「そういう意味では言っていない」
「いや、間違いなくそう聞いた」
この手のすれ違いは、企業活動の至るところで発生します。
そして、厄介なことに、どちらかが意図的にウソをついているわけではないことも多いのです。
むしろ、双方が
「自分の記憶こそ正しい」
と、本気で思い込んでいるのです。
そこにこそ、最大の落とし穴があります。
記憶は、最も不確かな情報源である
人間の記憶というのは、実に曖昧です。
人間の判断もまた、驚くほど不確かです。
にもかかわらず、私たちは
「たしかに言ったつもり」
「たしかに聞いたはず」
という“つもりの会話”で、日々の業務を進めてしまっています。
たとえば、こういうことが起きます
内装工事の仕様を、社内会議で打合せたとしましょう。
その場で、担当者は
「壁はグレーでいこう」
と発言したつもりになっていました。
ところが発注側の責任者は、
「白に寄せたほうが良い」
と聞き取っていました。
しかも、互いにメモまで取っていたのです。
ただし、色番号の共有はなされていませんでした。
どちらも、間違ったことを言ったつもりはありません。
どちらも、はっきりと覚えているのです。
そして、完成直前になって
「いや、白じゃなかったのか?」
「いえ、グレーで決まっていたはずです」
やりとりは、次第に
「どちらの記憶が正しいのか」
という水掛け論になっていきます。
ここで問題が収まれば、まだいいほうです。
この色指定のすれ違いが、発注先の施工会社を巻き込み、壁の張り替え、工程のやり直しへと発展します。
最終的には、納期の遅れにつながります。
納期遅延に怒った顧客が
「違約金を請求する」
と言ってきたとしたら――
はじまりは、ただの“記憶のずれ”だったにもかかわらず、企業としては、数百万円単位の損害賠償リスクに直面することになるのです。
会議、打合せ、口頭の説明、電話応対――
どれも記録されていないにもかかわらず、何となく成立した気になっているのです。
しかし、それらの“つもり”が破綻したとき、どうなるでしょうか。
企業は、損害賠償請求を受けます。
プロジェクトは、止まります。
部署間の信頼は、崩れます。
では、どうすればよいのでしょうか。
「自分を信じるな。他人はもっと信じるな」
この姿勢が、すべての出発点になります。
「信じていたから説明しなかった」
「信頼関係があるから記録は省略した」
それでは、何の対策にもなりません。
信頼関係とは、あくまで主観です。
法務の世界で必要なのは、
「信頼」
ではなく、
「証拠」
です。
信じないから書く。
疑うから残す。
会議のあとに議事録を送る。
電話で説明したことは、必ずメールでフォローする。
口頭の合意は、文書で再確認する。
そして、すべてに履歴をつけておくのです。
こうした記録の習慣は、決して
「相手を疑っているから」
ではありません。
「信じてしまう自分自身を疑う」
ために行うのです。
記録する会社が、生き残る理由
記録文化のある企業は、トラブルに強いです。
逆に、こうした文化が根づいていない企業は、同じミスを繰り返します。
その違いは、
「自分の記憶」
にどれだけ懐疑的になれるかという一点に尽きます。
「気心が知れているから、あえて書かない」
「今さら言語化するのは失礼かもしれない」
――こうした気遣いが、最も危険なのです。
むしろ、
「信頼していないからこそ書く」。
「失礼のないように、きちんと残す」。
そういう姿勢こそが、信頼の本質を守るのです。
では、どんなところから始めればよいのでしょうか。
たとえば、次のような動きを習慣化するだけで、“地獄”は大幅に遠ざかります。
・会議の議事録は、その日のうちに共有する
・電話の内容は、メールで即フォローする
・契約外の依頼には、文書で確認をとる
・決裁の判断には、履歴付きで記録を残す
記録することは、相手への配慮でもあるのです。
「検証できる仕組み」が、唯一の脱出口
「言った・言わない」
の地獄に堕ちる企業には、共通点があります。
・記録がない。
・言語化していない。
・文書が残っていない。
だからこそ、私はこう考えます。
「人を疑っているのではない。人間という仕組みを疑っているのだ」
と。
「自分の記憶」は信用しません。
「相手の記憶」も、同じように信用しません。
この“疑いの視点”こそが、
「言った・言わない」
の地獄に堕ちないための、唯一の武器になるのです。
記憶は変わります。
感情はねじれます。
信頼はすり減ります。
だからこそ――
記録する。
言語化する。
ミエル化・カタチ化する。
信じるな。記録せよ。
信頼ではなく、記録で守るのです。
記憶ではなく、データで検証するのです。
「信じる」
より、
「疑い続ける」
ことこそが、企業の知的防衛線になるのです。
著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所
【本記事をご覧になり、著者・所属法人にご興味をお持ちいただいた方へのメッセージ】
✓当サイトをご訪問いただいた企業関係者の皆様へ:
✓当サイトをご訪問いただいたメディア関係者の皆様へ:
✓当サイトをご訪問いただいた同業の弁護士の先生方へ:
企業法務大百科® 開設・運営:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所