1 幼稚なクライアントとは、空気を読まずに、わがままを通そうとするクライアント
私の個人的理解によるものですが、大人と子供の違いは、何かというと、他人に合わせることができるかできないか、という点に求められると考えます。
すなわち、子供の特徴は、自己中心的であり、天動説的なメンタリティです。
要するに、自分が世界の中心で、自分がすべてであり、自分がいなくなれば世界がなくなるのと同様、というメンタリティが子供の精神構造です。
人間のデフォルト設定としての精神構造は、子供のそれであり、幼稚なものです。
しかし、社会参加をし、集団行動を行う上で、帰属集団や組織や社会のロジックやルールを知り、これらを優先し、自分のやりたいことを理性で抑え込んで、他人や外部秩序に合わせることを学ぼうとします。
うまくこういうことを学べて、幼稚な精神構造を克服、書き換え、修正し、世界の中心は自分の外にあり、社会や外部秩序が自分の考えや価値や利益に優先し、自分など取るに足らない、という地動説的メンタリティを獲得することで、社会参加が可能となり、社会に居場所を見つけられ、社会生存することが可能となります。
逆に、いい大人になっても、自分が世界の中心で、自分がすべてであり、自分がいなくなれば世界がなくなるのと同様、というメンタリティのままでいると、引きこもりになるか、社会のルールと衝突した挙げ句、刑務所にご厄介になるか、いずれにせよ、社会参加が不可能となり、社会に居場所を見つけられず、社会生存することができなくなります。
2 裁判所という国家機関をどう捉えるか
例えば、裁判所は、
「真実と正義を愛し、悪やウソを憎み、明敏なる知性をもって、真実を発見し、正当な解決をもたらしてくれる弱者の味方であり、被害者たる当事者にとって、証拠がなくとも、理性と常識を働かして、相手が企図する嘘偽りを見破り、自分を救済してくれる、優しく、正しく、間違わず、心強く、無条件・無制限に信頼することができる、父や母のような存在」
という見方です(以下、「大岡越前守・遠山金四郎的裁判所観」といいます)。
裁判所利用者として、裁判所という国家機関をどのように捉えるか、という点については、いろいろなイメージを描くことが、
「論理上」は可能
です。
この対極に位置するのが、
「裁判所は、現実に発生した事実とは関係なく、証拠と法律のほか、スジとスワリという独特のロジックやルールを通じて、再構成したストーリー(事実とは異なる仮説、虚説)に基づき、憲法により付与された独裁的権力を用いて、権力的に物事を決めつけ、解決する役所であり、証拠もなく、法律的にも分が悪い事案で、一般的なスジやスワリとも乖離するようなものであれば、過大な期待をしても難しい」
という見方です(以下、「ただの権力的な役所としての裁判所観」といいます)。
この、
「ただの権力的な役所としての裁判所観」
について、さらに掘り下げますと、
民事裁判官のアタマとココロを分析する (1)~(6)
で書かれている裁判官のイメージとなります。
私としては、制度上の理解としても、四半世紀の実務経験としても、明らかに後者、
「ただの権力的な役所としての裁判所観」
が正しいと考えています。
「大岡越前守・遠山金四郎的裁判所観」
は、おそらく、テレビとか映画の見過ぎというか、小説という
「小さなウソ」
の世界と現実世界の区別がついていないか、実に、幼稚というか、アホというか、モノを知らない人間のモノの見方です。
3 裁判所における幼稚な行動
この
「大岡越前守・遠山金四郎的裁判所観」
を前提としますと、裁判所は、後見的な親のような優しい存在であり、いくらでも甘えられます。
当然のことながら、裁判所を
「甘えられる親のような存在」
と措定すると、裁判所利用者たる当事者は、子供のように甘えだします。
「証拠はさておき、実際あったことはこうだったんだ」
「いや、そりゃ、この文書には署名したし、押印もしたよ、だけど、この文書に書いてあることはまったくのデタラメなんだ」
「『こんなの形だけですから、とりあえず、署名・押印しといて下さい』って言われて、サインしてハンコ押しただけなんだ」
「確かに、手元に文書はあったんだけど、相手から、『ちょっと預かります。すぐ返すから』と言われて渡したんですけど、相手が返さないんですよ」
「母は、もう高齢で、半分認知症なんですよ。今まで月5万円でやりくりしていた母が、いきなり300万円とか自分の意思で使うわけないじゃないですか」
といった、話を、大の大人が、眦を決して、
「絶対受け容れられる、理解いただける」
という信念の下、大見得を切って、プレゼンをし、悦に入ります。
4 「自分の言いたいことを言うのではなく、相手(裁判所)が求めている話を求めている要件を充足させ、求めているスタイルで、要領よくプレゼンする」のが定石
他方で、
「ただの権力的な役所としての裁判所観」
を前提とするくらいの現実的な知性や成熟性を持てると、上記のような対応にはなりません。
裁判というゲームを支配するのは、司法権という圧倒的権力と裁量をもち、神の如き絶対性をもつ存在で、民主体制下の日本にあって
「専制君主国家の独裁君主」
として君臨する裁判官ですので、これを太陽とする、
「地動説」的な思考転換
によって、裁判官の有するロジックやルールと感受性に併せて、自分のプレゼン内容を最適化して、媚びへつらいます。
もちろん、
「裁判官の有するロジックやルールと感受性」
といっても、 裁判官の数が2018年時点で2782名いるわけであり(簡裁判事除く)、約2800ものローカル・ルールがあるわけですから、裁判毎に、この
「ブラックボックス化され、帰納的にしか把握できないローカル・ルール」
を探り当て、プレゼンを修正したりすることも必要です。
5 小括
ところが、前記のように、
「大岡越前守・遠山金四郎的裁判所観」
という偏見を強固に抱き、裁判所を
「甘えられる親のような存在」
と措定し、子供のように甘え、
「天動説」
のように自分を中心にして、自分の正義感や感受性の赴くまま、裁判官の受け取り方を意に介せず、マスターベーションよろしく、身勝手な主張を延々吐き出して、悦に入っている幼稚なクライアントがいます。
もちろん、まともな弁護士であれば、そのような幼稚なクライアントの思考や感性を矯正するのでしょう。
しかし、弁護士の知能・経験レベルもクライアントと同程度であったりすると、
「大岡越前守・遠山金四郎的裁判所観」
という偏見を強固に抱き、裁判所を
「甘えられる親のような存在」
と措定し、子供のように甘え、
「天動説」
のように自分を中心にして、 自分の正義感や感受性の赴くまま、裁判官の受け取り方を意に介せず、マスターベーションよろしく、身勝手な主張を延々吐き出して、クライアントと一緒に、悦に入ってしまうこともあるかもしれません。
弁護士自身は相応に知性も経験もあるのですが、クライアントの
「大岡越前守・遠山金四郎的裁判所観」
という偏見が強固で、幼稚さ・未熟さが矯正不能で、ギャラをもらっているため、不本意ながら、クライアントのメガフォンとして、幼稚な訴訟活動をさせられることもあるかもしれません。
いずれにせよ、このような意味で
「幼稚」なクライアント
が、まず、訴訟に必敗するクライアントの特徴である、ともいえそうです。
著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所
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