02171_修正申告は企業法務の落とし穴_“収益の帰属”を見誤った善意の訂正が招いた結末

「修正申告=正しい対応」とは限らない

税務の世界には、誤りを正すための
「修正申告」
という制度があります。

たしかにこれは、制度として当然のものと言えるでしょう。

実際、多くの企業が、税務署から指摘を受けては、すぐに修正し、納税し直しています。

ところが、そこには落とし穴が潜んでいます。

そもそも修正申告とは、あくまで
「自発的な訂正」
として扱われるものです。

税理士や会計士の指示に従って修正申告を行ったはずなのに、あとになって
「これは自白だ」
「認識があった」
と見なされてしまうことが、実際にあります。

問われているのは、単なる税務処理の是非ではありません。 

「副業」のつもりが“隠ぺい”と見なされたケース

あるIT系の受託開発会社は、創業当初こそ社長(エンジニア)と共同経営者、デザイナーの3名体制でしたが、法人との契約案件を軸に事業を拡大し、次第に社内外のエンジニアを数多く抱えるまでになっていきました。

そして、社内ではリソースのやり繰りに追われるほどの状況となっていたのです。

一方で、創業当初の収益を少しでも補おうと、エンジニアのノウハウを活かして立ち上げた
「広告収益型の副業サイト」
が、数年のうちに密かに急成長を遂げていたのです。

動画解説やテンプレート素材、技術記事などを通じて、まとまった額の広告収入などが伸び続け、社内でも想定していなかったほどの売上になっていました。

この収益については
「本業とは切り離した個人の活動」
という認識のもと、法人とは分けて、代表者個人の口座や別名義で処理していました。

税理士からも
「副業扱いだから、それほど問題にならないでしょう」
と言われたまま、数年経過していました。

ところが税務調査で、法人の設備・人材・時間を使って収益を上げていた以上、
「実態としては法人の収益ではないか」
と指摘されたのです。

そこで、社長は税理士に相談し、その勧めに従って、広告収益の一部を法人売上に組み込み、売上に含める形で修正申告を行いました。

申告額は決して小さなものではありませんでしたが、
「これで事態は収まる」
と思いました。

忘れたころに、今度は国税局査察部、いわゆる“マルサ”が調査に入りました。

調査官はこう言いました。
「ご自身で修正したということは、最初から収益の帰属先を認識していたということですね?」

「誤りを正した」
つもりの修正申告が、
「意図的な認識があった」
と見なされ、最終的には
「故意の隠ぺいを認めた証拠」
として扱われてしまったのです。

信じがたい話でしょうが、それが実務の現場で起きているのです。

当時の社内には、副業の位置づけや判断過程を記した記録も残っていません。

どの契約書がどちらの事業に属していたのかも不明確で、判断の根拠がすべて“後出し”に見えてしまったのです。

税理士とのやりとりも口頭で済まされ、文書化されていませんでした。

その結果、修正の行為そのものが
「自白」
とみなされ、さらに、
「何も残っていない」
ことが
「隠ぺいの意思があった」
とみなされ、最終的に刑事告発にまで発展しました。

訂正する前に、法的構造を“見える化”せよ

このような現実は、企業にとって他人事ではありません。

税理士の助言に従った善意の訂正が、法的には刑事処分の対象と見なされてしまうこともあるのです。

まさに見落としがちなグレーゾーンです。

そして、こうした場面では必ず問われます。
「どのように判断したのか」
「どんな経緯でその決断に至ったのか」

その
「検証の仕組み」
がなければ、いくら主張しても通用しません。

修正するかどうかの判断は、単なる反省や道義ではなく、法的な構造と戦略性の有無によって決めるべきものです。

「税務署に言われたから」
「税理士がそう言ったから」
それだけを理由に動くことの危うさを、知らなければなりません。

そして、
「税務署の指摘・税理士の助言を、法務としてどう扱い、社内でどう再評価し、どのような記録を残すか」
という視点が不可欠なのです。

そこに目を向けなければ、たとえ外部の専門家が関与していても、最終的に刑事責任を問われるのは企業自身なのです。

突き詰めれば、問われているのは――税務そのものではなく、法務と専門職の関係性の構築なのです。

信じるのではなく、検証すること
従うのではなく、構造を理解すること
それを、記録化し、言語化し、判断過程の文書化すること

これが、企業を守るための最低限の備えです。

企業法務としての“防衛策”――記録の4点セット

端的にいえば、プロの言葉であろとも、鵜呑みにしないということになります。

具体的には、こうした事態を防ぐために企業として残しておくべき記録は、最低でも次の4点です。

(1)修正に至った背景に関する記録
(2)誰の助言に基づいたかの履歴
(3)社内でどのような検討をしたかの議事録やメモ
(4)訂正が及ぼす影響範囲の整理資料

記録を残すことで、仮に後日、調査や訴追があったとしても、企業として
「合理的な判断を下した」
「過失であった」
と立証できる環境を整えることができます。

要するに、記録があるかどうかで、
「経営判断だった」と言えるか、
「ただの自白だった」とされるか、
が決まってしまうのです。 

信頼ではなく、検証と構造理解が企業を守る

経営とは、常にリスク判断の連続です。

企業において
「善意の訂正」
は決して悪いことではありません。

しかし、たとえ善意の訂正であっても、法的には
「自白」
「隠ぺいの認識があった」
と見なされるリスクがあるということを知らなければなりません。

信じて鵜呑みにするのではなく、疑う
従うのではなく、「どう扱われるか」を検証する

経営における“法の構造理解”は、そこからしか始まりません。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

【本記事をご覧になり、著者・所属法人にご興味をお持ちいただいた方へのメッセージ】
当サイトをご訪問いただいた企業関係者の皆様へ
当サイトをご訪問いただいたメディア関係者の皆様へ
当サイトをご訪問いただいた同業の弁護士の先生方へ

企業法務大百科® 開設・運営:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

02170_記録を仕組み化する_記録文化をつくる設計思考

なぜ書かれないのか

ある管理部門で、予算修正に関する会議が開かれました。

議論は白熱し、最終的には
「部内で再検討のうえ、来週もう一度提案を出す」
という流れで着地しました。

ところが、次の週になって再びその話題が上がった際、出席者のあいだで意見が食い違っていました。

「そんな話だったでしょうか?」
「了承されたと思っていましたが・・・」
「再提出の結論だったはずです」

このように、記録が残っていなければ、前提そのものが揺らいでしまいます。

誰かが書いておけばよかった。

しかし実際には、誰も
「書くこと」
を役割として担っていなかったのです。

その結果、同じ議論をもう一度、振り出しからやり直すはめになりました。

このような場面は、日々の企業活動のなかで、決して珍しくありません。

属人化から、設計へ

なぜ記録が残っていなかったのか。

会議自体は正式な稟議ではなく、部内の打ち合わせにすぎませんでした。

議事録係がいるわけでもなく、メモはあっても個人が断片的に持っているだけでした。

つまり、
「必要だとは思っていたけれども、“書く”ことが業務の流れに組み込まれていなかった」
ということです。

組織の中に、記録を残す設計がなかったのです。

こうした事態を防ぐには、個人の責任や努力に頼っていてはいけません。
「書ける人」
がいるかどうかではなく、誰でも自然に“書くようになる”仕組みを整えることが大切です。

たとえば、次のような発想が必要です。

・会議の招集メールに、記録担当者の欄を設けておく
・業務報告テンプレートに「協議内容の要点」を記載する項目を加える
・打ち合わせのあとは、要点を簡潔にまとめたメールを送ることを業務フローに組み込む
・稟議の差し戻し理由を、必ず文面で記録しなければ再申請できない設計にする

このように、書く・残す・送る・共有する、それ自体が業務の流れの一部になるように設計するのです。

「あとで余裕があれば書こう」
ではなく、
「書くまでが一連の業務である」
という考え方です。

確認メールが未来を守る

ある企業では、幹部の人事異動の打診をめぐって、
「言った・言わない」
のトラブルが起きました。

役員会で伝えたつもりの内容が、人事部側には
「まだ決定ではない」
として処理が止まっていたのです。

関係者の信頼関係にヒビが入ったのは、言うまでもありません。

この件を受けて、その企業では
「確認メールを必ず送る」
というルールが生まれました。

内容は、
「本日〇月〇日の役員会において、次のコメントがありました」

という一文に、要点を2〜3行添える程度の簡易なものです。

しかし、それだけで誤解や責任のすれ違いが大幅に減ったのです。

記録が残っているかどうか。

それだけで、後日の立場や判断がまったく違ってきます。

あとから見返せる言葉があるだけで、過去の空気を再現できるのです。

文化”はつくれる

「記録文化がない」
と嘆く前に、見直すべきは業務の設計です。

記録する習慣が育たないのは、意識や教育の問題だけではありません。

書かなくても済んでしまう構造になっているからです。

たとえば、
「報告が口頭だけで済んでしまう」
職場では、記録は定着しません。

逆に、
「報告するには、必ず一行でも文字にしなければならない」
仕組みになっていれば、自然と“書く”という行動が根づいていきます。

要するに、文化をつくるのは“人”ではなく、“設計”なのです。

仕組みが行動をつくり、行動の反復が文化になります。

記録は防波堤になる

書いておく。
残しておく。
共有しておく。

これだけで、トラブルを未然に防げることがたくさんあります。

「言っていなかったこと」
が言ったことにされる。

あるいは、
「言ったはずのこと」
が、言っていなかったことにされる。

こうした場面で、たった数行の記録が意思決定の根拠として機能するのです。

“記録”というのは、ただの保存ではありません。

それは、未来の自分たちを守る手段でもあります。

書いておく”を、設計する

記録の仕組みを設計し、
「書くこと」
が個人の工夫ではなく業務の一部になるようにする。

そのうえで、残された文書が、次の意思決定へとスムーズにつながるように設計する。

こうして初めて、“書いておく文化”が根づいていきます。

個人に頼らない。
感覚に任せない。

「書ける人」
をつくるのではなく、
「書ける組織」
をつくる。

これが、“記録の仕組み化”という発想の出発点です。

そしてそれは、個人のリスク回避ではなく、組織の意思決定インフラになるのです。

企業活動において、地味だけれども決定的に重要な下支えなのです。

「意思決定インフラ」とは

端的にいえば、意思決定を正しく進める・守る・再現できるようにするための“情報の基盤”です。

たとえば、組織で何かを決めるときには、必ず
「背景」
「判断材料」
「検討プロセス」
「合意内容」
といった要素があります。

それらを記録せずに進めてしまうと、判断は記憶や感覚に頼ることになり、意思決定がブラックボックス化してしまいます。

あとから検証もできず、トラブルが起きても
「なぜそうなったのか」
が、たどれません。

だからこそ、次のような
「文書や情報が整備された状態」
が、組織の土台として機能するのです。

・会議の議事録(発言内容と合意点の記録)
・稟議や承認フローの履歴(誰がどこで判断したか)
・否決理由の記録(なぜ却下されたのか)
・メールやチャットでのやりとりの整理(言った・言わないの防止)
・プロジェクトや契約の経緯をまとめた報告やログ
・覚書や契約書のバージョン管理と保管

このような情報が整っていれば、
「過去にどう判断したか」
がすぐにわかります。

「前例」
に照らして、今の判断が妥当かどうかも見えてきます。

「なぜこう結論づけたのか」
を社内に説明でき、社外への説明責任にも応えられます。

これが、単なる
「記録」
ではなく、
「意思決定のインフラ(基盤)」
であるという理由です。

まとめにかえて

シリーズを通じてお伝えしてきたのは、
「記録」
とは、
「書いておく」
こと以上に、
「未来の自分や組織が、どう語れるか」
の準備であるということです。

ミエル化は、力です。

カタチにしておくことが、次の判断を生みます。

記録は、組織の思考と判断の積み重ねになります。

そして、その記録を
「仕組みとして根づかせる」
ことは、企業活動における設計思想の一つなのです。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

【本記事をご覧になり、著者・所属法人にご興味をお持ちいただいた方へのメッセージ】
当サイトをご訪問いただいた企業関係者の皆様へ
当サイトをご訪問いただいたメディア関係者の皆様へ
当サイトをご訪問いただいた同業の弁護士の先生方へ

企業法務大百科® 開設・運営:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

02169_確認メールはどこまで“証拠”になり得るか_“契約未満”の合意を文書に残す技術と視点

確認メールが“社内防衛”で終わっていないか?

私のもとに寄せられる企業法務の相談には、ある共通点があります。

それは、
「言った・言わない」
の泥仕合が、背景に潜んでいるということです。

その多くは、社外とのやりとりに起因しています。

取引先との協議、外部関係者との打合せ、委託先との折衝——

その場ではうまく進んでいたはずの話が、いつの間にか“言質の空白地帯”に変わってしまっているのです。

原因は、記録が残っていないこと。

あるいは、残っていたとしても
「社内宛」
の確認メールだけで終わってしまっていることです。

たとえば、こんなメール。
「A社との打合せ内容、さっきの説明でよかったよね?」
「担当役員の承認、取れてると思っていいですよね?」
「結局、調査するのはAさん? それともBさん?」

こうした社内向けの“防衛的な確認”メールは、たしかに実務上、一定の意味はあるでしょう。

しかし、それだけで終わってしまうのは、実にもったいないことです。

メールというのは、ただ確認するためだけのツールではありません。

それ以上に、
「未来のために、記録をカタチに残す」
という側面があります。

「備忘録」ではなく「証拠力をも持つ文書」を送るという発想

「確認メールはちゃんと送っておこう」
多くの会社で、若手のうちからよく言われる言葉です。

背景には、
「メールは記録に残る」
という理解があるのでしょう。

たしかに、社内のやりとりを記録として残しておくことは、後々の誤解や“言った・言わない”を避ける意味で重要です。

“備忘録的な使い方”も悪くはありません。

ところが、相手が社外である場合には、意味合いがまったく変わってきます。

それは、単なる備忘録ではなく、
「証拠の確保」
すなわち
「証拠力を持つ文書」
に変わるのです。

たとえば、発注の意思があったかどうか。

あるいは、契約書に明記されていない細部の取り決めが、現場でどう合意されていたか。

その判断材料として、やり取りされたメールが引き合いに出される場面は、法務の現場ではよくあります。

社内メールと社外メールの“証拠力のちがい”

社内メールがいくら出てきても、当事者が一方的に記録しただけでは
「相手が認めた事実」
とまでは言えません。

社内メールは、あくまで“社内でのメモ”。

法的には、独り言に等しい扱いとなってしまうのです。

一方で、社外の相手に送った確認メールはどうでしょうか。

たとえば、
「先日の会議では、〇〇について、御社の了承をいただいたと理解しております」
「もし相違がある場合は、遠慮なくご指摘ください」
というメールに対して、
「承知しました」
と返信があった場合。

そのやりとりは、“両者が合意していた証拠”として機能します。

相手の返事があることで、その内容が“凍結された事実”として文書に固定される。

このちがいを、ミエル化・カタチ化の視点から捉え直すことが大切です。

契約書がなくても、確認メールが“証拠”になることがある

企業間のやりとりは、たいてい
「契約未満」
のグレーゾーンにあります。

交渉中、調整中、提案中——
その段階では、まだ契約書という“山の頂上”には至っていません。

けれども、途中経過のひとつひとつを、“証拠としてつないでいく杭”のように残しておくことができます。

その手段が、確認メールです。

たとえば、ある企業のケース。

挨拶メールの末尾に、こう記されていました。

「先日の会議で合意いただいた〇〇の件、御社内でも確認のうえ、問題ないというご理解でよろしいでしょうか」

それに対して相手の返信メールには、
「先日の会議の件、問題ありません」
と追伸が添えられていました。

たったそれだけ。

しかし、そのメールが残っていたことで、“言った・言わない”の争いを未然に防ぐことができたのです。

確認メールは、契約未満のやりとりを
「証拠化」
する技術でもあるのです。

返信がない場合でも意味がある——黙示の承認という視点

確認メールを送っても、相手から返信がない。

こうしたケースも当然あります。

そのとき、
「返事が来なかった=意味がなかった」
とするのは早計です。

法務の世界では、
「黙示の承認」
「異議なき受領」
という考え方が存在します。

内容に異議があるなら反応してほしい、という機会を提供しておけば、 “反応がなかった”という事実それ自体が、後に有力な判断材料になるのです。

たとえ返信がなくても、
「その時点で相手に送った」
「こちらはこう理解していた」
という証拠は残る。

それだけでも、送らないよりはるかにましなのです。

「契約未満、証拠以上」——確認メールの立ち位置

確認メールは、正式な契約書の代わりにはなりません。

けれども、裁判になったとき、記憶よりも記録、主観よりも文書が優先されるのが現実です。

法的にはこれを“準取引文書”と捉えることもあります。

形式的な契約には至っていなくても、やり取りの痕跡が文書として存在していれば、それは大きな意味を持つのです。

いわば——
確認メールとは、「契約未満、証拠以上」。

そんな立ち位置にあるツールなのです。

確認メールはいつ送るべきか

・打合せのあと
・電話で条件の了承があったとき
・ちょっとした決定がその場で出たとき

こうしたタイミングこそ、確認メールを送るべきタイミングです。

そして、大切なのは“セットで回収する”という視点です。

・相手が読んでくれたか
・認識の相違がないか
・必要であれば「ご返信いただけると幸いです」と添えること

たった1通のメールで済む話が、後で何日もかけて争うことになる。

だからこそ、“先に書く”という予防が、実務の世界では決定的な差を生むのです。

確認メールは“未来を守る”ための技術である

誤解されがちですが、確認メールの目的は、“気配り”でも、“お行儀”のためのマナーでもありません。

もちろん、礼儀を欠いてはなりませんが、本質はそこではないのです。

それは、
「未来に向けて、カタチを残すため」
の実務技術です。

今この瞬間に送ったメールが、2年後のトラブルを防ぐかもしれない。

この視点が社内に根づけば、日常のやりとりひとつひとつが、企業を支える土台になります。

「リスクは、見えているところから」
しか管理できません。

だからこそ、法務部門には、“見えるようにする”ための仕組みを社内に広げていく役割があります。

法務部門が率先して、
「確認メール文化」
を社内に根づかせていく。

それは、契約書をつくることと同じくらい大切な、
「未来の合意を見えるカタチに変える」
ための実務技術なのです。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

【本記事をご覧になり、著者・所属法人にご興味をお持ちいただいた方へのメッセージ】
当サイトをご訪問いただいた企業関係者の皆様へ
当サイトをご訪問いただいたメディア関係者の皆様へ
当サイトをご訪問いただいた同業の弁護士の先生方へ

企業法務大百科® 開設・運営:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

02168_議事録がなぜ“契約未満”であって“証拠以上”なのか_実務担当者が知っておくべき文書の真価

議事録は、契約書とちがって署名も押印もされていないことがほとんどです。

したがって、厳密な意味での
「合意書」
ではありません。

それにもかかわらず、実務の現場では、この議事録がときに
「契約書以上の意味」
を持つことすらあります。

それはなぜか。

どうして
「契約未満」
なのに、
「証拠以上」
の役割を果たすのか。

この一見矛盾するような構図に、組織実務の本質が見えてきます。

今回は、企業実務における議事録の位置づけについて、
「ミエル化・カタチ化・文書化」
という観点から、 実務的にひもといてみましょう。

契約書とはちがう「生きた事実」の記録

そもそも契約書というのは、交渉の末に
「合意した内容」
を、正式に文書に落とし込んだものです。

その意味で、契約書には
「合意内容がすべて」
だという前提があり、外に出ることも想定されています。

一方で、議事録は、交渉や協議の
「過程」

「前提」
が丸ごと記録されていることが多いです。

そこには、まだ固まっていない議論や、感情の機微、あるいはちょっとした合意の芽のようなものが含まれていることがあります。

要するに、議事録には
「議論の流れ」
が記録されているのです。

それは言い換えれば、“その場で交わされた議論という事実”であり、
「どんな文脈で何が語られたのか」
という証拠です。

なぜ“証拠以上”になりうるのか

たとえば、あるプロジェクトでのトラブル。

「言った・言わない」
で揉めたとき、議事録があれば、
「その場で何が共有されていたか」
がはっきりします。

もちろん、それは
「契約」
としての拘束力はありません。

しかし、意思決定のプロセスに沿った同席者の
「共通認識」
として、非常に強い力を持ちます。

もっと言えば、同じ会議に出席していた複数人の
「了解事項」
がそこに残っていれば、それは
「黙示的な合意」
を裏づける証拠として機能します。

議事録は、たしかに
「合意文書」
ではありません。

それでも、それを読み返せば、
「あの場では、こういう前提が共有されていた」
ということが、明確な証拠として、動かしがたい形で立ち上がってくるのです。

これこそが、
「契約未満」
なのに
「証拠以上」
と言われる所以です。

書いておけば、
「その時点のリアルな空気」
が記録されるのです。

議事録の効力は“凍結された時間”の中にある

議事録の力は、その瞬間の時点の記録であることです。

つまり、それが書かれた
「そのとき」、
どんな認識が、どんなメンバーの間で共有されていたのか。

それが、あとから再現できる。

これは、法務の実務感覚で言えば、
「その時点の認識を文書で固定する」
行為です。

たとえるなら、
「時間を凍結させる」
ようなものです。

言葉を変えれば、
「フローの事実をストックに変える」
ことともいえます。

フローで流れていく議論、口頭のやりとりを、ストック=残るものとして可視化する。

これが議事録の本質なのです。

そして、組織にとっての真価はここにあります。

すなわち、
「いつ(When)、どこで(Where)、誰が(Who)、何を(What)、なぜ(Why)、どのように(How)、(いくらで(How much))言ったのか」(5W2H)
という
「瞬間の記録」
が、後日の意思決定や責任追及の拠り所となるのです。

ミエル化・カタチ化・証拠化の起点になるということです。

議事録に求められるのは、正確さよりも“意図の反映”

もちろん、発言の一字一句が記録されている必要はありません。

むしろ、その場にいた人たちが
「たしかに、そんな流れだったね」
と思える納得感のある内容が重要です。

「客観性」
よりも、
「納得性」
が重視されるのが、議事録という文書の特性です。

たとえば、強めの反対意見があったのに、それが記載されていないと、後からその人が
「言ってないことにされた」
と感じてしまいます。

これは、後日の火種にもなりかねません。

一方で、細かく書きすぎて混乱させてしまっては本末転倒です。

事実と意図、そして空気感。

この3つをどう
「ミエル化」
するかが、腕の見せどころです。

「記録しておくこと」が組織を守る

議事録があるだけで、
「言っていなかったこと」
が言ったことにされるリスクは減ります。

逆に、言ったはずのことが、言っていなかったことにされる危険も回避できます。

これは、単なる証拠としてではなく、
「記録の習慣」
が組織にとっての安全網となっている、ということです。

書いておく。
残しておく。
見えるカタチで共有しておく。

これだけで、組織の意思決定やトラブル対応の地盤が、格段にしっかりしてくるのです。

「契約未満」だけど、「無視できない」
それが議事録のポジション

議事録というのは、法的に強制力を持たないこともあります。

しかし、それが組織内外で
「どれほど共有され、参照されていたか」
によって、それ以上の力を持つことがあります。

要するに、
「合意されていなくても、共有されていた」
ということが、結果として強い証拠になり得るのです。

それが議事録という文書の、絶妙な“立ち位置”です。

明文化されこそいないが、現場では重要なニュアンスの違いを理解しておくと、 書き方も、活かし方も、ひと味変わってくるはずです。

議事録は、書くだけでは半分。

議事録の真価は、
「残し方」
ではなく
「活かし方」
にあるのです。

どう「残し」、
どう「読まれるか」
までを考えてこそ、
「証拠以上」
の力を持つのです。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

【本記事をご覧になり、著者・所属法人にご興味をお持ちいただいた方へのメッセージ】
当サイトをご訪問いただいた企業関係者の皆様へ
当サイトをご訪問いただいたメディア関係者の皆様へ
当サイトをご訪問いただいた同業の弁護士の先生方へ

企業法務大百科® 開設・運営:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

02167 _“言った”“言わない”の地獄から抜け出す技法_「信じるな」から始まる、トラブル予防の技術

「そういう意味では言っていない」

「いや、間違いなくそう聞いた」

この手のすれ違いは、企業活動の至るところで発生します。

そして、厄介なことに、どちらかが意図的にウソをついているわけではないことも多いのです。

むしろ、双方が
「自分の記憶こそ正しい」
と、本気で思い込んでいるのです。

そこにこそ、最大の落とし穴があります。

記憶は、最も不確かな情報源である

人間の記憶というのは、実に曖昧です。

人間の判断もまた、驚くほど不確かです。

にもかかわらず、私たちは
「たしかに言ったつもり」
「たしかに聞いたはず」
という“つもりの会話”で、日々の業務を進めてしまっています。

たとえば、こういうことが起きます

内装工事の仕様を、社内会議で打合せたとしましょう。

その場で、担当者は
「壁はグレーでいこう」
と発言したつもりになっていました。

ところが発注側の責任者は、
「白に寄せたほうが良い」
と聞き取っていました。

しかも、互いにメモまで取っていたのです。

ただし、色番号の共有はなされていませんでした。

どちらも、間違ったことを言ったつもりはありません。

どちらも、はっきりと覚えているのです。

そして、完成直前になって
「いや、白じゃなかったのか?」
「いえ、グレーで決まっていたはずです」

やりとりは、次第に
「どちらの記憶が正しいのか」
という水掛け論になっていきます。

ここで問題が収まれば、まだいいほうです。

この色指定のすれ違いが、発注先の施工会社を巻き込み、壁の張り替え、工程のやり直しへと発展します。

最終的には、納期の遅れにつながります。

納期遅延に怒った顧客が
「違約金を請求する」
と言ってきたとしたら――

はじまりは、ただの“記憶のずれ”だったにもかかわらず、企業としては、数百万円単位の損害賠償リスクに直面することになるのです。

会議、打合せ、口頭の説明、電話応対――
どれも記録されていないにもかかわらず、何となく成立した気になっているのです。

しかし、それらの“つもり”が破綻したとき、どうなるでしょうか。

企業は、損害賠償請求を受けます。

プロジェクトは、止まります。

部署間の信頼は、崩れます。

では、どうすればよいのでしょうか。

「自分を信じるな。他人はもっと信じるな」

この姿勢が、すべての出発点になります。

「信じていたから説明しなかった」
「信頼関係があるから記録は省略した」

それでは、何の対策にもなりません。

信頼関係とは、あくまで主観です。

法務の世界で必要なのは、
「信頼」
ではなく、
「証拠」
です。

信じないから書く。

疑うから残す。

会議のあとに議事録を送る。

電話で説明したことは、必ずメールでフォローする。

口頭の合意は、文書で再確認する。

そして、すべてに履歴をつけておくのです。

こうした記録の習慣は、決して
「相手を疑っているから」
ではありません。

「信じてしまう自分自身を疑う」
ために行うのです。

記録する会社が、生き残る理由

記録文化のある企業は、トラブルに強いです。

逆に、こうした文化が根づいていない企業は、同じミスを繰り返します。

その違いは、
「自分の記憶」
にどれだけ懐疑的になれるかという一点に尽きます。

「気心が知れているから、あえて書かない」
「今さら言語化するのは失礼かもしれない」
――こうした気遣いが、最も危険なのです。

むしろ、
「信頼していないからこそ書く」。
「失礼のないように、きちんと残す」。

そういう姿勢こそが、信頼の本質を守るのです。

では、どんなところから始めればよいのでしょうか。

たとえば、次のような動きを習慣化するだけで、“地獄”は大幅に遠ざかります。

・会議の議事録は、その日のうちに共有する
・電話の内容は、メールで即フォローする
・契約外の依頼には、文書で確認をとる
・決裁の判断には、履歴付きで記録を残す

記録することは、相手への配慮でもあるのです。

「検証できる仕組み」が、唯一の脱出口

「言った・言わない」
の地獄に堕ちる企業には、共通点があります。

・記録がない。
・言語化していない。
・文書が残っていない。

だからこそ、私はこう考えます。
「人を疑っているのではない。人間という仕組みを疑っているのだ」
と。

「自分の記憶」は信用しません。
「相手の記憶」も、同じように信用しません。

この“疑いの視点”こそが、
「言った・言わない」
の地獄に堕ちないための、唯一の武器になるのです。

記憶は変わります。

感情はねじれます。

信頼はすり減ります。

だからこそ――
記録する。

言語化する。

ミエル化・カタチ化する。

信じるな。記録せよ。

信頼ではなく、記録で守るのです。

記憶ではなく、データで検証するのです。

「信じる」
より、
「疑い続ける」
ことこそが、企業の知的防衛線になるのです。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

【本記事をご覧になり、著者・所属法人にご興味をお持ちいただいた方へのメッセージ】
当サイトをご訪問いただいた企業関係者の皆様へ
当サイトをご訪問いただいたメディア関係者の皆様へ
当サイトをご訪問いただいた同業の弁護士の先生方へ

企業法務大百科® 開設・運営:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

02166_民事裁判のリアル_裁判官は書面しか読まない

民事裁判というと、テレビドラマのようなシーンを思い浮かべる方が多いかもしれません。

大きな法廷で、当事者が感情をぶつけ合い、証人が泣きながら語り、最後に裁判官が
「判決!」
と声を張り上げる――そんなイメージを持たれている方にとって、実際の民事裁判は驚くほど静かで、そして淡々としたものに映ると思います。

なぜなら、民事裁判の主戦場は
「言葉」
ではなく、
「文章」
だからです。

要するに、民事裁判は、基本的に
「筆談」
で進むのです。

法廷に立つといっても、口頭でどんどん話すわけではありません。

当事者の主張は、すべて
「訴状」

「答弁書」
といった書面にまとめられ、裁判官はその文書を丹念に読み込み、そこに書かれた事実や主張を整理したうえで判断を下します。

つまり、裁判というのは
「書いたもん勝ち」
なのです。

もちろん、
「書けば何でも通る」
という意味ではありません。

裁判所が納得するような論理と、裏付けとなる証拠が揃っていてはじめて、書いたことが
「意味を持つ」
ようになります。

逆にいえば、いくら真実を語っても、それが書かれておらず、証拠も示されていなければ、裁判所は何も判断できません。

ある控訴審で
「意見陳述をしたい」
という要望が出されたケースがあります。

裁判所からは
「できればご遠慮ください」
とやんわり拒否されました。

これもまさに、民事裁判が
「筆談」
を重視する仕組みのあらわれです。

当事者の熱い思いや心情は、裁判官にとっては
「ノイズ」
になり得るのです。

たとえるならば、裁判官というのは、ものすごく食が細くて、好みがはっきりしている
「美食家」
のような存在です。

その美食家に向かって、何でもかんでもてんこ盛りの大皿を差し出すと、逆に嫌がられてしまいます。

だから弁護士たちは、その裁判官の嗜好にあわせて、丁寧に一皿ずつコース料理のように主張や証拠を
「盛り付け」
ていくのです。

ここで大切なのは、
「何を言うか」
以上に、
「どう言うか」
「どんな順番で出すか」
「どんなカタチにするか」
ということです。

裁判官が最も知りたいことを、最初に、わかりやすく提示し、そのあとで補足を加える。

盛りつけが整っていて、食べやすい順番になっていれば、食の細い裁判官も、完食してくれる可能性が高くなります。

民事裁判では、証拠も重要です。

もちろん、それも書面で提出されます。

証人尋問や口頭の説明は、基本的には例外的なものですし、控訴審ともなればなおさら、
「文章」
だけで決着がつくのが一般的です。

そのため、証拠の意味や背景も含めて、文章でしっかり説明することが求められます。

また、裁判官は
「当事者が言いたいこと」
ではなく、
「裁判官が知りたいこと」
にしか興味を持ちません。

これは、見落とされがちですが、実は裁判における核心です。

自分の思いや評価、解釈をいくら語っても、それは
「分をわきまえない行為」
として逆効果になる可能性があります。

あくまで、事実を冷静に語り、法の適用は裁判所に任せる――これが民事裁判の基本です。

「汝、事実を語れ。我、法を適用せん」

民事裁判の現場に身を置くと、この構図が本当によく見えてきます。

当事者に求められるのは、事実を丁寧に書き残すこと。

そして、弁護士とともに、その書き方や伝え方を工夫すること。

これこそが、裁判に臨むうえでの要です。

民事裁判とは、裁判官との間で交わす
「筆談」
です。

しかも、相手は食の細い美食家。

だから、伝えるべきことをしっかりと、過不足なく、そして嗜好に合ったかたちで届けていく。

これが、民事裁判を戦ううえでの、本質的なポイントなのです。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

【本記事をご覧になり、著者・所属法人にご興味をお持ちいただいた方へのメッセージ】
当サイトをご訪問いただいた企業関係者の皆様へ
当サイトをご訪問いただいたメディア関係者の皆様へ
当サイトをご訪問いただいた同業の弁護士の先生方へ

企業法務大百科® 開設・運営:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

02165_企業法務における安全の構造_(最終回)再発防止は「研修の構造」で決まる_“やったか”ではなく“根づかせたか”

「研修はしました」
トラブル発生後に、そう釈明されることがあります。

確かに、企業として必要な研修を実施していた。
受講記録も残っているし、社内メールでも周知済み。
それなのに、なぜ起きたのか──

答えは、はっきりしています。

それは
「研修“だけ”で済ませてしまった」
からです。

研修は、実施すること自体が目的ではありません。

その内容が、現場で機能すること。

言い換えれば、
「実効性」

「定着度」
が伴って、はじめて意味を持つのです。

にもかかわらず、
「研修した=十分やっている」
という空気が、あたかも
「責任を果たした」
という錯覚を生みます。

しかし、それはまさに
「感覚による安心」
であり、
「構造による安全」
とは言えません。

ではなぜ、研修の成果は、効かなくなるのでしょうか。

形式と内容の「乖離」

ある企業で、労務トラブルが発生した事例があります。

就業規則に反する対応が現場で繰り返されていたのです。

けれども、その企業は数ヶ月前に
「就業規則改定研修」
を実施しており、参加率は9割を超えていました。

問題は、研修で扱った内容が
「理解されたかどうか」
「現場で運用されていたか」
の検証が、いっさいなされていなかったことです。

研修資料は配られていた。
講師の説明も丁寧だった。

それでも、現場に根づいていなければ、それは単なる
「儀式的なイベント」
にすぎません。

制度がどれほど整っていても、現場の手順や判断がそれに合致していなければ、組織全体としては
「遵守していない」
のと同じなのです。

「知っていた」と「できる」は違う

企業法務において重要なのは、
「知っていたか」
ではなく
「できるようになっていたか」
です。

たとえば、内部通報制度。

制度の存在は、誰もが知っている。

けれども、実際に通報があったとき、
受け手がどう対応するのか。
通報者がどう守られるのか。

これらが現場レベルで“再現可能”でなければ、制度の存在自体が形骸化していきます。

要するに、研修とは
「初期条件」
にすぎません。

その内容が、日々の実務に接続され、かつ継続的にアップデートされているかどうか。
つまり、
「知っている」が「できる」に変わっているかどうか。
そこにこそ、「研修をやった意味」が、本当に問われるのです。

「受けたかどうか」ではなく「活用されているか」

研修履歴は、ある意味で“最低限”の証拠です。

法務の観点から問われるのは
「その研修の効果が、組織の中でどう活かされていたか」
ということなのです。

たとえば──
・研修内容が業務手順書に反映されているか
・マニュアルやFAQに落とし込まれているか
・受講後に現場でミスが減っているか
・内容理解の再確認やテストが実施されているか

これらを記録として残しておかない限り、外部からは
「やった証拠があるだけ」
に見えます。

むしろ、
「研修をしたのにミスが続いている」
という状況では、企業の体制に対する不信感さえ招きかねません。

研修の“ミエル化”と“カタチ化”

では、どうすれば研修の成果を「効く」ものにできるのか。

答えは、これまでと同じです。

つまり──
「ミエル化」
「カタチ化」
「言語化」
「文書化」
「フォーマル化」
この5つを、研修という“教育プロセス”にも適用することです。

たとえば:
・研修後アンケートに、業務改善提案欄を設ける
・研修内容に関する現場観察を定期的に実施する
・年次評価の中に「研修内容の活用状況」を組み込む
・研修フォローアップとして、現場でのOJT計画を策定する
・「研修を受けたこと」ではなく、「できるようになったこと」を評価対象にする

こうして初めて、研修が単なる“儀式”から、組織を動かす“仕組み”へと変わります。

「やったかどうか」ではなく、「備えていたか」

事故が起きたときに本当に問われるのは、
「そのリスクにどう備えていたか」
という一点なのです。

「どのような周知・訓練をしていたか」
その周知・訓練は、実効性をどう担保していたか」

この問いに、
「一斉研修をしました」
「説明会を開きました」
では通用しません。

必要なのは、
「その研修をもとに、現場の行動がどう変わったか」
を示せる構造です。

つまり、問われるのは
「研修をやったかどうか」
ではなく、
「それによって何が変わったか」。

そこにこそ、リスク管理の本質があるのです。

感覚から構造へ

本シリーズで繰り返し述べてきたように、組織の安全は
「感覚による安心」
ではなく、
「構造による安全」
によって支えられます。

社員教育の一環としての研修も、例外ではありません。
・内容の伝達
・理解の確認
・実務への反映
・再現性のある手順化
・振り返りと改善サイクル

結局のところ、研修とは
「構造の中で機能してこそ」
意味を持つものであり、
「構造としてどう根づかせるか」
が問われているのです。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

【本記事をご覧になり、著者・所属法人にご興味をお持ちいただいた方へのメッセージ】
当サイトをご訪問いただいた企業関係者の皆様へ
当サイトをご訪問いただいたメディア関係者の皆様へ
当サイトをご訪問いただいた同業の弁護士の先生方へ

企業法務大百科® 開設・運営:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

02164_企業法務における安全の構造_「誰が見ても同じ判断」ができるか?

「たしかに確認はしました。でも、大丈夫そうだったので通しました」
ある中堅企業の担当者が発した言葉です 。

それは、取引先との契約書を担当者とその上長が確認し、法務部門もチェックをした上で決裁に至った案件でした。

ところが、後日、契約条項の一部について、親会社の監査役から
「法令違反の懸念がある」
と指摘を受けることになりました。

確認が漏れていたわけではありません。

むしろ、すべてチェックしていました。

それでも見逃されたのです。

これは、
「チェック体制そのものの“構造的限界”」
が表面化し、問い直されることになった事例です。

「見たはずなのに、見ていなかった」構造的リスク

現場では、このようなすれ違いは少なくありません。

「何度も確認した」
にもかかわらず、判断にばらつきが生じたり、時には全く食い違うことさえあります。

これは、担当者個人の注意力に原因があるわけでもなく、意識やスキルの問題でもなく、努力の有無でもありません。

「判断基準の構造」に起因しているのです。

たとえば、
・何をもって「チェック完了」とするのか
・どの観点で何を確認するべきか
・「OK」と判断した根拠はどこに残るのか

これらが曖昧なままでは、いくら複数人でチェックしても、同じ結論には至りません。

逆に言えば、
「誰が見ても、同じ判断ができる」
ためには、判断の“構造”そのものが設計されていなければならないのです。

「ミエル化」されたチェック体制とは?

チェックするポイントを
「人の目」
に頼っているうちは、属人性からは脱却できません。

つまり、
「誰が見るか」
によって判断が変わってしまう構造では、安全も、再現性も、担保できないのです。

では、どうすれば、
誰が見ても、同じ判断ができるよう、
「判断基準の構造」
がつくれるのでしょうか。

具体的には、どうすればチェック体制を
「ミエル化」
できるのでしょうか。

ここで重要なのは、次の2つの視点です。

(1)チェック内容の明確な“基準化”
(2)チェック結果の“再現可能性”の確保

(1)契約書であれば、条項ごとに「確認すべき観点」が明文化されているか。
たとえば、
「解除条項における相手方有利な条件はないか」
「個人情報の取扱いに法令違反の可能性はないか」
など、
「見るべき項目」
が一覧化されているだけで、判断の精度は格段に上がります。

(2)次に、チェックした事実がどのように記録され、追跡できるか。
これは単なる
「チェック済」
の一言ではなく、
「どの担当者が」
「いつ」
「何を見て」
「どう判断したのか」
その痕跡が残っていることが不可欠です。
いわば、判断に対する“記録の裏付け”とも呼べる
「監査証跡」
の構築です。

ダブルチェックは「安心感」ではなく「構造」で機能する

しばしば、
「ダブルチェックだから大丈夫」
という声を耳にします。

しかし、ただ
「2人で見た」
あるいは
「2人がチェックした」
というだけでは、同じ穴を見逃している可能性も否定できません。

それぞれが
「自分は見たつもり」
になっているだけで、結果として、誰も見ていなかったことさえあるのです。

ダブルチェックが本当に機能しているかどうかは、
「構造」
を見なければわかりません。

重要なのは、
(1)チェックする内容の「分担」ではなく「補完」になっているか
(2)チェックミスの可能性を想定し、対話型のフィードバック設計があるか
(3)「ミスが起きた場合」に備えたトレーサビリティが取れているか

このような仕組みがあるからこそ、ダブルチェックは意味を持つのです。

たとえば、ある上場企業では、法務部門とコンプライアンス部門の間で、
「チェック観点」
の視点差をあえて活かすことで、異なるリスクの拾い上げを実現しています。

要するに、同じ書類を見るにしても、違うレンズで照らすことで、ようやく構造的な抜け漏れに気づけるのです。

記録されていなければ、判断とは言えない

問題が起きたとき、あるいは、あとから契約内容や意思決定が見直されるとき、企業法務の現場では、次のような問いが投げかけられます。

「なぜその判断をしたのですか?」
「そのとき、どんな基準で決めたのですか?」

この問いに対して、
「何度も確認しましたが、問題はありませんでした」
といった口頭の説明だけで、通用する時代ではありません。

資料がない、記録がない、根拠も残っていない──
それはすなわち、
「判断の痕跡が構造として存在していなかった」
ということになります。

つまり、法務としてのリスクと見なされるのです。

だからこそ、法務におけるチェックは、単に
「確認しました」
で済ませてはなりません。

「この基準に照らして、確認し、記録した」
と説明できる構造を、あらかじめ備えておくこと。

それこそが、組織の信頼を支える力になるのです。

リスク管理とは、「判断の設計図」を持つこと

問題が起きたあとではなく、起きる前にこそ備える。

これが、リスク管理の本質です。

・そのために必要なのが、判断の手順を設計図としてミエル化すること。
・属人的な感覚や経験に頼らず、誰が見ても同じ判断ができるようにする。
それが、法務体制の基盤になります。

たとえば──
・チェックリストのルール化
・電子決裁システム上での履歴保存
・レビュー記録の保存と改訂ルール
・誤判断の原因を検証し、ルールに反映する仕組み

これらはすべて、判断を再現可能にする仕組みです。

確認したという事実ではなく、
「どう確認し、どう判断したのか」
が再現できる構造こそが重要なのです。

チェックを「感覚」から「構造」へ──それが組織の安全文化

「見たつもり」で終わらせない。

「2人でチェックしたから安心」
では済ませない。

チェックが本当に機能しているかを支えるのは、安心感ではなく、構造です。

・チェック体制とは、単なる分担ではなく、互いの観点を補完し合う仕組み。
・ミスが起きた場合を前提にしたフィードバック体制。
・そして、トラブルの痕跡をたどれるトレーサビリティ。

このような設計がされてこそ、ダブルチェックは本当に意味を持ちます。

「誰が見ても、同じ判断になる」
この状態を構造としてつくることが、企業にとっての安全インフラであり、責任のカタチなのです。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

【本記事をご覧になり、著者・所属法人にご興味をお持ちいただいた方へのメッセージ】
当サイトをご訪問いただいた企業関係者の皆様へ
当サイトをご訪問いただいたメディア関係者の皆様へ
当サイトをご訪問いただいた同業の弁護士の先生方へ

企業法務大百科® 開設・運営:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

02163_企業法務における安全の構造_「前任者からそう聞いていた」は通用しない

「前任者からそう聞いていました」

現場で問題が起きたとき、よく耳にする言葉です。

その裏には、暗黙のルールや文書化されていない手順、口頭だけで引き継がれてきた慣行が、当たり前のように存在しています。

たとえば、ある企業の経理部門では、
「この処理、正式なマニュアルはないんです。でも、◯◯さんから『こうやればいい』と聞いて、ずっとそうしていました」
という声が聞かれました。

その
「慣れたやり方」
は、いつの間にか標準となり、誰も疑問を持たないまま、年単位で運用されていたのです。

問題が表に出るまで、そこにリスクがあるとは、誰も気づきませんでした。

別の企業の法務部門でも同じような構図があります。

たとえば、株主総会の招集通知を作成していた法務担当者は、こう話しました。

「昨年のファイルを参考にして、ほぼ流用で作りました。前任者から『この文案で問題なかった』と聞いていたので──」

ところが、新任の監査役から、次のような指摘が入りました。

「この文言、会社法改正前の表現のままですね」
「総会参考書類と事業報告との整合性がとれていません」
「この記載、どの会議体で承認されたのですか?」

担当者は答えに詰まりました。

なぜそう書いたのか。

誰が決めたのか。

どういう経緯だったのか。

記録も、承認履歴も、残っていなかったのです。

経理部であれ法務部であれ、根っこにあるのは共通しています。

それは
「構造化されていない業務」
というリスクです。

「引き継ぎでそう聞いた」
「前任者の資料を真似た」
こうした属人的な継承は、平時には機能しているように見えても、いざトラブルが起きれば組織としての説明責任にはなりません。

そして、それは企業法務にとっての“構造的な盲点”なのです。

「言われていたから」「見よう見まねで」では通用しない

こうした口伝え文化には、
「たまたま知っている人がいたから機能していた」
だけ、という危うさがあります。

制度としての裏付けがなければ、それは単なる
「偶然の安定」
にすぎません。

重要なのは、組織として次の問いに答えられるかどうかです。

「なぜその手順なのか?」
「どの会議体で承認されたのか?」
「リスクは検討されたのか?」

これに答えられなければ、監査対応も、訴訟対応も、行政対応も、すべて後手に回ります。

そして、そうした
「答えられない業務」
の背景には、必ず
「構造の欠如」
があります。

「教わっていないから」では、もう通用しない

特に新任担当者のミスが発端となった場合、
「引き継ぎが不十分だった」
「マニュアルがなかった」
「前任者からはそう聞いていた」
というような反応が返ってくることがあります。

それ自体が責められるものではないにしても、企業法務の視点では、それこそがリスクの根源です。

非公式な引継ぎが積み重なるほど、組織の記憶は個人に依存していきます。

そして、ある日、その個人が退職すれば、ノウハウもルールも消えてしまうのです。

これは、最も危険な属人リスクです。

「慣行」や「習慣」も、文書化されてこそ組織の意思になる

ある中堅メーカーでは、
「Aという処理は月末ではなく翌月1日にずらすのが慣例」
になっていました。

理由は
「前任者がそうしていたから」。

けれども根拠は誰も知らず、ルール化もされていませんでした。

その結果、財務報告に誤差が生じ、監査法人から是正指摘を受けました。

ここで問われるのは、その慣行の
「良し悪し」
ではありません。

「なぜそうしていたのか」
「誰が承認したのか」
「文書として、どう残されているのか」
その有無が、ガバナンスを問う土台になるのです。

長年の慣習であっても、組織としての合意と記録がなければ、それは
「個人判断」
とされかねません。

つまり、説明責任を支えるのは、感覚でも経験でもなく、
「記録された構造」
なのです。

必要なのは、“属人性”から“構造”への転換

属人化した業務は、一見するとスピーディーです。

けれども、その効率性は
「透明性のなさ」
という代償を伴います。

これを防ぐには、業務の棚卸しと再設計が不可欠です。
たとえば、

・引継ぎの標準化と記録のルール
・慣行の背景を記述した補足文書
・意思決定プロセスのログ保存
・定期レビューとアップデート体制
・「個人判断」の範囲と承認基準の明確化

こうした仕組みがあって初めて、業務の再現性が担保され、属人リスクは構造へと転換されます。

それがすなわち、
「ミエル化」
「カタチ化」
「言語化」
「文書化」
「フォーマル化」
という、組織の安全設計なのです。

伝統”と“惰性”は、紙一重である

慣行が
「伝統」
として尊重されるか、
「惰性」
として批判されるか。

その分かれ目は、文書による裏付けと、継続的な検証です。

「そう聞いていたから」
ではなく、
「なぜそうするのか、明文化されています」
と言えること。

そこにこそ、組織の成熟度が現れます。

そして、リスクは
「構造にしなければ残り続ける」
のです。

「文書がなかった」
では、もはや言い訳にならない時代なのです。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

【本記事をご覧になり、著者・所属法人にご興味をお持ちいただいた方へのメッセージ】
当サイトをご訪問いただいた企業関係者の皆様へ
当サイトをご訪問いただいたメディア関係者の皆様へ
当サイトをご訪問いただいた同業の弁護士の先生方へ

企業法務大百科® 開設・運営:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

02162_企業法務における安全の構造_ヒヤリハットは“共有してこそ”意味がある

ヒヤリハットは「共有しないと」意味がない

「ヒヤリとしたが、報告するほどではない」
「現場ではよくある話だ」
「あとで話題にしても、どうしようもない」

ある作業員は、こうも言いました。
「一瞬だけ危なかったんです。でも何も起きなかったし、わざわざ言うことでもないと思って・・・」
こうした言葉が、組織の中で交わされているとすれば、それ自体が重大なリスクの兆候です。

ヒヤリハットは、インシデントや重大事故の
「予兆」
です。

その場で収まったからといって、組織として学びを止めていい理由にはなりません。

それどころか、組織の安全文化を測る
「リトマス試験紙」
とも言えるのです。

けれども現実には、そうしたヒヤリハットが共有されず、記録にも残らないまま、日々、見過ごされていきます。

そしてそれが、企業法務にとっての
「構造的な盲点」
となって、じわじわとダメージを蓄積させていくのです。

ある製造系企業での事例です。

作業員が
「足を取られそうになった場所」
があったものの、その報告は上がりませんでした。

2週間後、同じ場所で別の作業員が転倒し、労災に。

また、あるSaaS企業(*)では、顧客情報の更新作業中に操作ミスが起きましたが、事なきを得たため未報告。

組織には何の記録も残らず、改善もなされないまま、3ヶ月後に全く同じ操作ミスで情報漏洩が発生しました。

事故が起きたときに、こう言われるのです。
「そういえば、前にも似たようなことがあった」
「その時に共有されていれば、防げたのではないか」

ヒヤリハットとは、まさに
「事故の芽」
です。

そして、その芽が組織の中で摘み取られないまま、無言のうちに広がっていくのです。

ヒヤリハットが共有されない背景には、個人の怠慢よりも、むしろ
「構造の欠如」
があります。

「報告しづらい」
「小さなことだと軽視される」
「言った者負けになる」
そんな空気が、組織に根を張ってしまっているのです。

この空気を温存する限り、ヒヤリハットは
「経験者の中だけで完結する知見」
になってしまいます。

組織は学べず、リスクの蓄積は繰り返される。

これこそが、企業法務にとっての
「リスクそのもの」
です。

そもそも、事故は突然起きるものではありません。

必ず、何らかの予兆があります。

そしてその予兆は、
「感覚」
で捉えられても、
「共有」
されなければ組織には届きません。

ヒヤリハットは、共有されてこそ意味があるのです。

一人の気づきを、組織全体の
「構造的知見」
に昇華させる仕組みこそが、必要なのです。

ヒヤリハットは「感覚の蓄積」で終わらせてはならない

企業法務の視点から見たとき、ヒヤリハットには2つの重要な意味があります。

(1)インシデント未満の「兆し」への備え
(2)事後的責任論における「把握・判断」の説明可能性

後者は、訴訟や行政処分、監督官庁対応の局面で、必ず問われるポイントです。

「過去に同様の兆候はなかったか」
「それにどう対応したのか」

この問いに答えられなければ、
「組織は備える機会を自ら放棄していた」
と見なされても反論できません。

つまり、ヒヤリハットの放置は、
「感覚で済ませたこと」
ではなく、
「組織としての過失」
と見なされるリスクをはらんでいるのです。

ヒヤリハットを「共有可能な構造」にするために

このリスクを防ぐには、教育や精神論では不十分です。

必要なのは、共有できる「構造」です。

たとえば、

・スマホでも入力できる簡易な報告フォーム
・報告内容の分類ルールと可視化の仕組み
・定期的なレビュー会議での運用ルール
・報告→改善→報告のサイクル化
・報告者を守る評価制度とガイドラインの整備

こうした仕組みを通じて、
「ミエル化」
「カタチ化」
「言語化」
「文書化」
「フォーマル化」
を実現する構造が、初めて組織に根づくのです。

ヒヤリハットを
「気のせい」
で終わらせない。

それが、リスク管理の基本であり、企業法務の使命でもあります。

リスクを防ぐのは感覚ではなく構造

ヒヤリハットは、共有されなければ
「存在しなかったこと」
になります。

しかし現実には、そこにこそ最大のリスクが眠っているのです。

「まだ事故にはなっていない」
という静けさは、必ずしも安全を意味しません。

ただ
「何も記録されていないだけ」
かもしれないのです。

だからこそ、法務部門には
「感覚の防止策」
ではなく、
「再現可能な構造としての事故予防設計」
が求められます。

法的トラブルが発生してから動くのではなく、その
「芽」
を拾い、構造に変え、未然に防ぐ。

そこにこそ、企業法務の本質的な価値があります。

そしてそれが、組織における安全文化の成熟度を測る、もっとも重要な尺度なのです。


(*)SaaSとは?
SaaS(サース)とは、「Software as a Service」の略で、ソフトウェアを買って入れるのではなく、インターネット経由で使うサービスのことを言います。
たとえば、勤怠や経理、顧客管理やファイル共有など、日常の業務ツールが「ログインすればすぐ使える」かたちで提供されます。
使いたい機能だけを選べて、システムの管理も含めて外部に任せられるのが特徴です。
今では、多くの企業にとって欠かせない存在となっています。
(出典:デジタル庁「政府情報システムにおけるクラウドサービスの利用に関する基本方針(2023年9月)」)
https://www.digital.go.jp/assets/contents/node/basic_page/field_ref_resources/e2a06143-ed29-4f1d-9c31-0f06fca67afc/5167e265/20230929_resources_standard_guidelines_guideline_01.pdf

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

【本記事をご覧になり、著者・所属法人にご興味をお持ちいただいた方へのメッセージ】
当サイトをご訪問いただいた企業関係者の皆様へ
当サイトをご訪問いただいたメディア関係者の皆様へ
当サイトをご訪問いただいた同業の弁護士の先生方へ

企業法務大百科® 開設・運営:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所