01652_法律相談の技法18_継続法律相談(5)_相談者・依頼者の決意にストレステストを加え、覚悟のほどを確認する

継続法律相談において、
1 相談者と弁護士の役割分担を理解させ、相談者のタスクとして、『詳細事実経緯のミエル化・カタチ化・言語化・文書化及び痕跡の収集・発見・整理』を宿題として課して、これを責任を以て完遂させることができ、
2 詳細な見積もりを提示して、その後取引条件について意思の合致をみて、報酬契約を締結する前提が整備された場合、
次に行うべきは、
相談者・依頼者の決意にストレステストを加え、覚悟のほどを確認する
というプロセスです。

事件に着手・遂行し終了するまで、様々な想定外の事態が発生します。

想定外の事態の最たるものは、やはり、
「最終的に、希望した解決を一切得られることなく、敗北した状態で終結する」
というものです。

相談者・依頼者としては、そのような不愉快な事態は一切頭に入れていないと思いますが(負けることを想定してゲームを始めるようなバカはいませんので当たり前といえば当たり前です)、本来、冷静かつ客観的・俯瞰的視点を喪失してはいけない弁護士サイドまで
「勝つはず」
「勝つべきだ」
「絶対、勝つだろう」
「負けることはない」
といった楽観バイアスに冒されると、愚劣に堕し、結果、状況を見誤ってしまいかねません。

自分を過信し、敵を侮ると、理性を曇らせ、判断力を奪います。

勝負は水物であり、裁判の行方など誰にもわかりません。

「勝って当たり前、絶対負けるはずがない事件」
であっても、やってみないとわかりません。

「話し合いで折り合いがつかず、裁判までもつれ込んでいる」
という状況そのものが、
「相手方においても、当方と同じく、当方と同じだけの意気込みで、『勝つはず』『勝つべきだ』『絶対、勝つだろう』『負けることはない』と確信して応訴している」
という事実を示唆しています。

「処分証書(請求を基礎づける権利発生原因を明確に記述した契約書等)が存在して、相手方も事実関係一切を争わず、証人尋問を行うことなく事実に関する取り調べが訴訟開始早々終了するような訴訟」
であれば格別(銀行が借主に対して提起する貸金請求訴訟などではよくみられます)、第2回期日以降続行して、事実認識や事実評価・解釈や見解の隔たりが顕著に存在するような訴訟事件においては、要するに、どちらも相応に根拠のある言い分や証拠を提出しているわけであり、原被告双方とも、真剣に、
「勝つはず」
「勝つべきだ」
「絶対、勝つだろう」
「負けることはない」
と強く確信している状況です。

そういう状況において、
「『敗北することや、不利な状況を受け入れ、満足いかない和解条件を裁判所から提示されて不服ながら承諾するような悲観的状況』を一切想定しないし、まったく考慮に入れないし、断固拒絶する」
という幼稚で固陋な精神傾向は、
「楽観バイアスに冒され、冷静さと客観さを欠いており、認識不足も顕著であり、総じて、愚劣である」
ということができます。

裁判所の目線からは、民事紛争というのは、どう映っているのでしょうか。

そもそも論となりますが、
「一般的な民事訴訟において希求されるべき、本質的な目標とは一体何か」
と問われれば、端的かつ直截にいって、
「真実や真理や正義を追求する」
という高踏で高邁なものではなく、
「『私利私欲丸出しの当事者』の間における『エゴの調整』」
という、卑近で卑俗で下劣極まりないものです。

新聞で報道される大企業間の裁判であろうが、中小零細企業の契約をめぐる紛争であろうが、夫婦げんかや、仲の悪いご近所の間の縄張りの確定であろうが、正妻と愛人の間の故人の骨や墓の取り合いであろうが、本質は同じです。

当事者の思いはさておき、裁判所からみると、民事紛争はすべからく
「犬も食わない、猫も跨ぐ、くだらない意地の張り合い」
と映っているのです。

もちろん、当事者にとってみれば、
「それぞれが認識している真実があり、それぞれに言い分があり、それぞれが固く信じる『民事上の法的正義の実現』なるものを求めて、裁判所という公的機関の判断ないしお墨付きを求め」
ていると思われます。

しかし、
「報道に値する、公益性の高い一部の行政事件(例えば投票価値の平等の問題や基本的人権が危険にさらされているような事件)や冤罪事件」等
を除けば、通常の民事裁判紛争については、
「(少なくとも裁判所の目線からは)ほとんどの事件には絶対的な正義などというものはまったく存在せず、くだらない意地の張り合い、エゴのぶつかり合いでしかない」
とみられています。

裁判沙汰を考えられる企業も個人も、まずは、こういう、裁判所視線から眺めた
「身も蓋もない過酷な現実」
を、俯瞰状況として、きちんと認識しておく必要があります。

そして、以上のような、
「当事者の思いをまったく共有しない(むしろ、そのようなエゴの衝突を、卑しく、下劣で、くだらない意地の張り合いとして、冷ややかに眺める)裁判所」
が、
「訴訟において、強烈なまでの独裁的権力を保持し、原被告双方に対する生殺与奪の権利と権力を掌握している」
のです。

裁判官は、他の国家機関等からはもちろんのこと、他の裁判所や先輩裁判官、さらには最高裁長官からも、一切指揮や命令や指示や干渉や嫌味や説教も受けることなく、上司もおらず、個性と私情を発揮して、 差し詰め
「やりたい放題」
といった体で、目の前の事件処理を遂行できます (なお、裁判官といえども、人事権や配置権を掌握する最高裁事務総局には、頭が上がりませんが、同局は事件処理効率やノルマ達成・未達には厳しく目を光らせるものの、個々の事件についてまで干渉しない〔と推測されます〕)。

この
「裁判官が、個性の赴くまま、やりたい放題で仕事してもいい」
という業務指針は、単なる慣行でも取扱でもなく、法律の王様である憲法に明文で明記されているのです。

憲法76条3項をみると、
「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」
と書いてあります。

「その良心に従ひ」

「この憲法及び法律にのみ拘束される」
は、和歌における
「たらちねの」
「ちはやぶる」
「あをによし」
と同様、無意味な枕詞ですので、端的かつ本質的な意味ある文章に再記述すると、
「すべて裁判官は、独立してその職権を行ふ」
となります。

要するに、裁判官は、上司も指揮命令上の上級機関も不在であり、誰に遠慮することなく、誰はばかることなく、誰かの顔色を伺うことなく、誰かの意向を忖度することもなく、スーパーフリーの状態で、司法権力、すなわち、
「目先の事件についてどのような事実を認定し、どのように法律を解釈し、適用して、どのような解決をするか、ということを決定せいて宣言する権力」
を行使しちゃってよい、という、結構、ラディカルでパンクでロックなことが憲法に書いてあるわけです。

すなわち、裁判官が、その職務権限を行使するにあたっては、外部の権力や裁判所内部の上級者からの指示には拘束されないことが憲法上保障されているのです。

例えば、行政官が、
「この法律は、私の良心や憲法解釈に反するので、個人の判断として執行をしません」
とすると大問題となります。

ところが、裁判官は自分の良心と自身の憲法解釈・法律解釈に基づき、気に食わない法律を違憲無効と判断したり、憲法に反するおかしな法律制度を維持したりすることができるのです。

こういう言い方をすると、
「カタくてマジメそうな裁判所がそんないい加減なことをしないでしょう」
という声が聞こえてきそうですが、日本の最高裁は、民主主義について非常識ともいえる判断を長年敢行し続けています。

例を用いてお話しします。

東京都内の私立小学校で学級委員を決める際、クラスの担任が、
「港区と千代田区から通っている生徒に5票与え、中央区と渋谷区から通っている生徒には3票、足立区と台東区に通っている生徒には2票、川崎市から通っている生徒に1票という形で付与する」
と発表し、生徒の住所地によって票数を露骨に差別したとします。

もし、実際こういう非民主的な教育運営している教師がいたら、気でも狂ったのではないかと思われ、即座にクビを切られるでしょう。

しかしながら国政レベルにおいては、このような
「気でも狂ったか」
と思われる行為が平然と行われ、最高裁もこれを変えようとはしません。

すなわち、国会議員を選ぶ選挙においては、投票価値が平等ではなく、鳥取県や島根県の方々は3票ほど与えられる反面、東京都民や神奈川県民には1票しか与えられない、という異常な状況が長年続いています。

このような
「『多数決』ならぬ『少数決』による、非民主的な国民代表選出制度」
の違憲無効性が最高裁で度々審理されていますが、
「素性も選任プロセスもよくわからない、民主的に選ばれたわけではない、頭が良くて、毛並みがいいだけの、個性に乏しい、地味な最高裁の15人の老人たちの思想・良心」
によればこのような制度による選挙結果も
「違憲とまでも言えん」
とか
「違憲かもしれんが、たいしたことないし、選挙のやり直しとかそこまでは不要」
などとされ、延々と投票価値の不平等が事実上容認され、放置され続けているのです。

小学生の学級委員の選出ですら許されない非民主的蛮行が、国政レベルで平然と行われ、かつ最高裁に聞いても
「別に問題ない。これがワシらの良心じゃ。黙ってしたがっておれ」
という態度が貫かれるのです。

無論、最近では、投票格差の問題を是正するため立ち上がった弁護士グループの尽力で、ようやく、この問題が改善される動きが芽生えつつあります。

しかしながら、気が遠くなるような時間と多大なエネルギーと莫大なコスト(関わっている弁護士は手弁当参加であり、実費等もカンパで賄われているようです)をかけ、耳が痛くなるほど連呼しないと、
「少数決ではなく、多数決こそが民主主義」
という、小学生でも理解できる単純な理屈を実現してくれない。

これが、
「法の番人」の実体
です。

刑事事件や重大な憲法問題ですら、
「上司もなく、やりたい放題」
が憲法で保障されているのをいいことにありえない異常を何十年単位で放置するわけですから、そこらへんの民事事件の扱いなど、推して知るべしです。

法律というと、
社会「科学」
と分類されてはいるものの、単なる制度や取決めに過ぎず、集団的自衛権の議論の迷走ぶりをみてもわかるとおり、立場や時代や解釈者によってどのようにも使われます。

その意味では、法律は、
「サイエンス」ではなく、「イデオロギー」
なのです。

しかも、
「イデオロギー」
たる法律を解釈運用するのは、
「上司もなく、やりたい放題」
が憲法で保障されている、いわば
「独裁者」
たる裁判官。

「真理探求に謙虚な姿勢の科学者が、サイエンスを扱う」
のとは180度異なる、
「独裁者がイデオロギーを、自由気ままに振りまわす」
というのが司法という権力の実体です。

以上のとおり、裁判所は、日本国における最高・最強の権力を保持しながら、誰の指図を受けることなく、自由気ままに、個性を発揮することが憲法によって保障されており、この点において、個性の発揮が極限まで否定される行政官僚とはまったく異なるのです。

裁判所という国家機関は実にオカタイ感じのところで、そこで働く裁判官も、公務員の中でも最も個性がなく、慎重で先例を墨守する連中と思われがちです。

しかしながら、実際は、裁判官は行政官とはまったく異質で、上司もおらず、個性は発揮し放題で、先例や慣習をときに大胆に無視することも辞さない、実にラディカルな権力機関なのです。

そのような、
「自由気まま、勝手放題、天下御免」
といった体で事実認定権力と法適用権力を振り回す、また、目の前の事件を
「絶対的な正義などというものは全く存在せず、くだらない意地の張り合い、エゴのぶつかり合いでしかない」
と冷ややかに眺める、気まぐれな
「独裁的な専制君主」
である裁判官が、生殺与奪を掌握する、というのが、訴訟におけるゲーム環境です。

単純に考えて、勝率は常に50%程度なのであり、負ける状況や不利になる状況を一切考えずに、事件を取り組んでいれば、想定不足、認識不足、愚劣なまでに楽観的、独りよがりと言われても仕方ありません。

この意味で、冷静かつ独立の立場で、理性的であることが求められる弁護士が、依頼者と一体化して、極度の楽観バイアスに冒され、負けることや不利になることを一切想定に入れず、猪突猛進しか考えないのは、論外といえます。

問題は、弁護士として負ける状況や不利に陥る状況は想定していても、
・依頼者には伝わっていない
・依頼者には伝えているつもりでも、依頼者は一切聞いていない
・依頼者には伝えているつもりで、依頼者は言葉としては受け取っていても、話としては理解していない(理解を拒絶している)
・依頼者には伝えているつもりでも、依頼者は言葉として受け取り、話としても理解しているが、実感レベルでは一切腹落ちしていない
といった事情で、
「負ける状況や不利に陥る状況の想定」
という面で、
「弁護士と依頼者の間に、絶望的なまでに深い理解のギャップが存在する」
という事態が起こり得ます。

この、
「負ける状況や不利に陥る状況の想定」
という面で、
「弁護士と依頼者の間に、絶望的なまでに深い理解のギャップが存在する」
という事態
は極めて危険です。

このような事態においては、依頼者の内心には、
・本件は、「勝つはず」「勝つべき」「勝つだろう」「負けることはない」と強く確信している
・本件は、勝つのであり、勝って当然であり、負けることは一切想定する必要がないし、想定していない
という思考が深く根付いている、ということを示唆します。

そうなると、依頼者の内心における
・苦労して訴訟で勝っても(勝訴判決を得る、勝訴的和解を勝ち取る)、勝って当然の事件を勝っただけであり、弁護士の貢献価値はそれほど高くないので、成功報酬を渋りだす
・「勝つはず」「勝つべき」「勝つだろう」「負けることはない」「勝って当然」の事件を、万が一、負けたり、不利になったりすると、その弁護士は、考えられないくらい無能であり、即時に解任するか、理解・納得して支払った稼働分費用すら、返してくれ、などと言い出す
という精神傾向を放置・助長することになり、弁護士としては、勝っても地獄、負けたらさらなる地獄、という不愉快な二者択一状況を強いられる事になりかねません。

この意味で、クライアントが抱くであろう
「勝つはず」「勝つべき」「勝つだろう」「負けることはない」「勝って当然」
という楽観バイアスは、その精神の最深・奥底に巣食うものも含めて、きっちりと排斥しておくことは決定的に重要です。

とはいえ、これは言うほど生易しいものではありません。

弁護士になったり、弁護士を目指すような人種は、多かれ少なかれ、自意識や自尊感情や自負心が強く、自分が有能で、優秀で、非凡であると思い込んでおり、そのことをクライアントや世間や周囲から認められ、評価されたい、という精神傾向を持っています(無論、私もそのような自意識過剰な面を多分に有しています)。

そして、以上の弁護士の通有性は、依頼者から、
「すごいですね」
「この仕事は先生にしか出来ない」
「先生は不可能を可能にできる人だし、今回の件もそうなるはずです」
と言われて、素直に受け取って舞い上がるような精神傾向を内包することを示しており、この傾向に真逆の方向性をもって、
「この事件は負ける」
「この事件は厳しい」
「負ける状況、不利な状況に陥ることも想定すべきだ」
「裁判所は独裁権力をもっており、弁護士が介入できる余地は限られているし、どっちに転ぶかは時の運」
「楽勝、完勝という事件であっても、裁判は水物であり、先はわからない」
「私は無能であるとは言わないが、有能といっても、発揮の余地は限られている」
といって、依頼者がせっかく褒めてくれた状況否定して、自己評価を破壊するような真似をすることには自然とブレーキがかかります。

・悲観的な状況を一切伝えない
というのは論外としても、
・悲観的な状況を伝えるにしても、伝え方が弱い
・真剣に伝えていない
・クライアントに共有されるに至っていない
といったように、見通しについてのストレステストを加え、その結果をしっかりクライアントと共有できないまま(=クライアントにおいて、「勝つはず」「勝つべき」「勝つだろう」「負けることはない」「勝って当然」という楽観バイアスが残存した状態で)、同床異夢の状態で、過酷な事件に突き進み、
「勝っても地獄、負けたらさらなる地獄、という不愉快な二者択一状況を強いられる」
という帰結に陥る、という例も少なくありません。

最後に、
「見通しについてのストレステストを加え、その結果をしっかりクライアントと共有する」
というプロセスは、口頭でしっかりと伝えることはもちろんのこと、文書でも残し、証拠化しておくべきです。

クライアントの中には、記憶を上書きしたり、言ったことや聞いたことをすっかり忘れたり、すっとぼけたりする方も少なからずいて、
「聞いていない」
「話が違う」
「伝え方が悪い」
と開き直る姿勢を示すこともあります。

そのような緊張感あふれる状況において、
「言った言わない」の不毛な紛争
で消耗しないように、この種のことはきっちり文書に残しておくべきです。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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