00636_“げに恐ろしきは法律かな”その1:法は非常識である(「法」と「倫理(道徳)」は別物である)

いわれてみれば当たり前のことですが、
「法律」
は、
「道徳」や「常識」や「倫理」
とは別物です。

ちょっとした違いどころか、まったく違う、まったくの別物です。

これは、
「法律」
の意味内容と、
「道徳」や「常識」や「倫理」
がズレることを意味します。

さらにいえば、法律が
「健全な道徳」
に反する帰結をもたらしたり、非常識な結果を容認したり、倫理と真っ向から対立することもあり得ます。

もちろんすべての場面で
「法は反倫理的である」
とまではいいません。

しかし、リスク管理を十全にするため保守的想定を行う観点では、
「迷ったら思考負荷のかかる想定」
すなわち、
「常識にしたがったら法令に違反する場合がある」
「法が非常識な働きをすることもある」
「反倫理的状況に対して法が沈黙してしまい、救済の手を差し伸べてくれないこともある」
ということを、前提として理解しておくことが必要となります。

以下、
「法の世界」

「倫理の世界」
がどのように区別され、どのような違いがあるか、についてみてみます。

1 「法」の世界~客観的ルールが整備され、自由が保障された世界~

法とは、
「あれをしろ、これをしろ、と窮屈に人をしばりつける厄介で面倒なモノ」
と思われていますが、逆説的に考えれば、
「明確に書いてないことは、何をやってもいい」
ということが容認されているとも考えられます。

このような発想に経てば、法は、
「杓子定規に人を縛り付け自由を奪い去るもの」
ではなく、
「禁止の限界を画し、人に自由と安全を保障してくれる便利で役に立つもの」
とも考えられます。

実際、人にシビアなペナルティを与える刑法は、適用・発動の条件が厳格に規定されています(罪刑法定主義)。

当然ながら、
「倫理違反=法令違反」
とは限りません。

お前の行いは非常識だ、
お前の言動は秩序に反する、
お前の言い方は不愉快に過ぎ、社会に脅威を与える、
お前の本は反倫理的で秩序を乱す、
お前の作品は健全な価値観に対して挑戦的だ、
お前の思想は堕落した帝国主義の影響を受けており反体制的であり危険だ、
という理由で、逮捕され、投獄されることがないのは、倫理とか社会道徳とか秩序とか常識とかに違反しても、明確な法令に明確に違反しておらず、しかも、罪刑法定主義というリベラルな考え方が根底にあるからです。

我が国国民が、どこぞの独裁国家の国民と違って、突然の牢屋送りに怯えることなく、自由で楽しく暮らせるのは、(一見、権威的で、堅苦しく、厄介で窮屈な印象を与える)法律というものが、前述のとおり
「明確に書いてないことは、何をやってもいい」
というリベラルな効能を発揮しているからにほかなりません。

これを敷衍すると、
「道義的責任がある」=「(裏を返せば)法的責任までは追及できるかどうか不明」
ということすら、いえます。

また、
「企業倫理に反した行動」=「法に触れない範囲での経済合理性を徹底した行動」
とも考えられます。

「社会人としてあるまじき卑劣な行為」
も、法的に観察すれば、
「健全な欲望を持った人間による、本能に忠実な行為であって、非常識とはいえ、法的には問題にできない行い」
と考えられることもあります。

たとえ、
「社会人としてあるまじき卑劣な行為」や「企業倫理に反した行動」
を仕出かし、その結果、新聞やマスコミから、
「道義的責任がある」
「社会的責任を取るべきだ」
とバッシングの嵐があろうが、
法に触れていない限り、
「法的には」
まったく責任を取る必要などビタ1ミリない。

法は、
「法に書いてなければ何をやってもお咎めなし」
という形で、新聞やマスコミや世間のバッシングから、我々を守ってくれる。

そんな意外な一面をもっています。

実際、民法学の世界では、
「強欲や狡っ辛さは善」
であり、
「謙虚や慎ましさや奥ゆかしさは怠惰の象徴であり、唾棄すべき悪」
とされています。

すなわち、
「強欲で自己中心的な人間」=「自らの権利実現に勤勉な者」
という形で、民法の世界では保護・救済されます。

「自らの権利や財産を守るために、人目をはばからず、他に先駆けて保全や実現にシビアに動いた者」
は、権利が錯綜する過酷な紛争状況での最終勝者判定の場面で、
「自らの権利実現に勤勉な者」
として、保護されます。

他方で、
「おしとやかで、雅で、控えめな人間」
は、
「権利の上に眠れる者」
として、消滅時効の場面等で全く保護されず、その権利を奪いさらてしまいます。

適正手続の保障を定めた憲法31条
「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」
についてみてみましょう。

この条文は、カタギの方にはほとんど縁がなく、チエのある厄介者が頻繁に使うものです。

全国の組織的自由業者の方々にとっては、強い味方であり最も使える武器と考えられているかもしれません。

以下のようなケースをみてみましょう。

霞が関で、棒状の凶器により某官庁に勤める公務員が撲殺される通り魔事件が起きた。
警察は、犯人捜索のため、緊急配備を行った。
丸の内線の霞が関駅入り口近くで、人相が悪く、パンチパーマで、サングラスをかけ、雪駄履きで、ガニマタで、バットケースのようなものを背負いながら、携帯電話をしながら関西弁で大声で話ながら歩いている男がいた。
不審に思った警察官がバットケースのようなものの中身を見せろ、と言ったところ、男は、
「何じゃい、こら。ポリスの分際で、邪魔するんかい。わしは忙しいんや。そこ通さんかい。何?このケースを見せろ、てか。おんどりゃ、それ命令しとんか。イヤじゃ、ぼけ。見たかったら、令状もってこんかい」
といった。
警察官は、この、「生意気で、非常識で、見るからに反倫理的で、明らかに不審で犯罪臭のプンプンする、舐め腐った男」を取り押さえて、バットケースを取り上げ、中身を検めた。

ケース1:バットーケースから血糊がべったりついたバットが出てきた。しかし、男は、この状況の説明をせず、一切沈黙と貫いている。このバットを証拠にこの男に罪を問うことに特段の障害はないだろうか?

ケース2:バットーケースから出てきたのは、血糊など一切ついておらず、丁寧に包装された王貞治選手の700号ホームランを打ったときのバットで、数百万円もの価値をもつものであったが、取り押さえる際に無残に折れてしまい、また、この男は取り押さえた際に頭を打ち、死亡した。遺族は、取り押さえた警察官を告訴するとともに、国家賠償請求を検討しているが、これは認められるであろうか?

法は、ときに、
「手続的正義のためであれば、結果として、実体的不正義を容認するのもやむを得ない」
という判断をすることもあります。

例えば、違法収集証拠排除法則という理屈があります。

「刑事事件の捜査の過程で、証拠の収集手続が違法であったとき、起訴され、裁判となって、犯罪事実の認定においてその証拠を使おうとしても、証拠としては使えない(証拠能力が否定される)」
という刑事訴訟法上の法理です。

刑事訴訟法には記載がありません(非供述証拠について明文規定はない)が、憲法31条に基づき、判例によって採用された法理です。

前記事例においては、バットケースをもった男の言っている内容は、まさしくそのとおりであり、警察官の行為は、違法行為です。

令状が必要な状況であるにもかかわらず、令状もなく、いきなり逮捕や捜索することは、たとえ、それが制服を着た警察官がやっていたとしても、単なる、拉致監禁行為であり、住居侵入・窃盗行為であり、れっきとした違法行為であり、犯罪行為です。

事例1は、訴追側において、違法収集証拠排除法則によって証拠能力が否定されるリスクが発生しますし、事例2については、国家賠償請求訴訟や刑事告訴も十分な根拠と理由のあるものと判断処理される可能性が濃厚です。

このように、法は、決して
「窮屈で厄介で人生を不自由にするようなもの」
ではなく、むしろ、
「書いてなければ何をやってもいい」
という逆説的なメッセージを通じて、自由を愛し、道徳や常識に縛られず自由に生きる人間を保護し、その強い味方となります。

反面、法は、不正義・不道徳・反倫理・非常識に対して、比較的寛容であり、
「健全な道徳と倫理観をもつ、秩序を愛する道徳人」
に対して極めて不愉快に作用することも往々にあります。

したがって、法の世界では、
「そんな非常識な」
「そんなバカな」
「そんなことありえない」
という結論が数多く導かれますし、非常識で、不道徳で、反倫理的と思わざるを得ない結果を導きかねない、危険でダークな側面を有している、とも言えるのです。

以上みてきたように、法律は、道徳や常識や倫理や社会秩序に反する結果を容認する、という意味で、
「げに恐ろしきは法律かな」
と言えようかと思います。

2 倫理の世界 ~主観が幅を効かす、不自由で窮屈な世界~

倫理や道徳の世界ですが、法律家からみれば、不自由でデタラメな暗黒社会のように映ることもあります。

倫理の世界においては、
「人は、自由の前に、権利の前に、倫理を持つべきである」
という形で人を拘束し、人の自由が奪われることがあります。

そして、倫理は、あいまいで、実体が不明で、人によって、時代によって、変わります。

現代においては、お金を貸す際に金利をもらっても問題ありませんが、人を奴隷のように扱ったり、人身売買することは反倫理的とされます。

しかし、数百年前のヨーロッパにおいては、全く逆でした。
すなわち、農奴等の奴隷が日常生活に溶け込む形で普通に存在する一方、金を貸す際に金利を受け取ることは、大きな罪とされました。

また、国家や社会が違えば、特定の独裁者を褒め称えないことは反倫理的で反道徳的であり、ときに、刑務所よりも過酷な収容施設に送り込まれるような重大な罪を構成することもあります。

「反革命罪」
「帝国主義的堕落思想」
「ボリシェビキ的腐敗」
「不敬罪」
「帝国軍人としてあるまじき行為」
「反キリスト的行い」
「悪魔崇拝」
「公務員としてあるまじき非行」
いずれも、どんな行為がこれに該当するかさっぱり不明で、気分と印象によって適当に決められた挙げ句、非常に厳しいペナルティが課せられます。

これも、道徳や倫理や常識や秩序といったものの怖さです。

先程、
「げに恐ろしきは法律かな」
と言いましたが、それよりも怖いのは、道徳や倫理や常識や社会秩序といった、得体の知れない、具体性がなく、人によって、時代によって、社会によって融通無碍に形も中身も変えて、人を縛り付け、自由を奪うものなのかもしれません。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

【本記事をご覧になり、著者・所属法人にご興味をお持ちいただいた方へのメッセージ】
当サイトをご訪問いただいた企業関係者の皆様へ
当サイトをご訪問いただいたメディア関係者の皆様へ
当サイトをご訪問いただいた同業の弁護士の先生方へ

企業法務大百科® 開設・運営:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

弁護士法人畑中鐵丸法律事務所
弁護士法人畑中鐵丸法律事務所が提供する、企業法務の実務現場のニーズにマッチしたリテラシー・ノウハウ・テンプレート等の総合情報サイトです