民事裁判官は、訴訟経済、すなわち、事件を解決するためのスピードと効率性を何より大切にし、
「予断と偏見」
という職人的スキルを使って事件を処理します。
他方、訴訟経済を追求した結果、あまりにデタラメや間違いが多すぎると、今度は、国民の裁判や裁判所や裁判官に対する
「信頼」
がなくなります。
「国民の裁判や裁判所や裁判官に対する信頼」
というのは、裁判所がもっとも気にかけるポイントです。
この
「国民の信頼」
というファクターは、国家主権の中の司法権という権力を独裁的に掌握する裁判所にとって唯一無二の権力基盤ですので、これを損ねることに対しては、裁判所はハイパー・ウルトラ・センシティブです。
国家主権のうち他の二権、すなわち、立法権を握る国会、行政権を握る内閣は、いずれも、メンバーなりトップなりが選挙で選ばれており、
「民主的基盤」
が明確に存在します。
ところが、
職権行使独立の原則をはじめとした特権(他にも、同年代の行政官僚と比べて給料が高い、オフィスが立派、官舎が広くて便利といった優遇措置など)が認められ、
司法権という(ときに違憲立法審査権を使って、立法作用や行政作用を吹き飛ばせる、という意味で他の二権を超越するくらい強力な)国家主権を独裁的・覇権的に行使できる
裁判所なり裁判官は、いってみれば、
単なる
「選挙も投票も経ることなく、ちょっと勉強ができて、小難しい試験に合格した、小利口でチョコザイな試験秀才」
というだけの存在
に過ぎず、民主的基盤はほぼ皆無です。
例えば、
「ある地域の住民全員の賛同を得たので、私を当該地域を管轄する裁判所の裁判官にしてくれ」
と最高裁事務総局にお願いしても、
「お前アホか。勉強して、司法試験合格してから来い」
と一蹴されるのがオチです。
国会議員や大臣は、皆の人気者であれば知性や教養や倫理や行動の品性が
多少「アレ」
でもなれることはありますが、裁判官だけは、どんなに人気があっても、原則として司法試験に合格しない限り、一生かかっても、死んでも、あるいは生まれ変わっても、なれません。
脱線しましたが、裁判所という組織については、
「訴訟経済」
という絶対的正義を追求しつつも、効率を追求した結果、漏れ抜けやデタラメやミスやエラーやチョンボが多発して、
「国民の信頼」
を損ねてはいけない、という組織課題もあり、このバランスを取りながら運営されています。
なお、
「国民の信頼」
は、
「国民の支持」
「国民の賛成」
「世論におもねる」
「世論調査を気にする」
「ネットの評判を調べる」
とかという話と、似ていますが、異質のファクターです。
国民の大半が、
「あの小学校に対する国有地売却、インチキに決まってんじゃん」
という意見を持っても、
「あんな凶悪そうで不気味でしょっちゅう地域で問題起こしている嫌われ者、あいつが絶対犯人だよ」
と考えても、
「なんだよ、あの厚生官僚、偉そうにしやがって。あいつが捕まってせいせいするわ。やっぱり、お天道様は、よくみてるな。ああいうエリートに限って、私は上級国民だから捕まりっこない、とかふざけた考えで、平気な顔で、重大な犯罪やらかすんだよ」
と思っていても、
裁判所は、そんなもの気にせず、意に介さず、ときに、そんな意見や考えと真っ向から対立する結論を出します。
そうやって、国民の大半の意見や考えと真逆の結論を出しますが、それでも、国民は、裁判所を
「信頼」
します。
ですので、
「信頼」
というのは、なかなか定義や特定が難しいもので、えも言われぬなものですが、
「選挙によって選ばれたわけでもないのに、受験偏差値の高い試験秀才というだけで、超絶的な国家権力をもたされている、民主主義国家において、異形の国家機関である裁判所」
がこれをひじょ~~~に気にしていることは確かです。
このようにして、前述のとおり、 裁判所全体も個々の裁判官としても、
「訴訟経済」
という絶対的正義を追求しつつも、
効率を追求した結果、漏れ抜けやデタラメやミスやエラーやチョンボが多発して、
「国民の信頼」
を損ねてはいけない、
という組織課題をふまえて、運営・行動しているのです。
著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所
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