民事裁判に関わっていると、つくづく感じるのは、
「裁判というものは人間くさい制度だな」
ということです。
とりわけ控訴審ともなると、そこに立ちはだかるのは、
「神様のような存在」
としての裁判官です。
神様といっても、雲の上から何もかもお見通し、というわけではありません。
むしろ、好き嫌いやこだわり、嗜好のはっきりした、一人のエリート職人としての側面が強いのです。
その裁判官が、ある控訴審でこう述べました。
「できれば、ご遠慮ください」
これは、当事者による意見陳述を申し出たときの反応でした。
遠回しな言い方ではありますが、事実上の拒否です。
裁判官が何を嫌がるかが、よく表れたやり取りでした。
裁判官は、弁護士というフィルターを通して整理された文書以外の
「ノイズ」
を嫌います。
要するに、当事者の
「生の声」
を
「ノイズ」
として扱うのです。
当事者の熱のこもった語り、感情のこもった言葉、それらはすべて
「秩序を乱すもの」
として、裁判官は歓迎しません。
法廷で当事者が思いのたけを語る、という場面は、テレビドラマの中だけの話なのです。
こうした態度は、裁判官という存在が、ある種の
「偏食家」
であることを物語っています。
たとえるならば、裁判官は
「食の細い美食家」
です。
美食家が好むのは、プロのシェフが丁寧に盛りつけたコース料理。
素材の意味や順番、味の強弱まで緻密に設計された一皿です。
そこに、
「手作り感満載の大衆食堂の野菜炒め」
のような、素朴で荒々しい料理をいきなりドンと出しても、手をつけてもらえないどころか、怒って退席されかねません。
だからこそ、弁護士たちは、裁判官の嗜好を徹底的にプロファイリングします。
たとえば、ある案件の裁判官は、いわば超エリート型。
効率と整然さを重視し、文書だけで淡々と判断するタイプでした。
証人尋問や当事者の語りは
「無駄なセレモニー」
として嫌う傾向にありました。
そういう裁判官に向けて、どんな
「料理(主張)」
を、どんな
「盛り付け(構成)」
で出すか。
これが、控訴審という戦場における、最大の戦略となりました。
要するに、控訴答弁書にすべてを込める必要があったのです。
ここで、あらためて原則に立ち返ってみましょう。
裁判は、あくまで当事者が
「事実」
だけを提示し、裁判官が
「法」
を適用して結論を導く、という原則のもとに動いている、ということです。
「汝、事実を語れ。我、法を適用せん」
この古代ローマの法格言が示すように、裁判という制度は、当事者が自分の正しさや思いを語るのではなく、起きた事実だけを積み重ねていく。
それを基に、裁判官が法的判断を下します。
逆に言えば、当事者が感情や評価を語りすぎると、
「でしゃばり」
「分をわきまえない者」
として敬遠され、逆効果になります。
そして、裁判官にも、
「好きな味」
と
「苦手な味」
があります。
繰り返しますが、その味覚に合わせて、どんな料理(主張)を、どんな盛り付け(構成)で出すかが、裁判に勝つための不可欠な戦略なのです。
裁判とは、正しさをぶつけ合う劇場ではなく、事実を淡々と語る筆談の場です。
神様(=裁判官)の嗜好を読み、事実をそのままではなく、受け入れてもらえる形で差し出す。
そういう知的で繊細なコミュニケーションの場です。
そして何より忘れてはならないのは、
「神様にも、好き嫌いがある」
という事実です。
どんなに言いたいことがあっても、それをストレートにぶつけても、神様の心には届かない。
その嗜好を理解し、 伝えるべきことを、最適な形で、最適な順番で、最適な味付けで整えて出す。
このような、食の細い神様への礼儀作法こそが、弁護士に求められる最大の技術なのかもしれません。
著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所
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