見える瞬間があります。
たとえば、
「ご異論がなければ、この方向でまとめさせていただきます」
と議長が言い、誰も異議を唱えないまま、議事録が整えられ、出席者全員が署名・押印する。
その場に立ち会った全員が、
「一応、まとまった」
と感じるかもしれません。
けれども、それは本当に、
「それぞれが理解し、判断し、その判断に責任を持つ」
という意思表示になっているのでしょうか?
気をつけたいのは、署名や押印があるからといって、それだけで
「同意した」
と判断するのは、早計だということです。
実際、署名や押印は、あくまで
「そこに居合わせ、会議が行われた」
ことの形式的な確認にすぎません。
その内容を本当に理解し、リスクを踏まえたうえで意思決定に加わったのか――
そうした“内面の判断”までは、署名や押印からは読み取れないのです。
たとえば、議事録の確認が会議の翌週にメールで回ってくる。
他の業務に追われていた出席者は、
「まあ、特に問題なさそうだ」
と流し読みし、内容まで検討せずに署名する。
このような“事務的な動作”が、のちに
「本人の判断が加わっていた」
「協力的だった」
と誤解される。
まさに、ここにリスクがあります。
形式がそろっているから、内容も合意されているはずだ――
そう思い込んでしまうことで、組織の合意形成は
「ミエルようで見えない」危うさ
をはらんでいきます。
形式と実質のズレが、あとから火を噴く
M&Aの検討会議から数か月後。
買収先企業の財務状況に、予想を超えるリスクが潜んでいたことが明らかになり、プロジェクト全体が凍結される事態となりました。
副社長は言います。
「各部門が出席して、誰も異議を唱えなかった。正式な手続きを経て、全会一致で承認されたはずだろう」
しかし、ある出席者がこう答えるのです。
「実は、自分はリスクの意味を十分に理解できていませんでした。
あのときも、判断を保留したまま沈黙していました」
形式上は“決定された”ことになっていた案件。
しかし、ふたを開けてみれば、
「誰が何を理解し、どのように判断したのか」
が不透明なまま、前に進められていただけだったのです。
――このようなズレが、組織にとっては、致命的なダメージに直結することがあります。
“判断と責任”を支える設計――意思形成プロセスの精度を高めるために
「納得していたかどうか」
は、たしかに主観的なものであり、外からは見えません。
だからこそ、主観に頼らず、
「理解し、判断し、責任を引き受ける意思があったのか」
を読み取れるような設計が必要です。
意思形成のプロセスに、あらかじめ“ほぐし”や“問い直し”の構造を組み込むことで、後からでも
「誰がどこまで理解し、どのように判断に関与したのか」
をたどれるようになります。
たとえば、次のような意思形成プロセスの確認手順をあらかじめ組み込んでおくことで、のちに
「誰がどの範囲をどう判断し、どの責任を担ったか」
を読み解く足がかりになります。
・会議のまとめ役が、「ご異論ありますか?」と全体に問いかけるだけでなく、
「〇〇部長、この論点についてはどうお考えですか?」と個別に確認する。
――形式的な同意ではなく、各人の“判断のプロセス”を引き出すために。
・参加者が「即答できない」ことを自然に表明できるよう、
「判断保留」や「条件つき了解」といった立場を許容する場の設計を行う。
――イエスかノーかに単純化させない、判断のグラデーションを認める設計。
・議事録に「確認コメント」や「留保事項」を記録するスペースを設ける。
――たとえば、「〇〇氏は、法務的リスクの全容については判断を保留した」と記録する。
こうした工夫のすべては、単なるチェックリストではありません。
組織における“理解と判断”の所在を、可視化するための仕組みなのです。
うなずき、署名、沈黙。
それらが、あたかも“納得し、判断し、責任を持った証し”であるかのように解釈される。
実際には、そこに判断のプロセスがあったのかどうかは、記録されていなければ見えません。
だからこそ、意思形成のプロセスそのものを可視化し、記録に残すことが不可欠です。
「うなずいた責任」を、どう担保するか
意思形成の過程では、
「判断し、責任を引き受ける」
というプロセスを、あらかじめ設計しておく必要があります。
たとえば、
・この範囲は法務がリスク検証済みだが、事業上の可否は経営判断に委ねた――といった分担の明確化。
・理解不足のまま判断に参加させないための、事前説明や別途面談の制度設計。
・その場で黙っていた者に対し、あとからフォロー確認をとる慣行の整備。
こうした仕組みが整ってはじめて、
「その場でなされた判断は、誰がどこまで理解し、どこまで責任を持つとしたものだったのか」
が、あとからでも読み取れるようになります。
形式ではなく、実質としての責任所在。
それを支えるのが、法務が担うべきプロセス設計の本質なのです。
判断と責任が、あとからでも見えるように
「言わなかったから納得していた」
「署名していたから理解していた」
そのような“見えない前提”に合意を預けてしまえば、後日、何かが起きたときに、その合意は根元から揺らいでしまいます。
だからこそ、重要なのは――
形式ではなく、プロセスを見直すこと。
沈黙に委ねるのではなく、確認の手続きを設計しておくこと。
そして、関係者一人ひとりが、どこまで理解し、どの範囲を自らの判断として引き受けたのか。
その“理解と責任の所在”が、あとからでも読み取れるように記録を整えることです。
問うべきは
「何を決めたか」
ではなく、
「どうやって、誰が、その決断にたどり着いたか」。
“見えないもの”を見えるようにする――
すなわち、
「ミエル化の知恵」
であり、ミエル化は、信頼のインフラなのです。
著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所
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