02168_議事録がなぜ“契約未満”であって“証拠以上”なのか_実務担当者が知っておくべき文書の真価

議事録は、契約書とちがって署名も押印もされていないことがほとんどです。

したがって、厳密な意味での
「合意書」
ではありません。

それにもかかわらず、実務の現場では、この議事録がときに
「契約書以上の意味」
を持つことすらあります。

それはなぜか。

どうして
「契約未満」
なのに、
「証拠以上」
の役割を果たすのか。

この一見矛盾するような構図に、組織実務の本質が見えてきます。

今回は、企業実務における議事録の位置づけについて、
「ミエル化・カタチ化・文書化」
という観点から、 実務的にひもといてみましょう。

契約書とはちがう「生きた事実」の記録

そもそも契約書というのは、交渉の末に
「合意した内容」
を、正式に文書に落とし込んだものです。

その意味で、契約書には
「合意内容がすべて」
だという前提があり、外に出ることも想定されています。

一方で、議事録は、交渉や協議の
「過程」

「前提」
が丸ごと記録されていることが多いです。

そこには、まだ固まっていない議論や、感情の機微、あるいはちょっとした合意の芽のようなものが含まれていることがあります。

要するに、議事録には
「議論の流れ」
が記録されているのです。

それは言い換えれば、“その場で交わされた議論という事実”であり、
「どんな文脈で何が語られたのか」
という証拠です。

なぜ“証拠以上”になりうるのか

たとえば、あるプロジェクトでのトラブル。

「言った・言わない」
で揉めたとき、議事録があれば、
「その場で何が共有されていたか」
がはっきりします。

もちろん、それは
「契約」
としての拘束力はありません。

しかし、意思決定のプロセスに沿った同席者の
「共通認識」
として、非常に強い力を持ちます。

もっと言えば、同じ会議に出席していた複数人の
「了解事項」
がそこに残っていれば、それは
「黙示的な合意」
を裏づける証拠として機能します。

議事録は、たしかに
「合意文書」
ではありません。

それでも、それを読み返せば、
「あの場では、こういう前提が共有されていた」
ということが、明確な証拠として、動かしがたい形で立ち上がってくるのです。

これこそが、
「契約未満」
なのに
「証拠以上」
と言われる所以です。

書いておけば、
「その時点のリアルな空気」
が記録されるのです。

議事録の効力は“凍結された時間”の中にある

議事録の力は、その瞬間の時点の記録であることです。

つまり、それが書かれた
「そのとき」、
どんな認識が、どんなメンバーの間で共有されていたのか。

それが、あとから再現できる。

これは、法務の実務感覚で言えば、
「その時点の認識を文書で固定する」
行為です。

たとえるなら、
「時間を凍結させる」
ようなものです。

言葉を変えれば、
「フローの事実をストックに変える」
ことともいえます。

フローで流れていく議論、口頭のやりとりを、ストック=残るものとして可視化する。

これが議事録の本質なのです。

そして、組織にとっての真価はここにあります。

すなわち、
「いつ(When)、どこで(Where)、誰が(Who)、何を(What)、なぜ(Why)、どのように(How)、(いくらで(How much))言ったのか」(5W2H)
という
「瞬間の記録」
が、後日の意思決定や責任追及の拠り所となるのです。

ミエル化・カタチ化・証拠化の起点になるということです。

議事録に求められるのは、正確さよりも“意図の反映”

もちろん、発言の一字一句が記録されている必要はありません。

むしろ、その場にいた人たちが
「たしかに、そんな流れだったね」
と思える納得感のある内容が重要です。

「客観性」
よりも、
「納得性」
が重視されるのが、議事録という文書の特性です。

たとえば、強めの反対意見があったのに、それが記載されていないと、後からその人が
「言ってないことにされた」
と感じてしまいます。

これは、後日の火種にもなりかねません。

一方で、細かく書きすぎて混乱させてしまっては本末転倒です。

事実と意図、そして空気感。

この3つをどう
「ミエル化」
するかが、腕の見せどころです。

「記録しておくこと」が組織を守る

議事録があるだけで、
「言っていなかったこと」
が言ったことにされるリスクは減ります。

逆に、言ったはずのことが、言っていなかったことにされる危険も回避できます。

これは、単なる証拠としてではなく、
「記録の習慣」
が組織にとっての安全網となっている、ということです。

書いておく。
残しておく。
見えるカタチで共有しておく。

これだけで、組織の意思決定やトラブル対応の地盤が、格段にしっかりしてくるのです。

「契約未満」だけど、「無視できない」
それが議事録のポジション

議事録というのは、法的に強制力を持たないこともあります。

しかし、それが組織内外で
「どれほど共有され、参照されていたか」
によって、それ以上の力を持つことがあります。

要するに、
「合意されていなくても、共有されていた」
ということが、結果として強い証拠になり得るのです。

それが議事録という文書の、絶妙な“立ち位置”です。

明文化されこそいないが、現場では重要なニュアンスの違いを理解しておくと、 書き方も、活かし方も、ひと味変わってくるはずです。

議事録は、書くだけでは半分。

議事録の真価は、
「残し方」
ではなく
「活かし方」
にあるのです。

どう「残し」、
どう「読まれるか」
までを考えてこそ、
「証拠以上」
の力を持つのです。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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02167 _“言った”“言わない”の地獄から抜け出す技法_「信じるな」から始まる、トラブル予防の技術

「そういう意味では言っていない」

「いや、間違いなくそう聞いた」

この手のすれ違いは、企業活動の至るところで発生します。

そして、厄介なことに、どちらかが意図的にウソをついているわけではないことも多いのです。

むしろ、双方が
「自分の記憶こそ正しい」
と、本気で思い込んでいるのです。

そこにこそ、最大の落とし穴があります。

記憶は、最も不確かな情報源である

人間の記憶というのは、実に曖昧です。

人間の判断もまた、驚くほど不確かです。

にもかかわらず、私たちは
「たしかに言ったつもり」
「たしかに聞いたはず」
という“つもりの会話”で、日々の業務を進めてしまっています。

たとえば、こういうことが起きます

内装工事の仕様を、社内会議で打合せたとしましょう。

その場で、担当者は
「壁はグレーでいこう」
と発言したつもりになっていました。

ところが発注側の責任者は、
「白に寄せたほうが良い」
と聞き取っていました。

しかも、互いにメモまで取っていたのです。

ただし、色番号の共有はなされていませんでした。

どちらも、間違ったことを言ったつもりはありません。

どちらも、はっきりと覚えているのです。

そして、完成直前になって
「いや、白じゃなかったのか?」
「いえ、グレーで決まっていたはずです」

やりとりは、次第に
「どちらの記憶が正しいのか」
という水掛け論になっていきます。

ここで問題が収まれば、まだいいほうです。

この色指定のすれ違いが、発注先の施工会社を巻き込み、壁の張り替え、工程のやり直しへと発展します。

最終的には、納期の遅れにつながります。

納期遅延に怒った顧客が
「違約金を請求する」
と言ってきたとしたら――

はじまりは、ただの“記憶のずれ”だったにもかかわらず、企業としては、数百万円単位の損害賠償リスクに直面することになるのです。

会議、打合せ、口頭の説明、電話応対――
どれも記録されていないにもかかわらず、何となく成立した気になっているのです。

しかし、それらの“つもり”が破綻したとき、どうなるでしょうか。

企業は、損害賠償請求を受けます。

プロジェクトは、止まります。

部署間の信頼は、崩れます。

では、どうすればよいのでしょうか。

「自分を信じるな。他人はもっと信じるな」

この姿勢が、すべての出発点になります。

「信じていたから説明しなかった」
「信頼関係があるから記録は省略した」

それでは、何の対策にもなりません。

信頼関係とは、あくまで主観です。

法務の世界で必要なのは、
「信頼」
ではなく、
「証拠」
です。

信じないから書く。

疑うから残す。

会議のあとに議事録を送る。

電話で説明したことは、必ずメールでフォローする。

口頭の合意は、文書で再確認する。

そして、すべてに履歴をつけておくのです。

こうした記録の習慣は、決して
「相手を疑っているから」
ではありません。

「信じてしまう自分自身を疑う」
ために行うのです。

記録する会社が、生き残る理由

記録文化のある企業は、トラブルに強いです。

逆に、こうした文化が根づいていない企業は、同じミスを繰り返します。

その違いは、
「自分の記憶」
にどれだけ懐疑的になれるかという一点に尽きます。

「気心が知れているから、あえて書かない」
「今さら言語化するのは失礼かもしれない」
――こうした気遣いが、最も危険なのです。

むしろ、
「信頼していないからこそ書く」。
「失礼のないように、きちんと残す」。

そういう姿勢こそが、信頼の本質を守るのです。

では、どんなところから始めればよいのでしょうか。

たとえば、次のような動きを習慣化するだけで、“地獄”は大幅に遠ざかります。

・会議の議事録は、その日のうちに共有する
・電話の内容は、メールで即フォローする
・契約外の依頼には、文書で確認をとる
・決裁の判断には、履歴付きで記録を残す

記録することは、相手への配慮でもあるのです。

「検証できる仕組み」が、唯一の脱出口

「言った・言わない」
の地獄に堕ちる企業には、共通点があります。

・記録がない。
・言語化していない。
・文書が残っていない。

だからこそ、私はこう考えます。
「人を疑っているのではない。人間という仕組みを疑っているのだ」
と。

「自分の記憶」は信用しません。
「相手の記憶」も、同じように信用しません。

この“疑いの視点”こそが、
「言った・言わない」
の地獄に堕ちないための、唯一の武器になるのです。

記憶は変わります。

感情はねじれます。

信頼はすり減ります。

だからこそ――
記録する。

言語化する。

ミエル化・カタチ化する。

信じるな。記録せよ。

信頼ではなく、記録で守るのです。

記憶ではなく、データで検証するのです。

「信じる」
より、
「疑い続ける」
ことこそが、企業の知的防衛線になるのです。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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02166_民事裁判のリアル_裁判官は書面しか読まない

民事裁判というと、テレビドラマのようなシーンを思い浮かべる方が多いかもしれません。

大きな法廷で、当事者が感情をぶつけ合い、証人が泣きながら語り、最後に裁判官が
「判決!」
と声を張り上げる――そんなイメージを持たれている方にとって、実際の民事裁判は驚くほど静かで、そして淡々としたものに映ると思います。

なぜなら、民事裁判の主戦場は
「言葉」
ではなく、
「文章」
だからです。

要するに、民事裁判は、基本的に
「筆談」
で進むのです。

法廷に立つといっても、口頭でどんどん話すわけではありません。

当事者の主張は、すべて
「訴状」

「答弁書」
といった書面にまとめられ、裁判官はその文書を丹念に読み込み、そこに書かれた事実や主張を整理したうえで判断を下します。

つまり、裁判というのは
「書いたもん勝ち」
なのです。

もちろん、
「書けば何でも通る」
という意味ではありません。

裁判所が納得するような論理と、裏付けとなる証拠が揃っていてはじめて、書いたことが
「意味を持つ」
ようになります。

逆にいえば、いくら真実を語っても、それが書かれておらず、証拠も示されていなければ、裁判所は何も判断できません。

ある控訴審で
「意見陳述をしたい」
という要望が出されたケースがあります。

裁判所からは
「できればご遠慮ください」
とやんわり拒否されました。

これもまさに、民事裁判が
「筆談」
を重視する仕組みのあらわれです。

当事者の熱い思いや心情は、裁判官にとっては
「ノイズ」
になり得るのです。

たとえるならば、裁判官というのは、ものすごく食が細くて、好みがはっきりしている
「美食家」
のような存在です。

その美食家に向かって、何でもかんでもてんこ盛りの大皿を差し出すと、逆に嫌がられてしまいます。

だから弁護士たちは、その裁判官の嗜好にあわせて、丁寧に一皿ずつコース料理のように主張や証拠を
「盛り付け」
ていくのです。

ここで大切なのは、
「何を言うか」
以上に、
「どう言うか」
「どんな順番で出すか」
「どんなカタチにするか」
ということです。

裁判官が最も知りたいことを、最初に、わかりやすく提示し、そのあとで補足を加える。

盛りつけが整っていて、食べやすい順番になっていれば、食の細い裁判官も、完食してくれる可能性が高くなります。

民事裁判では、証拠も重要です。

もちろん、それも書面で提出されます。

証人尋問や口頭の説明は、基本的には例外的なものですし、控訴審ともなればなおさら、
「文章」
だけで決着がつくのが一般的です。

そのため、証拠の意味や背景も含めて、文章でしっかり説明することが求められます。

また、裁判官は
「当事者が言いたいこと」
ではなく、
「裁判官が知りたいこと」
にしか興味を持ちません。

これは、見落とされがちですが、実は裁判における核心です。

自分の思いや評価、解釈をいくら語っても、それは
「分をわきまえない行為」
として逆効果になる可能性があります。

あくまで、事実を冷静に語り、法の適用は裁判所に任せる――これが民事裁判の基本です。

「汝、事実を語れ。我、法を適用せん」

民事裁判の現場に身を置くと、この構図が本当によく見えてきます。

当事者に求められるのは、事実を丁寧に書き残すこと。

そして、弁護士とともに、その書き方や伝え方を工夫すること。

これこそが、裁判に臨むうえでの要です。

民事裁判とは、裁判官との間で交わす
「筆談」
です。

しかも、相手は食の細い美食家。

だから、伝えるべきことをしっかりと、過不足なく、そして嗜好に合ったかたちで届けていく。

これが、民事裁判を戦ううえでの、本質的なポイントなのです。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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02165_企業法務における安全の構造_(最終回)再発防止は「研修の構造」で決まる_“やったか”ではなく“根づかせたか”

「研修はしました」
トラブル発生後に、そう釈明されることがあります。

確かに、企業として必要な研修を実施していた。
受講記録も残っているし、社内メールでも周知済み。
それなのに、なぜ起きたのか──

答えは、はっきりしています。

それは
「研修“だけ”で済ませてしまった」
からです。

研修は、実施すること自体が目的ではありません。

その内容が、現場で機能すること。

言い換えれば、
「実効性」

「定着度」
が伴って、はじめて意味を持つのです。

にもかかわらず、
「研修した=十分やっている」
という空気が、あたかも
「責任を果たした」
という錯覚を生みます。

しかし、それはまさに
「感覚による安心」
であり、
「構造による安全」
とは言えません。

ではなぜ、研修の成果は、効かなくなるのでしょうか。

形式と内容の「乖離」

ある企業で、労務トラブルが発生した事例があります。

就業規則に反する対応が現場で繰り返されていたのです。

けれども、その企業は数ヶ月前に
「就業規則改定研修」
を実施しており、参加率は9割を超えていました。

問題は、研修で扱った内容が
「理解されたかどうか」
「現場で運用されていたか」
の検証が、いっさいなされていなかったことです。

研修資料は配られていた。
講師の説明も丁寧だった。

それでも、現場に根づいていなければ、それは単なる
「儀式的なイベント」
にすぎません。

制度がどれほど整っていても、現場の手順や判断がそれに合致していなければ、組織全体としては
「遵守していない」
のと同じなのです。

「知っていた」と「できる」は違う

企業法務において重要なのは、
「知っていたか」
ではなく
「できるようになっていたか」
です。

たとえば、内部通報制度。

制度の存在は、誰もが知っている。

けれども、実際に通報があったとき、
受け手がどう対応するのか。
通報者がどう守られるのか。

これらが現場レベルで“再現可能”でなければ、制度の存在自体が形骸化していきます。

要するに、研修とは
「初期条件」
にすぎません。

その内容が、日々の実務に接続され、かつ継続的にアップデートされているかどうか。
つまり、
「知っている」が「できる」に変わっているかどうか。
そこにこそ、「研修をやった意味」が、本当に問われるのです。

「受けたかどうか」ではなく「活用されているか」

研修履歴は、ある意味で“最低限”の証拠です。

法務の観点から問われるのは
「その研修の効果が、組織の中でどう活かされていたか」
ということなのです。

たとえば──
・研修内容が業務手順書に反映されているか
・マニュアルやFAQに落とし込まれているか
・受講後に現場でミスが減っているか
・内容理解の再確認やテストが実施されているか

これらを記録として残しておかない限り、外部からは
「やった証拠があるだけ」
に見えます。

むしろ、
「研修をしたのにミスが続いている」
という状況では、企業の体制に対する不信感さえ招きかねません。

研修の“ミエル化”と“カタチ化”

では、どうすれば研修の成果を「効く」ものにできるのか。

答えは、これまでと同じです。

つまり──
「ミエル化」
「カタチ化」
「言語化」
「文書化」
「フォーマル化」
この5つを、研修という“教育プロセス”にも適用することです。

たとえば:
・研修後アンケートに、業務改善提案欄を設ける
・研修内容に関する現場観察を定期的に実施する
・年次評価の中に「研修内容の活用状況」を組み込む
・研修フォローアップとして、現場でのOJT計画を策定する
・「研修を受けたこと」ではなく、「できるようになったこと」を評価対象にする

こうして初めて、研修が単なる“儀式”から、組織を動かす“仕組み”へと変わります。

「やったかどうか」ではなく、「備えていたか」

事故が起きたときに本当に問われるのは、
「そのリスクにどう備えていたか」
という一点なのです。

「どのような周知・訓練をしていたか」
その周知・訓練は、実効性をどう担保していたか」

この問いに、
「一斉研修をしました」
「説明会を開きました」
では通用しません。

必要なのは、
「その研修をもとに、現場の行動がどう変わったか」
を示せる構造です。

つまり、問われるのは
「研修をやったかどうか」
ではなく、
「それによって何が変わったか」。

そこにこそ、リスク管理の本質があるのです。

感覚から構造へ

本シリーズで繰り返し述べてきたように、組織の安全は
「感覚による安心」
ではなく、
「構造による安全」
によって支えられます。

社員教育の一環としての研修も、例外ではありません。
・内容の伝達
・理解の確認
・実務への反映
・再現性のある手順化
・振り返りと改善サイクル

結局のところ、研修とは
「構造の中で機能してこそ」
意味を持つものであり、
「構造としてどう根づかせるか」
が問われているのです。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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02164_企業法務における安全の構造_「誰が見ても同じ判断」ができるか?

「たしかに確認はしました。でも、大丈夫そうだったので通しました」
ある中堅企業の担当者が発した言葉です 。

それは、取引先との契約書を担当者とその上長が確認し、法務部門もチェックをした上で決裁に至った案件でした。

ところが、後日、契約条項の一部について、親会社の監査役から
「法令違反の懸念がある」
と指摘を受けることになりました。

確認が漏れていたわけではありません。

むしろ、すべてチェックしていました。

それでも見逃されたのです。

これは、
「チェック体制そのものの“構造的限界”」
が表面化し、問い直されることになった事例です。

「見たはずなのに、見ていなかった」構造的リスク

現場では、このようなすれ違いは少なくありません。

「何度も確認した」
にもかかわらず、判断にばらつきが生じたり、時には全く食い違うことさえあります。

これは、担当者個人の注意力に原因があるわけでもなく、意識やスキルの問題でもなく、努力の有無でもありません。

「判断基準の構造」に起因しているのです。

たとえば、
・何をもって「チェック完了」とするのか
・どの観点で何を確認するべきか
・「OK」と判断した根拠はどこに残るのか

これらが曖昧なままでは、いくら複数人でチェックしても、同じ結論には至りません。

逆に言えば、
「誰が見ても、同じ判断ができる」
ためには、判断の“構造”そのものが設計されていなければならないのです。

「ミエル化」されたチェック体制とは?

チェックするポイントを
「人の目」
に頼っているうちは、属人性からは脱却できません。

つまり、
「誰が見るか」
によって判断が変わってしまう構造では、安全も、再現性も、担保できないのです。

では、どうすれば、
誰が見ても、同じ判断ができるよう、
「判断基準の構造」
がつくれるのでしょうか。

具体的には、どうすればチェック体制を
「ミエル化」
できるのでしょうか。

ここで重要なのは、次の2つの視点です。

(1)チェック内容の明確な“基準化”
(2)チェック結果の“再現可能性”の確保

(1)契約書であれば、条項ごとに「確認すべき観点」が明文化されているか。
たとえば、
「解除条項における相手方有利な条件はないか」
「個人情報の取扱いに法令違反の可能性はないか」
など、
「見るべき項目」
が一覧化されているだけで、判断の精度は格段に上がります。

(2)次に、チェックした事実がどのように記録され、追跡できるか。
これは単なる
「チェック済」
の一言ではなく、
「どの担当者が」
「いつ」
「何を見て」
「どう判断したのか」
その痕跡が残っていることが不可欠です。
いわば、判断に対する“記録の裏付け”とも呼べる
「監査証跡」
の構築です。

ダブルチェックは「安心感」ではなく「構造」で機能する

しばしば、
「ダブルチェックだから大丈夫」
という声を耳にします。

しかし、ただ
「2人で見た」
あるいは
「2人がチェックした」
というだけでは、同じ穴を見逃している可能性も否定できません。

それぞれが
「自分は見たつもり」
になっているだけで、結果として、誰も見ていなかったことさえあるのです。

ダブルチェックが本当に機能しているかどうかは、
「構造」
を見なければわかりません。

重要なのは、
(1)チェックする内容の「分担」ではなく「補完」になっているか
(2)チェックミスの可能性を想定し、対話型のフィードバック設計があるか
(3)「ミスが起きた場合」に備えたトレーサビリティが取れているか

このような仕組みがあるからこそ、ダブルチェックは意味を持つのです。

たとえば、ある上場企業では、法務部門とコンプライアンス部門の間で、
「チェック観点」
の視点差をあえて活かすことで、異なるリスクの拾い上げを実現しています。

要するに、同じ書類を見るにしても、違うレンズで照らすことで、ようやく構造的な抜け漏れに気づけるのです。

記録されていなければ、判断とは言えない

問題が起きたとき、あるいは、あとから契約内容や意思決定が見直されるとき、企業法務の現場では、次のような問いが投げかけられます。

「なぜその判断をしたのですか?」
「そのとき、どんな基準で決めたのですか?」

この問いに対して、
「何度も確認しましたが、問題はありませんでした」
といった口頭の説明だけで、通用する時代ではありません。

資料がない、記録がない、根拠も残っていない──
それはすなわち、
「判断の痕跡が構造として存在していなかった」
ということになります。

つまり、法務としてのリスクと見なされるのです。

だからこそ、法務におけるチェックは、単に
「確認しました」
で済ませてはなりません。

「この基準に照らして、確認し、記録した」
と説明できる構造を、あらかじめ備えておくこと。

それこそが、組織の信頼を支える力になるのです。

リスク管理とは、「判断の設計図」を持つこと

問題が起きたあとではなく、起きる前にこそ備える。

これが、リスク管理の本質です。

・そのために必要なのが、判断の手順を設計図としてミエル化すること。
・属人的な感覚や経験に頼らず、誰が見ても同じ判断ができるようにする。
それが、法務体制の基盤になります。

たとえば──
・チェックリストのルール化
・電子決裁システム上での履歴保存
・レビュー記録の保存と改訂ルール
・誤判断の原因を検証し、ルールに反映する仕組み

これらはすべて、判断を再現可能にする仕組みです。

確認したという事実ではなく、
「どう確認し、どう判断したのか」
が再現できる構造こそが重要なのです。

チェックを「感覚」から「構造」へ──それが組織の安全文化

「見たつもり」で終わらせない。

「2人でチェックしたから安心」
では済ませない。

チェックが本当に機能しているかを支えるのは、安心感ではなく、構造です。

・チェック体制とは、単なる分担ではなく、互いの観点を補完し合う仕組み。
・ミスが起きた場合を前提にしたフィードバック体制。
・そして、トラブルの痕跡をたどれるトレーサビリティ。

このような設計がされてこそ、ダブルチェックは本当に意味を持ちます。

「誰が見ても、同じ判断になる」
この状態を構造としてつくることが、企業にとっての安全インフラであり、責任のカタチなのです。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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02163_企業法務における安全の構造_「前任者からそう聞いていた」は通用しない

「前任者からそう聞いていました」

現場で問題が起きたとき、よく耳にする言葉です。

その裏には、暗黙のルールや文書化されていない手順、口頭だけで引き継がれてきた慣行が、当たり前のように存在しています。

たとえば、ある企業の経理部門では、
「この処理、正式なマニュアルはないんです。でも、◯◯さんから『こうやればいい』と聞いて、ずっとそうしていました」
という声が聞かれました。

その
「慣れたやり方」
は、いつの間にか標準となり、誰も疑問を持たないまま、年単位で運用されていたのです。

問題が表に出るまで、そこにリスクがあるとは、誰も気づきませんでした。

別の企業の法務部門でも同じような構図があります。

たとえば、株主総会の招集通知を作成していた法務担当者は、こう話しました。

「昨年のファイルを参考にして、ほぼ流用で作りました。前任者から『この文案で問題なかった』と聞いていたので──」

ところが、新任の監査役から、次のような指摘が入りました。

「この文言、会社法改正前の表現のままですね」
「総会参考書類と事業報告との整合性がとれていません」
「この記載、どの会議体で承認されたのですか?」

担当者は答えに詰まりました。

なぜそう書いたのか。

誰が決めたのか。

どういう経緯だったのか。

記録も、承認履歴も、残っていなかったのです。

経理部であれ法務部であれ、根っこにあるのは共通しています。

それは
「構造化されていない業務」
というリスクです。

「引き継ぎでそう聞いた」
「前任者の資料を真似た」
こうした属人的な継承は、平時には機能しているように見えても、いざトラブルが起きれば組織としての説明責任にはなりません。

そして、それは企業法務にとっての“構造的な盲点”なのです。

「言われていたから」「見よう見まねで」では通用しない

こうした口伝え文化には、
「たまたま知っている人がいたから機能していた」
だけ、という危うさがあります。

制度としての裏付けがなければ、それは単なる
「偶然の安定」
にすぎません。

重要なのは、組織として次の問いに答えられるかどうかです。

「なぜその手順なのか?」
「どの会議体で承認されたのか?」
「リスクは検討されたのか?」

これに答えられなければ、監査対応も、訴訟対応も、行政対応も、すべて後手に回ります。

そして、そうした
「答えられない業務」
の背景には、必ず
「構造の欠如」
があります。

「教わっていないから」では、もう通用しない

特に新任担当者のミスが発端となった場合、
「引き継ぎが不十分だった」
「マニュアルがなかった」
「前任者からはそう聞いていた」
というような反応が返ってくることがあります。

それ自体が責められるものではないにしても、企業法務の視点では、それこそがリスクの根源です。

非公式な引継ぎが積み重なるほど、組織の記憶は個人に依存していきます。

そして、ある日、その個人が退職すれば、ノウハウもルールも消えてしまうのです。

これは、最も危険な属人リスクです。

「慣行」や「習慣」も、文書化されてこそ組織の意思になる

ある中堅メーカーでは、
「Aという処理は月末ではなく翌月1日にずらすのが慣例」
になっていました。

理由は
「前任者がそうしていたから」。

けれども根拠は誰も知らず、ルール化もされていませんでした。

その結果、財務報告に誤差が生じ、監査法人から是正指摘を受けました。

ここで問われるのは、その慣行の
「良し悪し」
ではありません。

「なぜそうしていたのか」
「誰が承認したのか」
「文書として、どう残されているのか」
その有無が、ガバナンスを問う土台になるのです。

長年の慣習であっても、組織としての合意と記録がなければ、それは
「個人判断」
とされかねません。

つまり、説明責任を支えるのは、感覚でも経験でもなく、
「記録された構造」
なのです。

必要なのは、“属人性”から“構造”への転換

属人化した業務は、一見するとスピーディーです。

けれども、その効率性は
「透明性のなさ」
という代償を伴います。

これを防ぐには、業務の棚卸しと再設計が不可欠です。
たとえば、

・引継ぎの標準化と記録のルール
・慣行の背景を記述した補足文書
・意思決定プロセスのログ保存
・定期レビューとアップデート体制
・「個人判断」の範囲と承認基準の明確化

こうした仕組みがあって初めて、業務の再現性が担保され、属人リスクは構造へと転換されます。

それがすなわち、
「ミエル化」
「カタチ化」
「言語化」
「文書化」
「フォーマル化」
という、組織の安全設計なのです。

伝統”と“惰性”は、紙一重である

慣行が
「伝統」
として尊重されるか、
「惰性」
として批判されるか。

その分かれ目は、文書による裏付けと、継続的な検証です。

「そう聞いていたから」
ではなく、
「なぜそうするのか、明文化されています」
と言えること。

そこにこそ、組織の成熟度が現れます。

そして、リスクは
「構造にしなければ残り続ける」
のです。

「文書がなかった」
では、もはや言い訳にならない時代なのです。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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02162_企業法務における安全の構造_ヒヤリハットは“共有してこそ”意味がある

ヒヤリハットは「共有しないと」意味がない

「ヒヤリとしたが、報告するほどではない」
「現場ではよくある話だ」
「あとで話題にしても、どうしようもない」

ある作業員は、こうも言いました。
「一瞬だけ危なかったんです。でも何も起きなかったし、わざわざ言うことでもないと思って・・・」
こうした言葉が、組織の中で交わされているとすれば、それ自体が重大なリスクの兆候です。

ヒヤリハットは、インシデントや重大事故の
「予兆」
です。

その場で収まったからといって、組織として学びを止めていい理由にはなりません。

それどころか、組織の安全文化を測る
「リトマス試験紙」
とも言えるのです。

けれども現実には、そうしたヒヤリハットが共有されず、記録にも残らないまま、日々、見過ごされていきます。

そしてそれが、企業法務にとっての
「構造的な盲点」
となって、じわじわとダメージを蓄積させていくのです。

ある製造系企業での事例です。

作業員が
「足を取られそうになった場所」
があったものの、その報告は上がりませんでした。

2週間後、同じ場所で別の作業員が転倒し、労災に。

また、あるSaaS企業(*)では、顧客情報の更新作業中に操作ミスが起きましたが、事なきを得たため未報告。

組織には何の記録も残らず、改善もなされないまま、3ヶ月後に全く同じ操作ミスで情報漏洩が発生しました。

事故が起きたときに、こう言われるのです。
「そういえば、前にも似たようなことがあった」
「その時に共有されていれば、防げたのではないか」

ヒヤリハットとは、まさに
「事故の芽」
です。

そして、その芽が組織の中で摘み取られないまま、無言のうちに広がっていくのです。

ヒヤリハットが共有されない背景には、個人の怠慢よりも、むしろ
「構造の欠如」
があります。

「報告しづらい」
「小さなことだと軽視される」
「言った者負けになる」
そんな空気が、組織に根を張ってしまっているのです。

この空気を温存する限り、ヒヤリハットは
「経験者の中だけで完結する知見」
になってしまいます。

組織は学べず、リスクの蓄積は繰り返される。

これこそが、企業法務にとっての
「リスクそのもの」
です。

そもそも、事故は突然起きるものではありません。

必ず、何らかの予兆があります。

そしてその予兆は、
「感覚」
で捉えられても、
「共有」
されなければ組織には届きません。

ヒヤリハットは、共有されてこそ意味があるのです。

一人の気づきを、組織全体の
「構造的知見」
に昇華させる仕組みこそが、必要なのです。

ヒヤリハットは「感覚の蓄積」で終わらせてはならない

企業法務の視点から見たとき、ヒヤリハットには2つの重要な意味があります。

(1)インシデント未満の「兆し」への備え
(2)事後的責任論における「把握・判断」の説明可能性

後者は、訴訟や行政処分、監督官庁対応の局面で、必ず問われるポイントです。

「過去に同様の兆候はなかったか」
「それにどう対応したのか」

この問いに答えられなければ、
「組織は備える機会を自ら放棄していた」
と見なされても反論できません。

つまり、ヒヤリハットの放置は、
「感覚で済ませたこと」
ではなく、
「組織としての過失」
と見なされるリスクをはらんでいるのです。

ヒヤリハットを「共有可能な構造」にするために

このリスクを防ぐには、教育や精神論では不十分です。

必要なのは、共有できる「構造」です。

たとえば、

・スマホでも入力できる簡易な報告フォーム
・報告内容の分類ルールと可視化の仕組み
・定期的なレビュー会議での運用ルール
・報告→改善→報告のサイクル化
・報告者を守る評価制度とガイドラインの整備

こうした仕組みを通じて、
「ミエル化」
「カタチ化」
「言語化」
「文書化」
「フォーマル化」
を実現する構造が、初めて組織に根づくのです。

ヒヤリハットを
「気のせい」
で終わらせない。

それが、リスク管理の基本であり、企業法務の使命でもあります。

リスクを防ぐのは感覚ではなく構造

ヒヤリハットは、共有されなければ
「存在しなかったこと」
になります。

しかし現実には、そこにこそ最大のリスクが眠っているのです。

「まだ事故にはなっていない」
という静けさは、必ずしも安全を意味しません。

ただ
「何も記録されていないだけ」
かもしれないのです。

だからこそ、法務部門には
「感覚の防止策」
ではなく、
「再現可能な構造としての事故予防設計」
が求められます。

法的トラブルが発生してから動くのではなく、その
「芽」
を拾い、構造に変え、未然に防ぐ。

そこにこそ、企業法務の本質的な価値があります。

そしてそれが、組織における安全文化の成熟度を測る、もっとも重要な尺度なのです。


(*)SaaSとは?
SaaS(サース)とは、「Software as a Service」の略で、ソフトウェアを買って入れるのではなく、インターネット経由で使うサービスのことを言います。
たとえば、勤怠や経理、顧客管理やファイル共有など、日常の業務ツールが「ログインすればすぐ使える」かたちで提供されます。
使いたい機能だけを選べて、システムの管理も含めて外部に任せられるのが特徴です。
今では、多くの企業にとって欠かせない存在となっています。
(出典:デジタル庁「政府情報システムにおけるクラウドサービスの利用に関する基本方針(2023年9月)」)
https://www.digital.go.jp/assets/contents/node/basic_page/field_ref_resources/e2a06143-ed29-4f1d-9c31-0f06fca67afc/5167e265/20230929_resources_standard_guidelines_guideline_01.pdf

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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02161_企業法務における安全の構造_ クラウド時代のリスクは感覚では防げない

「情報管理には“気をつけていたつもり”でした」
サイバー事故や個人情報漏洩の報道で、こうした発言が関係者から繰り返されることがあります。

けれども、
「つもり」
では済まされないのが、情報漏洩というインシデントの厳しさです。

ある情報通信系のスタートアップで、クラウドに保管されていた顧客データが、外部から閲覧可能な設定になっていたことが判明しました。

社内では、
「セキュリティは意識していた」
「全員に研修はしていた」
といった声が上がりました。

調査をすすめるうちに浮かび上がってきたのは、リモートワーク環境のなかで、情報共有を円滑に進める目的でクラウドを導入していたという事情です。

チーム内では
「アクセス制限は各自が責任を持ってやっている」
という
「暗黙の了解」
があったそうです。

しかし、アクセス管理の具体的なポリシーがなく、組織としてその方針を明文化しておらず、設定方法もメンバーに一任されていたのが実態でした。

結果として、
「見られないはずだったファイル」
が、世界中の誰でも閲覧できる状態で放置されていたのです。

「大丈夫だろう」
「見られないはず」
という“感覚”のもとで、リスクが放置されたことになります。

技術の問題ではありません。

これは、
「組織の構造が甘かった」
ために起きた事故です。

リスク管理を
「感覚」
で捉える限り、事故は避けられません。

むしろ、
「今まで何も起こらなかったから大丈夫」
という空気が、最大のリスクとなるのです。

組織の安全とは、こうした
「なんとなく」
を許容しているかどうかで、決まります。

リスクは可視化されない限り、見過ごされます。

そして、何か起こった後に
「誰の責任か」
がわからなくなるのです。

スタートアップ企業なら、なおさらのこと。

立ち上げたばかりの頃は、メンバーのほとんどが
「前職の同僚」

「知り合い経由」。

気心の知れた間柄でスタートした分だけ、
「誰が何をどこまで責任を持つのか」
が、きちんと決められないままになっていました。

「社長が言うなら」
「○○さんがそう言ってたし」
そうやって、責任の所在がぼやけたまま、組織が動いてしまっていたのです。

それが、
「管理されていた“つもり”」
という最大の落とし穴につながっていたと言えるでしょう。

だからこそ、情報管理は、
「構造として設計」
される必要があります。

アクセス権限の明示、ログ管理の仕組み、定期的な設定レビュー、そして違反時の対応手順など
「ミエル化」
「カタチ化」
「言語化」
「文書化」
「フォーマル化」
この5つの手続きがあって、はじめて
「安全」
は保証されます。

言い換えると、それらすべてが、
「ミエル化」
「カタチ化」
されていなければ、真のリスク管理とは言えないのです。

具体的に言うと、情報通信業において必要な安全管理の構造とは、次のようなものとなります。

・アクセス権限の明確なルールと社内研修
・ログ取得とそのモニタリング体制
・共有フォルダの使用ルールと定期レビュー
・インシデント発生時の対応手順書
・機密情報とそうでない情報の分類ポリシー

これらが設計され、
「文書化」
され、運用されているか。

そこにこそ、
「管理されているか否か」
の本質が問われるのです。

裏を返せば、
「記録がない組織」
は、
「何もしていなかった」
と見なされても、反論できません。

安全とは、
「注意していたかどうか」
ではなく、
「説明できるかどうか」
にかかっています。

リスク管理の本質は、
「起きたときに説明できるように備えておくこと」
です。

今回のクラウド事故の根本原因は、技術ではなく、構造だったのです。

セキュリティ事故の本質は、技術の限界ではありません。

組織の姿勢、そして
「仕組み化への覚悟」
の有無にこそ、問われるものです。

安全を守るのは、感覚ではなく、構造なのです。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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02160_社員の不祥事にどう向き合うか_その5_痴漢で逮捕されても解雇はできない?_懲戒も休職も難しい時、どう動くか

痴漢で逮捕された――懲戒は可能か?

社員が刑事事件の嫌疑をかけられたとき――企業は、どのように対応すべきでしょうか。

たとえば、通勤電車内で痴漢行為をしたとして社員が逮捕された場合。

企業としては
「即刻クビにしたい」
と思うかもしれません。

けれども、ここでもやはり
「感情より構造」
「処分より静かな出口」
「冷静な見きわめ」
が必要です。

逮捕=クロ”ではない――無罪推定という大原則

まず、絶対に忘れてはならないのは、憲法31条が保障する
「適正手続」

「無罪推定」
の原則です。

起訴されたからといって、その社員が
「犯罪者」
と確定したわけではありません。

たとえ目撃証言があり、警察が身柄を押さえ、報道がなされたとしても、判決が確定するまでは
「法律上は白」
なのです。

要するに、
「逮捕=クロ」
ではありません。

企業がこの段階で懲戒処分に踏み切れば、後に
「懲戒権の濫用」
として無効とされるおそれがあります。

つまり、企業が処分を検討する際には、この法的前提をしっかりと踏まえておかねばなりません。 

起訴された社員を“ただちに”休職にはできない

では、企業は、逮捕された社員に対して、一切関与できないのでしょうか。

実際には、そうではありません。

制度の設計上、一定の対応は可能です。

多くの企業では、就業規則に「起訴休職」条項が定められています。

たとえば、

「社員が刑事事件で起訴されたときは、裁判終了まで休職とする」

このような規定によって、起訴後に社員を一時的に職場から外すことは可能です。

しかし、この起訴休職は“自動的”に適用できるものではありません。

企業秩序への影響が客観的に認められてはじめて、有効となるのです。

企業秩序への影響”がカギとなる

次のような事情が認められる場合、企業秩序の毀損という観点から、一定の処分が法的に許容される可能性が出てきます。 

・通勤時の痴漢であっても、企業名が報道された場合
・当該社員が営業職など、社外との接点が多い立場にある場合 
・職場内に動揺が広がり、就業環境が著しく阻害されている場合 

処分の有効性は、社員の職務内容、企業の業種・規模、事件の報道範囲などを踏まえて、客観的かつ厳格に判断されるのです。 

また、休職が
「無給」
となる場合には、
「その社員に与える不利益」

「企業側の合理的理由」
とのバランスが求められます。

要するに、
「逮捕されたから」
というだけでは、休職の要件は満たされません。

「その行為が、企業秩序にどのような影響を与えるか」
が、判断の中心軸となるのです。

裁判所のスタンス――“慎重な限定解釈”

裁判所は、次のように判断しています。

「起訴休職を正当化するには、以下のいずれかの要件を満たさねばならない」

・起訴された事実や事件の内容が、企業の信用を著しく傷つけるおそれがあること
・その社員が職場に居続けることで、職場秩序が大きく乱されるおそれがあること
・社員が継続的に働くこと自体が難しく、業務の円滑な遂行に支障を来すおそれがあること

要するに、処分の適否は、社員の職務内容、企業の規模や社会的信用、報道の影響範囲など、諸要素をふまえて、客観的な視点で判断されるのです。

起訴前”には何ができるのか? 

逮捕された場合、最大で23日間、身柄を拘束される可能性があります。 

この間、社員が勾留されていても、起訴されていない以上、企業は
「起訴休職」
を発動できません。

現実には、有給休暇や欠勤扱いとするしかなく、企業としては極めて動きづらい“空白の時間”が生じます。

とはいえ、この段階で拙速に動けば、企業自身が法の網にかかるおそれもあります。

だからこそ、企業としては、起訴されるかどうかを冷静に見きわめながら、社内での対応方針を共有し、備えを整えておく必要があります。

静かな出口”という現実的な選択肢

このように、解雇には高度な要件、休職にも慎重な判断が必要――。

そこで現実的な選択肢となるのが、
「自主退職の促し」
です。

本人が
「自らの意思で辞める」
のであれば、企業側に求められる法的根拠はありません。

もちろん、強引な誘導は禁物です。

「退職を強制された」
と主張されれば、裁判で無効とされるおそれがあります。

だからこそ、退職勧奨は冷静に、丁寧に。

「会社のため」
ではなく、
「本人の今後のため」
という姿勢で、説得の言葉を選ぶ。

この“逆転の発想”こそが、もっとも安全で現実的な“静かな出口”につながるのです。

処分に進む前に、“距離感”を定めること

社員が刑事事件に関与したとき、企業は何らかの判断を迫られます。

経験の浅い企業ほど、
「早く決着を」
と焦りがちです。

しかし、拙速な判断は、企業側のリスクとなります。

だからこそ、企業としては、企業と社員との距離感を正しく見きわめることが大切なのです。

・企業秩序との関係があるか?
・企業評価の毀損につながるか?
・処分と行為とのバランスは取れているか?

この3つの軸で判断基準を
「ミエル化」
し、就業規則というカタチで
「フォーマル化」
しておくこと。

これが、事前の備えとなり、後日の紛争を未然に防ぐ実務なのです。

まとめ――“痴漢だから解雇”ではない

「痴漢で逮捕された」
と聞けば、企業は感情的になりがちです。

しかし、
「痴漢だから即解雇できる」
というわけではありません。

法の現場は、それほど単純ではないからです。

とくに、私生活や刑事事件に関する懲戒処分こそ、冷静な見きわめと構造的な判断が求められます。

裁判所は一貫して
「労働者保護」
に軸足を置いています。

これは、戦後以来の法政策の延長線上にあるものであり、現時点でも大きな転換は見られません。

そのような環境の中で、企業に求められるのは、ルールの整備とその誠実な運用、そして状況に応じた静かな出口戦略の検討です。

“企業と社員の距離感”を見失わないこと。

それが、今の時代の企業法務において、もっとも重要な視点といえるでしょう。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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02159_社員の不祥事にどう向き合うか_その4_副業バイトでキャバクラ勤務!?就業規則違反にあたるか?

焦点は「職種」ではなく「副業の中身」

ある人事担当者から、そんな相談を受けたことがあります。

本人に確認したところ、
「生活費が足りなかったので・・・」
と。

たしかに、副業解禁時代の昨今、副収入を得る手段として夜職を選ぶ人がいるのも現実です。

とはいえ、焦点となるのは
「職種」
そのものではありません。

問われるべきは、その“副業の中身”が、企業秩序とどう関わってくるのか、という点なのです。

問題は、
「企業は社員の“副業バイト”をどこまで規制できるのか?」
という点にあります。

とりわけ、“風俗業”に分類されるような副業は、どこからが懲戒の対象となるのか。

この線引きが、企業にとっては、なかなか悩ましいのです。

労働契約は「時間」でつながっている

企業と従業員の関係は、
「勤務時間」
という時間的単位を通じて法的に成り立っています。

労働契約とは、労働者が
「労働時間」
という単位で企業に労働力を提供し、企業がその対価として賃金を支払う契約です。

これは、労働契約法第6条において
「契約内容の確認」
が求められていることからも明らかであり、労働契約の法的性質は、労務の提供内容が時間単位で構成されることが前提とされています。

要するに、勤務時間外の行動は原則として“自由”です。

従業員が、夜、何をしていようと、どこにいようと、それが企業の業務に無関係ならば、企業が口を出す筋合いはない、ということになります。

とはいえ、“自由の濫用”は問題に

企業が、従業員の私生活に一切口を出せないわけではありません。

実際には、企業秩序に関わるような場面では、例外的に一定の介入が認められています。

従業員が勤務時間外にしていた行動が、
「企業秩序に直接関係し、企業の評価を毀損するおそれがある」
と客観的に認められる場合には、例外的に企業側の規制や懲戒の対象になります。

たとえば、夜職の勤務によって
「顔写真が掲載され、社名が特定されてしまっていた」
「取引先の人に知られ、取引に支障が出た」
といった事実があれば、それはもはや“完全な私生活”とは言い切れません。

企業としての
「信用」
「秩序」
「職場環境」
といったものに影響が出るようであれば、その行為は就業規則違反として扱える可能性が出てきます。

副業禁止規定がある場合はどうか?

そもそも、企業が副業を禁止しているケースも少なくありません。

就業規則にその旨が明記され、かつ従業員に周知されている場合には、企業は当該行為を懲戒対象と位置づけることができます。

ただし、ポイントは
「何をしていたか」
だけではなく、
「企業にどの程度の影響があったか」
です。

たとえば、副業禁止の就業規則があったとしても、企業に実害がなく、業務にも支障がないような軽微な副業については、ただちに解雇処分を選択することは、処分の均衡を欠き、不適切と判断されるおそれがあります。

軽微な副業である場合、ただちに解雇処分を選択することは、処分の均衡を欠き、不適切と判断されるおそれがあります。

副業の内容”によって懲戒のリスクは変わる

要するに、副業そのものが問題なのではなく、その副業の中身や、周囲への影響度が焦点になるのです。

たとえば、次のような副業については、企業としての判断も分かれてきます。

・単なる飲食店勤務であれば、企業秩序や信用に直接関わらないかぎり、懲戒処分の対象とはなりにくいでしょう。

・キャバクラ勤務であっても、顔写真が出ず、勤務先企業が特定されないように配慮されている場合には、懲戒対象として取り上げるのは難しいと考えられます。

・一方で、SNS等を通じて副業の内容や本人のプロフィールが拡散され、企業名と結びついてしまったようなケースでは、企業イメージの毀損が問題となり、就業規則違反として懲戒対象に位置づけられる場合もあります。

特に、“風俗業で働いていた”という点に対して企業側が過剰に反応し、
「企業の名前が出たわけでもないのに懲戒処分を下した」
というような対応を取れば、それ自体が“人権感覚の欠如”と批判されかねない、という現実も視野に入れておく必要があるのです。

裁判所は“バランス”を重視

従業員の副業問題について、裁判所は非常に慎重です。

処分の有効性を検討する際、裁判所は
「行為・影響・規定・処分の重さ」
という4つの軸における“構造としてのバランス”を見ています。

具体的には、次のような点が判断材料となります。
(1)行為の内容と社会的評価
(2)企業秩序・信用への影響度
(3)懲戒規定との結びつき
(4)処分内容の重さ

つまり、単に夜にアルバイトをしていたというだけで解雇することは、明らかに“バランスを欠く”処分として違法無効と判断される可能性があるということなのです。

「感情」ではなく、「構造」で捉える

本シリーズでは、これまでにも複数の角度から
「感情より構造」
という視点を取り上げてきました(*)。

たとえば、
「キャバクラで働いていたなんて許せない!」
というのは、あくまで感情にすぎません。

企業が取るべき行動は、次のような“構造的な問い”を1つずつ確認することです。
・企業秩序や信用への影響はあったのか?
・それは就業規則にどのように書かれていたのか?
・同様の行為をした他の社員と比べて、処分のバランスは取れているか?

そして、その問いの先にこそ、企業が本当に取るべき“穏やかな選択”が見えてくるのです。

最終手段は「処分」よりも「静かな出口」

仮に、企業側としてその副業行為が企業秩序を毀損するものであると判断に至ったとしても、処分には慎重であるべきです。

というのも、懲戒処分はあくまで“最終手段”だからです。

実務の現場では、
「退職を促す」
「配置転換を打診する」
といった“静かな出口”に誘導するほうが、トラブルリスクを最小限に抑えることができます。

その際も、本人の尊厳を損なうような言葉や態度は、もちろん厳禁です。

「辞めさせられた」
と後から主張されれば、逆に企業側が訴訟リスクを負う事態にもなりかねません。 

まとめ:副業問題は“見えにくい影響”まで見きわめる

副業バイトを理由に社員を処分する。

これは、想像以上に高いハードルがあります。

裁判所での運用実態としては、“具体的な因果関係や影響の中身”が問われるからです。

要するに、たとえ就業規則違反があったとしても、

・企業秩序が具体的にどのように乱されたのか
・企業の対外的評価にどのような毀損が生じたのか
・そして、当該行為と企業が選択した処分との “バランス”は妥当だったのか

こうした点を、法務の実務的な要求水準(定量的・構造的な説明責任)に見合うかたちで、一つひとつ丁寧に見きわめていく必要があるのです。

判断の軸はあくまでも
「感情」
ではなく
「構造」
です。

冷静に、実務的に、企業としてどこに着地させるか。

その“出口戦略”こそが、不祥事対応における、最大の焦点なのです。

(*)過去回はこちら:
第1回「企業は社員の“私生活”まで管理できるのか?」
第2回「不倫は“懲戒”できるのか?」
第3回「SNSで暴言、会社に炎上」

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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