訴訟事というものは、いわば、常識と非常識の戦いです。
そして、常識と非常識が戦った場合、常に優位に立つのは非常識です。
1 「常識」対「非常識」の戦い
法も裁判も、
「法」
という非常識を理解し、味方につけ、これにしたがって非常識でえげつない準備をした側を守り、勝たせます。
「常識」
に囚われ、
「非常識」
な事態や相手を理解・想像せず、法という
「非常識」
にしたがった準備を、してこなかった者に対しては、怠惰、唾棄すべき存在として、徹底して煮え湯を飲ませます。
優位に立った非常識は、常識に遠慮するどころか、ますます図に乗り、のさばり、全てを奪っていきます。
ですから、次のような思い込み・バイアスにおかされ、(とらわれから)一歩も出ない人は、徹底して煮え湯を飲まされる、というわけです。
・常識的に対応して何が問題だ、何が悪い。
・こっちは、常識を味方につけているんだから、一点の間違いもない
・常識と非常識が戦ったら、常識が、非常識が負けるにきまっているだろ
・常識を唱えつづけていれは、いつかは、非常識も、常識に目覚め、こちらに遠慮し、話が通じ、妥協点がみつかるだろう
このような思い込み・バイアスにおかされ、とらわれている人は、状況を認知・解釈する段階で、バイアスや妙なフィルターがあるため、弁護士が話す言葉は理解できたとしても、話が通じないのだと思います。
いわば、天動説を盲信するバチカンの天文学者のようなもので、これは終生治らないかもしれません。
ちなみに、天動説が地動説に変わったのは、天動説を唱えるバチカンの学者が、観測結果や理論的整合性を理解納得し、頑迷固陋を捨て、説を変更したから、というわけではありません。
天動説を唱える学者は、どんな観測結果や整合する理論を示されても、死ぬまで、自説を変えませんでした。
天動説が地動説にとって変わったのは、天動説を唱える学者が全員死に絶えたからです。
バチカンは、1990前半まで天動説を正当としていました。バチカンが地動説を認めたのは、1993年になってからです。
ですので、このような、死ぬ思いで、発想の転換というか、マインドシフトをしないと、戦略はおろか、状況解釈そのものが共有できませんので、そもそも戦う前提が整いません。
2 正解はなく、あるのは地獄の選択だけ
訴訟事において、正解はありません。
「何か、直面した課題を魔法のように消し去ってくれる、過去の過ちをすべてなかったことにしてくれる、そんな便利で、身勝手な妄想を叶えてくれる、魔法が存在し、その魔法を使えるのが、弁護士だ」
と思う人は、少なくありません。
これは大きな勘違いです。
弁護士は、正解なき状況においては、失敗の先延ばしのため、無駄なあがきの支援しかできません。
とはいえ、この程度の悪あがきをするだけでも、時間、費用、エネルギーといった資源動員が必要になります。
無駄な悪あがきは、文字どおり、
「無駄」
であり、抜本的解決策はなく、相手を辟易させ、面倒な状況を作出し、そこで、ほんの少し妥協を引き出す効果しかありませんし、この手の悪あがきに対する耐性がある相手方には、まったく無益です。
その意味では、
「無駄な悪あがきをせず、コスパ重視・自尊心無視で、とっとと相手にひれ伏す」
という一方の極論と、
「たとえ、無駄とわかっても、コストをかけ、時間労力を投入し、徹底して相手にとって面倒で付加のかかる抵抗を続ける」
という他方の極論があり、その間に、
「どっちつかずの中間解がいくつか存在する」
というのが現実です。
そして、そのすべてが正解ではない、ということなのです。
この状況を理解できない人は、(訴訟事について、弁護士が)何を話しても、受容能力の前提がない(聞く耳をもたない)ということですから、
「弁護士とコミュニケーションを取るのは時間の無駄」
になる可能性は否めません。
戦う間にすべきこと(弁護士に相談する前にすべきこと)は、実は、
「常識と非常識が戦った場合、常に優位に立つのは非常識」
「正解はない」
と、発想を転換すること(マインドシフトをすること)といっても過言ではありません。
著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所
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