法務の現場では、弁護士が“怒る”場面に遭遇することがあります。
しかも、唐突に、極端に、激しく。
「この条件はふざけている。話にならん」
「訴訟を辞さない」
声を荒らげ、机を叩き、身を乗り出して迫ってくる弁護士を前にして、
「相当、怒らせてしまった」
「これはもう引かざるを得ない」
「本気で限界なのだろう」
と受け取ってしまうことは、珍しくありません。
しかし、まさにその瞬間から、交渉の主導権が奪われていくことがあります。
その“怒り”は本気の感情ではなく、演出であることが少なくないからです。
「怒り」は台詞であり、演技
弁護士は、依頼者の利益を最大化することを仕事としています。
その目的のために、立場を使い分け、必要に応じて感情を演出します。
怒るフリをすることもあれば、泣き落としを試みることもあります。
いずれも、相手を動かすための手段です。
「怒り」
もまた、その1つです。
相手に
「この条件は絶対に譲れない」
と思わせることで、判断を揺らがせ、譲歩を引き出す。
計算された台詞で意図的に仕掛けてくるのです。
反応を見て“仕掛け”は更新されていく
怒りの演技は、弁護士だけのものとは限りません。
周囲の関係者――たとえば、社内の担当者や銀行の同席者なども、共演しているケースがあります。
その“演出”を忖度あるいは強化するために、黙り込んだり、うなづいたり。
高等テクニックとしては、わざと話題をそらそうとしたり、もあります。
このようなまわりの
「場の空気」
が、弁護士の演技にリアリティを与え、怒りの演出を“共同幻想”として強化します。
そして、怒りをぶつける当の弁護士は、同時に相手の反応を細かく観察しています。
・怒鳴ったときに誰が黙ったか
・誰が目を逸らしたか
・誰が沈黙し、誰が発言し始めたか
その一つひとつが、“交渉マップ”に記録され、次の台本の更新に使われていきます。
交渉とは「リアクションの収集場」
交渉とは、情報のゲームでもあります。
そして、弁護士にとっての交渉とは、単に
「感情をぶつける場」
ではなく、
「リアクションの収集場」
でもあります。
要するに、弁護士の
「怒り」
は、相手のリアクションによって成長・調整されていく、インタラクティブな設計要素です。
あなたの一瞬の反応が、相手の手札を増やす材料になるのです。
信じた瞬間に、交渉は相手の支配下に入る
怒りの演技を
「本気の感情」
だと信じた瞬間、あなたは自らの意思で判断しているつもりでも、すでに交渉の主語は相手のものになっています。
これは、情報統制のごく初期の症状です。
最初は“配慮”のつもりだった判断が、やがて相手の意見を鵜呑みにし、意思決定を委ね、最終的には交渉の方向性すら相手に渡っていきます。
交渉者としての主導権が、こうして静かに奪われていくのです。
具体的には、怒りの演技を
「本気の感情」
「本音」
だと信じた瞬間、あなたの判断基準は切り替わります。
「ここまで怒っている、ということは、これが限界なのだろう」
「とすると、相手の立場を考えて、こちらがもう少し譲っておくか」
「こっちが大人にならないとな・・・」
あなたの頭の中で、相手の主張が
「動かしがたい現実」
に変化するのです。
こうして、あなたの
「良識的な反応」
が
「あなたの判断基準」
を鈍らせ、
「あなたの判断基準」
は、自分の利益ではなく、相手の感情のケアにすり替わります。
それは、交渉の判断軸が、自分の立場から外れ、相手の演技に巻き取られていることを意味します。
本来の論点や構造が、目の前の“感情”に上書きされてしまうのです。
そしてそれこそが、相手側弁護士の“演技”が目指す地点なのです。
「怒り」を演技として受け取る視座を持て
弁護士のすべてが演技を使うわけではありません。
本気で怒っているケースも、確かにあります。
しかし、法務の現場においては、
「怒っているように見えるものは、まず演技として受け取る」
という構えは、必要です。
そうでなければ、怒りの演出に振り回され、思考停止し、誤った判断を重ねるだけです。
演技を演技として読み解く。
そして、その上で行動する。
それが、交渉現場で生き残るための、最低限の読解力です。
“演技読解”の視点
あなたの目の前で演じられているのは、“怒り”ではない。
交渉で使われる言葉の多くは、偶発的な感情ではありません。
それは、
「あなたを動かすために設計された情報」
です。
・語気ではなく、語る順番に注目する
・怒りの表情ではなく、その後の沈黙の時間に注目する
・怒りの後に「誰が何を提案したか」に注目する
・主張よりも「その前後で動いた誰か」を見る
・反応を焦ると、相手の台本に巻き込まれる
こうした視点を持つことで、あなたは、相手の“交渉台本”から自由になります。
逆に、その視点をもたずに、反応すれば、その瞬間、あなたの負けが始まります。
交渉の意思決定権を、あなた自身が相手に委ねてしまうことになるのです。
感情に動かされて譲歩したとすれば、それは、相手が上手だっただけではなく、こちらが
「交渉者としての務め」
を放棄したとも言えるのです。
怒っているように見えるのは、演技がうまいから
本気の怒りと、演技された怒り。
この2つを見分けるのはそう簡単ではありません。
うまい弁護士ほど、
「本気っぽく怒る」
のが巧妙です。
語気が荒く、目線が鋭く、言葉に棘がある。
そして、あなたの胸にズシンと響くような強い語調。
でも、その直後、席を離れた弁護士が、別室で笑いながらコーヒーを飲んでいたとしたら?
それこそが、“設計された怒り”の証といえましょう。
最後に
「怒っているように見えた」
「本気に見えた」
「だから譲った」
その判断は、感情を見た結果だったのでしょうか。
それとも、交渉設計を読んだ結果だったのでしょうか。
交渉空間では、
「どう見えたか」
ではなく、
「どう設計されているか」
を見抜くことが求められます。
怒りを信じる前に、まず一歩引いて、交渉設計を読む。
それが、交渉を他人ではなく、自分で動かすための、唯一の第一歩です。
著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所
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