1 「天動説」的幼児性精神構造
裁判沙汰になるようなトラブルを抱える方々は、当事者のいずれか、あるいは当事者双方ともに、幼児性精神構造を持っている場合が少なくありません。
知性と成熟性を備え、メタ認知(自己客観視、俯瞰認知)できる者同士、あるいはそのような成熟した本来的大人が一方にいれば、話し合いでカタが付き、裁判沙汰にまで発展しません。
というよりも、どちらか一方が、
「知性と成熟性を備え、メタ認知(自己客観視、俯瞰認知)できる者」
であれば、将来的な紛争になる可能性を予知し、予防法務技術を駆使して、そのリスクを、契約書において上書きしてリスクそのものを消失させており、交渉にすらず、事態が解決されるか、そもそも、そのような契約を忌避して、契約にまで至らず関係を解消しているはずです。
結局、裁判沙汰にまで発展する人間関係、企業間関係というのは、原被告いずれかあるいは双方において、当事者やトップの精神構造が幼稚で、天動説の如く、自分が世界や宇宙の中心にあって、自分が世界や宇宙を自由自在に振り回せる、という愚劣な考えに罹患しているものと推定されます。
こういう幼児性精神構造をもつ当事者ないしクライアントを、以下、
「傲慢な当事者」
「傲慢なクライアント」
と簡略化して表記します。
2 傲慢なクライアントの思考と行動
傲慢なクライアントは、自分の常識がこの世の規律のすべてである、と考えます。
ちなみに、「常識」とは、物心つくまでに身につけた偏見のコレクションを指します(アインシュタインの定義です)。
そして、
「自分の常識」
という偏見あるいは歪んだ物の見方を、相手が受け容れないと、不満を高め、暴発します。
暴発する相手が、部下や身内であれば、いいのですが、認識や見解の隔たりが生じた取引相手方に対しても、暴発させます。
「認識や見解の隔たり」
が生じた場合に備えて、その解消のためのツールとして、契約書があるはずなのですが、肝心の契約書にそのような記載がなかったり、記載が曖昧だったりしますが、そのような場合、
「常識」
で埋め合わせるほかなくなります。
その埋め合わせるべき
「常識」
が、彼我において顕著な隔たりが生じてしまう場合は、紛議に発展します。
あるいは、相手方も
「ビジネス的・社会生活的には非常識」
であるとわかっていても、
「法律的な屁理屈」
が成り立ち、しかも、そのような
「法律的には成り立ち得る屁理屈」
を使って主張すると、数百万、数億といった金額単位の利害得失差が生じるのであれは、
「ビジネス的・社会生活的には非常識」
とわかっていても、
「法律的には成り立ち得る屁理屈」
を採用せざるを得ません。
これは、(道徳や倫理を教条的に堅持するミッションがあるわけでもなく、むしろ、金儲けのためならそのようなくだらない価値観など踏み潰すことが求められる)営利追求組織である企業のトップとしての責任ある行動としては、営利のためには、常識や道徳や倫理を捨て、法律的屁理屈を掲げざるを得ません。
このようにして、彼我の
「常識」
の隔たり、あるいは、
「常識」
と
「法律的に成り立ち得る屁理屈」
との間の隔たりが存在し、そのギャップの帰結として、数百万、数億といった金額単位の利害得失差が生じる場合に、
「法的紛争」
が発生する契機が生じます。
「傲慢でない当事者」
すなわち、
「知性と成熟性を備え、メタ認知(自己客観視、俯瞰認知)が出来、展開予測能力に優れ、思考柔軟性があり、情緒が安定し、何より精神的冗長性(余裕)がある当事者」
が一方におり、あるいは、双方ともにそのような内面を持っていれば、
「『認識や見解の隔たり』が生じた場合に備えて、その解消のためのツールとして、契約書があるべきはずのところ、肝心の契約書にそのような記載がなかったり、記載が曖昧だったりした」
という事態そのものを
「自らの手落ち」
として恥じ入り、
「訴訟となった場合の内部動員資源を含むコストを考えた、全体としての訴訟のコスパ」
を踏まえて、早々に手打ちを模索始めます。
ところが、
「傲慢な当事者」
は、天動説的幼児性のため、
「自己の常識や良識や哲学や価値観」
という一種の
「偏見」
を世界が従うべき正義と誤解してしまっており、
「正義があるんです! 正義は勝ちます! これは聖なる戦いです!」
と叫び、「訴訟なんです! 裁判なんです! 戦いなんです! 出るとこ出て、彼らの非道を暴くんです!」
といって、手打ちの機会をことごとくはねのけ、裁判をおっぱじめてしまいがちです。
3 傲慢なクライアントを遥かに上回る権力と傲慢さをもつ、「専制君主国家の独裁君主」並の権力と裁量をもつ裁判所
ところで、
「傲慢な当事者」
「傲慢なクライアント」
が傲慢さを発揮し得る領域にも限界というものが観念されます。
オーナー系企業においては、部下ないし社内の人間といった身内については、その傲慢さは、自由に発揮可能かもしれません。
「プライドや職業倫理よりも、仕事や客やカネが大事」
という、
「男芸者」
のような弁護士の場合も、そのような傲慢さを受容するかもしれません。
ただ、
「傲慢」
というものの、当の
「傲慢な当事者」
「傲慢なクライアント」
の内面においては、別に、他者に無理難題を強いている、という感覚はありません。
彼ないし彼女の内面においては、
「他者も理解し、共感し、ひれ伏して当然の、『この世界の中心にあって、この世界を支配している、自身の常識なり良識なり健全な価値観なり哲学なり正義』」
といったものを、理解させ、共感させ、従ってもらおう、と必死なだけなのです。
もちろん、取引先や、取引で揉めた相手に対しても、同様に、
「他者も理解し、共感し、ひれ伏して当然の、『この世界の中心にあって、この世界を支配している、自身の常識なり良識なり健全な価値観なり哲学なり正義』」
を理解させ、共感させ、従ってもらおうと努めます。
ところが、取引相手や、揉めた相手として、
別の
「他者も理解し、共感し、ひれ伏して当然の、『この世界の中心にあって、この世界を支配している、自身の常識なり良識なり健全な価値観なり哲学なり正義』」
を持っている場合、
あるいは、
相手方もこちらと同じ
「他者も理解し、共感し、ひれ伏して当然の、『この世界の中心にあって、この世界を支配している、自身の常識なり良識なり健全な価値観なり哲学なり正義』」
を堅持しているが、それとは別に、
「法律的に成り立ちうる屁理屈」
があって、それに従った場合、数百万、数億といった金額単位の利害得失差が生じる場合、結局、彼我の見解の隔たりは埋まらないことになります。
ここまでのプロセス、すなわち、裁判外でチャンチャンバラバラしている間は、相手が受け入れる受け容れないは別として、言うだけタダ、というか、単なる見解表明の自由として、特に問題が生じるわけではありません。
しかしながら、事態がこじれて、裁判にまで至ると、
「傲慢なクライアント」
の天動説的幼児性も限界ないし終焉が訪れます。
すなわち、裁判というプロセスにおいては、
「憲法によって与えられた、『専制君主国家の独裁君主』並の権力と裁量をもつ裁判官の法と良心」
という新たな
「天動説」(以下、「担当裁判官が天動説的に抱いている常識・価値観・経験則・法解釈」)
が登場し、裁判に関与する者すべてが、この
「担当裁判官が天動説的に抱いている常識・価値観・経験則・法解釈」
にひれ伏すことが強制されるのです。
もちろん、一般的な裁判官は、今なお存在する
「どこぞの下品なオーナー系企業のイタい感じのオーナー社長」
や、
「経済発展が遅れた地域にみられる独裁国家の国家元首」
のような、わかりやすいまでの横暴さを発揮することはなく、むしろ、手にしている権力や裁量とは真逆の、慎ましやかで、控えめで、ジェントルで、エレガントな振る舞いをなさいます(「裁判官が、実は、民主国家においてありえないくらい、非民主的な選出システムで選出され、しかも、これまたありえないくらい専制的で独裁的な権力者である」という実体が露見したら、大変だもんね)。
この様子をみて、愚かな
「傲慢なクライアント」
は、
「何だ、裁判官も意外とおとなしい、というか、ジェントルというか、ヘタれだな。これならマウント取れるな」
とアホな勘違いをして、自身が天動説的に抱いている
「他者も理解し、共感し、ひれ伏して当然の、『この世界の中心にあって、この世界を支配している、自身の常識なり良識なり健全な価値観なり哲学なり正義』」
が、裁判でも通用する、と思い込みます。
ここで、弁護士が、しっかりと、ゲームのロジックとルール、すなわち、
裁判というプロセスにおいては、
「憲法によって与えられた、『専制君主国家の独裁君主』並の権力と裁量をもつ裁判官の法と良心」
という
「担当裁判官が天動説的に抱いている常識・価値観・経験則・法解釈」
にひれ伏すことが強制される
ということを教示できればいいのですが、
こういう愚かで傲慢なクライアントには、
「プライドや職業倫理よりも、仕事や客やカネが大事」
という、
「男芸者」のような弁護士
が引力にように引き寄せられることもあり、
傲慢なクライアントの誤解が矯正される機会は失われます。
そして、裁判が進むにつれ、
「担当裁判官が天動説的に抱いている常識・価値観・経験則・法解釈」
と
傲慢なクライアントの脳内に巣食う天動説的な価値観としての
「他者も理解し、共感し、ひれ伏して当然の、『この世界の中心にあって、この世界を支配している、自身の常識なり良識なり健全な価値観なり哲学なり正義』」
がどんどん乖離していき、
最後は、前者が法的な裏付けの下、優勢に働き、後者を駆逐する、という悲喜劇が生じます。
4 小括
訴訟において、勝利を収め、あるいは自己に有利な解決を得るためには、自らの天動説的価値観をとっとと放擲し、地動説に宗旨変えし、
「担当裁判官が天動説的に抱いている常識・価値観・経験則・法解釈」
を太陽と仰いで、ひたすら、これに自己の認識や主張を最適化させていくことが求められます。
その意味では、傲慢なクライアントが、そのままの価値観や常識や思い込みを引きずった状態で、訴訟に臨み、また、このクライアントにくっついているのが、
「プライドや職業倫理よりも、仕事や客やカネが大事」
という、
「男芸者」のような弁護士
だと、矯正の機会を失い、ゲームのロジックやルールに反した行動を続けた挙げ句、最後は悲劇となって終焉を迎えます。
以上の点から、傲慢なクライアントは、訴訟で必敗する、という言い方ができるのです。
著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所
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