これまで、信託銀行などが発行する「デジタル預手(=信頼できるステーブルコイン)」が、証券決済、貿易金融、不動産取引、サプライチェーンの現場を劇的に効率化する未来図を描いてきました。
スマートコントラクトが契約を自動執行し、決済リスクも事務コストもゼロになる――。
しかし、なぜこの便利な未来は、今すぐに実現するか、というと、まだ時間がかかりそうです。
それは、この変革が単なる技術(Tech)の問題ではなく、取引社会の根幹をなす「法律(Legal)」や「規制(Regulation)」の形そのものを変える必要があるからです。
「デジタル預手(ステーブルコイン)」が本当に社会インフラとなるためにクリアすべき、4つの重大な「法と規制の壁」を深掘りします。
1. 【倒産法】の壁:「発行体が破綻しても、本当に100%戻ってくるのか?」問題
「デジタル預手(ステーブルコイン)」が決済インフラとなるための絶対条件は、「発行体が倒産しても、利用者の資産(裏付資産)は1円たりとも毀損せず、即座に返還されること」です。
これが法的に保証されていなければ、誰も安心して企業間決済や不動産売買に使えるはずがありません。
- 現状のルール(改正資金決済法): 発行体(銀行、資金移動業者、信託会社)は、発行額と同額の裏付資産を「100%保全」することが義務付けられています。
- 最大の論点・「倒産隔離」 : 問題は「保全」の方法です。もし発行体が倒産した場合、その「保全していた資産」が、他の債権者(例:発行体の従業員の給与、オフィスの賃料など)の引当対象となる「倒産財団」に組み込まれてしまっては、利用者への返還が遅れたり、全額戻らないリスクが生じます。
なぜ「信託銀行」が本命なのか、という点がまさにこの点の懸念解消があるからです。
すなわち、この「倒産隔離」を最も強固に実現できるのが、「信託」の仕組みです。
利用者が預けた円を「信託財産」として管理すれば、それは信託法に基づき、発行体(信託銀行)固有の資産とは明確に分別されます。
たとえ信託銀行が破綻しても(考えにくいですが)、その信託財産は差し押さえの対象から外れ、利用者に守られます。
逆に、資金移動業者が「預金」や「供託」で保全した場合、倒産時の法的な優先順位や返還スピードが、信託に比べてまだ不透明な部分が残ります。
この「信用の強度」こそが、決済インフラとしての適性を左右するのです。
2. 【民法・商法】の壁:「プログラムの実行=法的な契約完了」と認められるか?
私たちはこれまで「スマートコントラクトで自動執行」と簡単に言ってきました。しかし、法的にはこれは自明ではありません。
- 現状の商慣習: ビジネスは「契約書(紙やPDF)」に署名・捺印し、「検収書」や「領収書」を取り交わすことで法的に成立・完了しています。
- 最大の論点:「コード」の法的有効性 「コード・イズ・ロー(Code is Law)」、つまり「プログラムの記述(コード)そのものが法律(契約)である」という考え方は、まだ日本の法律実務では、馴染みがありませんし、法的確信、実務的コンセンサスにまで至っていないような印象を受けます。
突き当たる現実の疑問:
- 契約の成立: ブロックチェーン上の「検収完了」のデジタル記録は、法的に有効な「検収書」と見なされるでしょうか?
- バグの責任: もしプログラムのバグで「デジタル預手」が誤送金されたり、決済が実行されなかったりした場合、その責任は誰が負うのでしょう?(プログラム開発者? サービス提供者? それとも実行を指示した当事者?)
- システムの壁: 「不動産登記」と「デジタル預手」の支払いを同期させると言っても、肝心の法務局の登記システムはブロックチェーンと連携していません。法務省を巻き込んだ法改正と、巨大な国家システムの改修が不可欠です。
テクノロジーが「できる」ことと、法律実務が「異議なく認める」ことの間には、まだ深い溝があるのです。
3. 【資金決済法】の壁:「誰が、使いやすいデジタル預手を発行できるのか?」問題
2023年の法改正で、「デジタル預手(電子決済手段)」を発行できるプレイヤーは以下の3類型に限定されました。
- 銀行・信託銀行
- 資金移動業者(例:PayPay、楽天キャッシュなど)
- 特定信託会社(資産流動化などを手掛ける)
- 最大の論点・ 「イノベーション」と「規制」のジレンマ : この規制が、イノベーションの「足かせ」になる可能性があります。
- 銀行・信託(規制:強 / 信用:高) 最も信用がありますが、既存の巨大システムを抱え、新しいサービスを迅速に生み出すのは苦手かもしれません。
- 資金移動業者(規制:中 / 信用:中) サービス開発は速いですが、銀行に比べて信用力は劣り、前述の「倒産隔離」の論点も残ります。
本当に画期的なサービス(例:不動産決済アプリ)を作りたいスタートアップがいたとしても、彼らが自ら「デジタル預手」を発行するには、これらの重いライセンスを取得する必要があり、ハードルが非常に高すぎます。
結局、銀行が発行した「安全だが自由度の低いデジタル円」を、スタートアップがAPI経由で「借りてくる」形になるかもしれませんが、そのAPIがどれだけオープンに、安価に提供されるかは未知数です。
4. 【金融商品取引法】の壁:「それ、本当に”決済”ですか?」問題
「デジタル預手」の最大の魅力は「プログラマブル(プログラム可能)」であることです。しかし、これが新たな規制を生む火種にもなります。
- 現状の定義: 「デジタル預手」は、あくまで「決済」のための道具であり、価値が変動したり、利息や利益を生んだりしない(=投資商品ではない、投機性がない)ことが大前提です。
- 最大の論点:「決済」と「投資」の境界線 もし、あるサービスが「このデジタル預手を1ヶ月ロック(預ける)すれば、DeFi(分散型金融)で運用して年利1%の利息を付けます」と謳ったらどうなるでしょう。
その瞬間、これは単なる「決済手段」ではなく、「預金」や「有価証券(集団投資スキーム)」と見なされ、より厳しい金融商品取引法(金商法)の規制対象となる可能性が極めて高いです。
開発者は「便利な決済機能」を作っているつもりでも、規制当局からは「無許可で投資商品を売っている」と見なされるリスクがあります。この「決済」と「投資」の曖昧な境界線が、プログラムの自由な設計をためらわせる要因になります。
結論:これは「技術」ではなく「法制度や法律実務のアップデート」という名の挑戦
「デジタル預手」の普及は、単に新しいアプリが一つ登場するのとは訳が違います。 それは、
「倒産時の資産保全」
「契約のあり方」
「決済システムの担い手」
「決済と投資の分離」
といった、私たちの経済社会の根幹をなす法律やルールを、デジタル時代に合わせてどうアップデートしていくか、という壮大な「社会実験」そのものです。
「円建てステーブルコイン実用段階―ドル建て1強に風穴 3メガ・JPYCの2陣営に―越境送金へ弾み」という2025年11月8日付日経新聞の記事が報じた「信託銀行による発行」は、その中で最も安全で確実な「最初の一歩」に過ぎません。私たちが本当に注目すべきは、新しい技術のニュース以上に、それを支えるための「法律の改正(立法)」や「省庁の調整・整備(行政)」や「法律実務のアップデート(司法)」の動向なのです。
