00654_“げに恐ろしきは法律かな”その8(終):法律は、サイエンスでもないし、学問でもないし、真面目に学ぼうとしても絶望するだけ

非常識な内容を含み、
「日本語を使いながら、およそ日本語の文章とは言えないほど壊滅的にユーザビリティが欠如し、呪文や暗号のような体裁の奇っ怪で不気味な文書(もんじょ)」であり、
おまけに公権的解釈が複数存在し、何を信じていいか皆目不明で、
しかも、この民主主義の世の中において、極めてレアな
「独裁権力を振り回す覇権的で絶対的な国家機関」
によって、自由気まま、奔放不羈なスタイルで、わりと適当に解釈されちゃい、
加害者や小狡い人間に優しく、被害者や無垢なカタギに過酷な、意外とワルでロックでパンクで反体制的なヒール(悪役)として一般庶民をいじめる、
何とも、クレイジーで、デタラメで、いい加減で、ファジーなくせに、毒々しく、得体の知れない恐ろしさをもつもの、
だからといって、
「こんなシロモノ、知りたくもないし、お近づきにもなりたくないし、認知や感覚を遮断し、一生目を閉じ、耳を塞ぎ、接点や縁をもたずに生きていきたい」
という、無垢で善良な一般庶民のささやかな願いは、「法の不知は害する(法の不知はこれを許さず)」
という古代ローマ以来の法格言によって、無残にも打ち砕かれてしまう、
そんな、実に不気味で恐ろしく、厄介この上ないシロモノである「法律」。

そんな法律を、勉強しようと志したとして、ちゃんと勉強できるものでしょうか?

まず、法律はサイエンスではありません。

一応、社会科学(ソーシャルサイエンス)などと位置づけられていますが、
「サイエンス」
と呼ぶのはあまりにファジーでデタラメで意味不明で適当すぎます。

「法律学」
と呼ばれる世界は、憲法解釈を例にとっても、ある時代には、違憲の疑いとされた組織や暴力行使が、時代が変わると合憲になったり、条文はそのままなのに、公的取り扱いが180度変わってしまったり、善良な科学的知性をもつ生徒を発狂させるような話が普通に展開する異常極まりない空間です。

さらに、学説についても、話の都度都度、A説、B説、折衷説、判例通説、有力説、受験上通説(司法試験に合格するために答案作成戦略上採用することが推奨される学説)といった学説対立があり、純真無垢で一本気な学問の徒の志を、バッキバッキに折りまくる状況です。

といいますか、法律学や会計学は一応
「学問」
とカテゴライズされており、これらを教える教育機関や教育者も整備されていますが、法律や会計は、たんなる制度あるいは取決めに過ぎません。

こんな制度や取り決めなんて、よく考えてみれば、学術性は皆無であり、
法律「学」や会計「学」
という言い方はやや誤解を招く言い方です。

「学」ないし「学問」
というと、なんだか高尚で、一定の知性と教養があって、特定の高等教育機関でないと学べないような、ハイブロウなイメージが持たれそうです。

しかし、会計というシステムについては、
「特定の大学の特定の学部でしか学べない学術分野」
というものではなく、商業高校にいる素行にやや問題のある学生でもフツーに勉強しています。

中学しか出ていない方でも仕事で決算を組むことは可能です。

法律についても同様で、ロースクールに通わなくとも予備校で勉強した学部生が大量に司法試験予備試験(ロースクール卒業資格試験)に合格して、ロースクール卒業資格を得て、ロースクール卒業生よりはるかに高い確率で司法試験に大量に合格しています。

おそらく、単なる制度やシステムにすぎない法律や会計が、
「学問分野として整理され、あたかも特定の高等教育機関でしか教えられない学術性の高い領域」
とされているのは、これらの教育に携わる大学関係者や当該関係者のお立場へ配慮した結果だと思われます。

いずれにせよ、素直かつシンプルに、法律を学んで、使いこなそうとしても、簡単なのか難しいのか皆目不明で、いつ、どのタイミングで、どのあたりから手をつけて、どの辺まで学んでおけばいいのか。

また、机に座って本を読んだり、先生の話を聞いたら、それで法律を理解し、使いこなせることができるのか。

というより、エラそうに法律を教えている先生は、法律を知っているだけでなく、きちんと使いこなせるのか。

勉強して一定程度法律を学んでさえいれば、暴力団や、警察や、検察官や、相手方の弁護士や、役人といった、法律を使いこなして暴力的にケンカや揉め事をふっかけてくる連中に、うまく対処できるか。

あるいは、そのようなトラブルに対処してくれる弁護士に頼むとして、きちんと弁護士の力量を把握したり、効果的にコミュケーションをとって、ボられず、きちんと対処できるようなリテラシーを実装できるのか。

あるいは、その種の実践知性は、本や座学では身につかず、体で覚えていくほかないのか。

このように、
「法」を学ぶ
といっても、その内実や奥行きは全く不透明であり、アウトラインやだいたいのサイズ感すら不明で、何から何まで、腹が立つくらい、視界不良で理解困難です。

かくいう私も、10代で法律と出会い、大学生のときに司法試験に合格し、以来、20年超、実務の現場で法律と付き合っていますが、いまだに知らないことやわからないことに出くわします。

これが、サイエンスでもなく、学問でもなく、えも言われぬ、得体のしれない、法律の難しさであり、楽しさなのかもしれません。

いずれにせよ、一朝一夕では、学べるようなシロモノでないことは確かであり、法律との付き合い方は、
「勉強して知って克服する」のではなく、
常に楽観バイアスや正常性バイアスに陥らず、
「法律は不気味で怖い」という保守的で謙抑的な警戒心をもって正しく恐れ、
なるべく早めに、信頼できる専門家に話せる環境を維持し、
必要に応じて、適宜、効果的に連携して対処する、
ということくらいしか言えません(気軽に、もっと突っ込んで言えば、タダで、カジュアルに相談できる弁護士の友達や知人をもつことも推奨されますね)。

実際、事業家や、資産家といった成功者の方は、本を読んだり、学校やセミナーに通うことなく、そうやって、実践で法というものを知り、理解し、使いこなして、富を築いたり、保全したりしています。

以上のとおり、
非常識な内容を含み、
「日本語を使いながら、およそ日本語の文章とは言えないほど壊滅的にユーザビリティが欠如し、呪文や暗号のような体裁の奇っ怪で不気味な文書(もんじょ)」であり、
おまけに公権的解釈が複数存在し、何を信じていいか皆目不明で、
しかも、この民主主義の世の中において、極めてレアな
「独裁権力を振り回す覇権的で絶対的な国家機関」
によって、自由気まま、奔放不羈なスタイルで、わりと適当に解釈されちゃい、
加害者や小狡い人間に優しく、被害者や無垢なカタギに過酷な、意外とワルでロックでパンクで反体制的なヒール(悪役)として一般庶民をいじめる、
何とも、クレイジーで、デタラメで、いい加減で、ファジーなくせに、毒々しく、得体の知れない恐ろしさをもつもの、
だからといって、
「こんなシロモノ、知りたくもないし、お近づきにもなりたくないし、認知や感覚を遮断し、一生目を閉じ、耳を塞ぎ、接点や縁をもたずに生きていきたい」
という、無垢で善良な一般庶民のささやかな願いは、
「法の不知は害する(法の不知はこれを許さず)」
という古代ローマ以来の法格言によって、無残にも打ち砕かれてしまう、
そんな、実に不気味で恐ろしく、厄介この上ないシロモノである
「法律」
ですが、
サイエンスでも学問でもなく、とはいえ、奥が深く、理論や仕組みも複雑怪奇であることに加え、理論や仕組みとは無関係に蓄積され非認知・非公開のブラックボックス的なスキルやナレジの集積として
「実践知や経験知」
といった暗黙知の塊も別途存在する。

そんな
「法律」
は、勉強して、知性によって克服しようとしても、不可能に近く、どうしようもなく、立ちすくむほかない。

まさに、「げに恐ろしきは法律かな」という、残酷な結論をもって、この一連のお話を終わりたいと思います。
(了)

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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00653_“げに恐ろしきは法律かな”その7:「そんな法律知らなかった」とは言わせない

非常識な内容を含み、
「日本語を使いながら、およそ日本語の文章とは言えないほど壊滅的にユーザビリティが欠如し、呪文や暗号のような体裁の奇っ怪で不気味な文書(もんじょ)」
であり、
おまけに公権的解釈が複数存在し、何を信じていいか皆目不明で、
しかも、この民主主義の世の中において、極めてレアな
「独裁権力を振りかざす覇権的で絶対的な国家機関」
によって、自由気まま、奔放不羈なスタイルで、わりと適当に解釈されちゃい、
加害者や小狡い人間に優しく、被害者や無垢なカタギに過酷な、意外とワルでロックでパンクで反体制的なヒール(悪役)として一般庶民をいじめる、
何とも、クレイジーで、デタラメで、いい加減で、ファジーなくせに、不気味で、厄介で、毒々しい、得体の知れない恐ろしさをもつ法律。

善良な一般庶民としては、できれば、こんなシロモノ、知りたくもないし、お近づきにもなりたくないし、認知や感覚を遮断し、一生目を閉じ、耳を塞ぎ、接点や縁をもたずに生きていきたいものです。

ところが、そうはいかないのが、悲しいところです。

法律なんて一切縁をもたずに、ごく普通の常識人が、ごく普通の常識に依拠して、ごく普通の常識的行動をしたとしても、それが、運悪くが法律にひっかかる、ということもあります。

法律は、俗に、
「六法」
などといいますが、6つだけではありません。

世の中には、6つとかの話では済まない、とてつもない数の法律が存在します。

行政個別法という法分野だけで一説には1800近くあるとか。

また、ホニャララ特別措置法、すなわち、
「理論的にぶっこわれてまともな説明が不可能だけど、とりあえず、まあ、いいから、これに従っといてもらおう」
といった趣の法律も存在します。

これら法律に加えて、行政命令や規則や条例といったものがあり、判例法といったどこに書いてあってどう使われるか意味不明なルールもあり、その全容は、内閣法制局でも、法務省大臣官房司法法制部でも、最高裁首席調査官でも把握できていないと思われます。

この世の中に、法律のすべてを知っている人間は、いません。

おそらく。

すべての法律を知っていて把握している人間がいるとすれば、円周率を万単位の桁で覚えている人間と同様、かなりレアな存在です。

そんだけ法律があるわけですから、我々、神ならざる人間が、知らず知らずに、法を犯す、ということも十分あり得ます。

はずみで法を無視ないし軽視することももちろんあるでしょう。

先程のホニャララ特別措置法や、どこぞの県に存在する意味不明な条例など、法律自体に、間違ったものや、狂ったとしか思えない内容のものも相当あったります。

「健全な常識にしたがって行動したら、それが法令違反だった」
ということも、よくある話です。

女性も好きで、さらに結婚式をするのも大好きで、結婚している身で、奥さん以外の女性とハワイで結婚式挙げちゃったり、
国情や政治現実の調査に熱心なあまり、政治活動費を使って広島の繁華街のSMバーの視察に行っちゃたり、
TTP交渉でクソ忙しい最中に、千葉ニュータウンの開発に伴う県道の建設にまつわる特定企業の補償交渉も熱心に行ない、また蓄財にも熱心になってしまい、少しお小遣いをもらっちゃたり、
育休を取得している間に堂々と不倫をやらかしたり、
といった、
「法とかモラルとかに関心もなく頓着もしない、ワリと大胆なことを平気でやらかす、変わった常識をお持ちで、『皆の人気者』という以外にどんな素養や素性を持っているのかも今ひとつ不明な方々」。

すべてとは言いませんが、これらはすべて国会議員あるいは国会議員だった方々のプロファイルであり、私が脳内でイメージする
「国会議員」
の典型的な姿もだいたい同じような感じです。

そんな変わった常識やモラルをお持ちの愉快な面々が、立法機関のメンバーとなって法律を作るわけですから、そんな方々の作る法律が、常にかつ当然に何から何まですべてマルっと完全無欠で清く美しく正しい・・・・・・・・・・、なんてわけがあるはずない。

「そもそも、ルールのすべてを把握しているわけではないし、ルール自体が常識の欠如した方が制定に関与しており、中身も常識や倫理とは無縁のもので、常識にしたがって常識的な行動をしたら、知らないところでこれに抵触することなど普通にあり得る」
ということは、もはや明らかです。

そうなると、法律に触れ合わず、法律と距離を置き、法律と縁をもたずに生きていこうとしても、無限に近い数存在し、しかも内容もデタラメなものもあり、誰も全容すら把握できない法律にひっかかってしまう。

そういうときに、
「そんなの知らないよ、聞いてないよ~」
と泣き言いって、許してもらえるか?

残念なことに、こういう弁解は一切許してくれないのが、法律の恐ろしさです。

すなわち、
「法の不知は害する(法の不知はこれを許さず)」
という古代ローマ以来の法格言があり、たとえ常識にかなった普通の行動をした結果であっても、それが法の明文に反してしまった場合、
「常識に対する信頼に基づき行動した」
「常識にしたがっただけ」
という弁解は、
「すべて寝言扱いとなって、一切救済されない」
ということになるのです。

なお、こういう
「法と常識のギャップ」
にビジネスチャンスが生まれます。

このビジネスチャンスを利用した生業をもつのが、暴力団です。

最近の暴力団は、暴力など一切ふるいません。

暴力団ほど本当に暴力をふるいません。

間近に顔を近づけて、巻き舌で元気な関西弁やよく通るドスの効いたヤカラ言葉でコミュニケーションをされますが、ボディタッチはありません。

暴力団はマハトマ・ガンジー並に非暴力主義者です。

ですから、公安委員会から指定を受けた立派な(?)暴力団は、
「非暴力団」
と言う方が適切かもしれません。

実際にカタギ相手に暴力を振るうのは、破門された出来損ないの元暴力団員(エセ暴力団員)か、暴力団員にすらなれないチンピラか愚連隊か、新橋で飲み過ぎて酔っ払った同じくカタギのサラリーマンくらいです。

「暴力団」
という、投資銀行か総合商社と近似した営利組織に所属するエリート(?)たちは、暴力ではなく、法律とか、契約書とか、念書とか、誓約書とか、公正証書とか、確定日付とか、内容証明郵便とか、約束手形とか、裁判とか、強制執行とか、一定の素養と知性が要求されるツールを使います。

だから、暴力団は、よく法律を勉強します。

特定の法分野については、そこらへんの弁護士以上に詳しかったりします。

宗教法人乗っ取りを生業とするヤクザ(ですが、表面的には不動産屋)は宗教法人法に異常に詳しいですし、病院乗っ取って食い物にするヤクザ(ですが、表面的には医療経営コンサルタント)の医療法の知識は脱帽ものです。

また、いわゆる事件屋の民事訴訟法や民事保全法・民事執行法の知識や実務知見は登録後数年程度のキャリアの弁護士のそれを圧倒しますし、裁判所に提出する各種書面の出来栄えもソツがなく、全体の仕事のスピードの速さは実務法曹と比べても遜色ありません(あるいは、この種のマチベン業務に慣れないトロこい弁護士よりはるかに早く正確です)。

もちろん、
「日本国政府」
という
「日本最大の暴力団」などとも言われる組織(※これは、ある小説に出てきた主人公の述懐であり、私としては違和感があるのですが、言い得て妙、なので、皆様の本質的理解のためにのアナロジーとしてご紹介します。たしかに、シマあるいはナワバリをもち、掟を定め、みかじめ料を強制的に徴求し、内外の敵やリスクに対処し、内外の課題に対処するための暴力・権力を独占し、 シマやナワバリをしっかり守る、という機能にだけ着目すると、両者は極めて酷似していますね。)も同様です。

この組織の構成員になるには、国家公務員試験という法律に関する難易度の高い試験をパスする必要があります。

そのくらい、この組織のシノギ(生業)をきっちりこなすには法律知識は必須アイテムなのです。

ケンカや交渉を有利に進めるのには、一般ピーポーが知らない法律を勉強して、この
「法と常識のギャップ」
をうまく利用して、あるいは法律を武器としてうまいこと使い、ボーッと生きている相手より優位に立ち、相手をビビらせ、へこませ、へとへとに疲弊させ、ボッコボコに追い詰め、追い込み、相手を意のままに操るのが、もっともパフォーマンスがいい。

この手法は、警察も、税務職員も、公取委職員も、金融検査官も、その他立入検査や調査をする役人は皆使いますし(大阪地検特捜部の特捜検事もうまいこと偽造した文書で無実の被疑者を追い込んでいましたから、検察官も使う場合があるようです)、本家本元の暴力団については、もちろん見事なまでに効果的に使いこなします。

なお、このような法を暴力的に振り回す暴力団や暴力団類似の組織構成員に対抗するのは、ICレコーダーによる秘密録音(狭い業界用語ないし符牒としては、「音入れ(おといれ)」などとも言われるようです)が効果的です。

恐れを知らない、傲岸不遜・天下御免の暴力団員も、ICレコーダー録音だけは蛇蝎のごとく忌み嫌いますし、不祥事を起こした特捜検事も取り調べ中のICレコーダー録音で足をすくわれています。

無敵のヤクザも鬼検事も、自分の発言が記録されるのは、致命的な弱み、というわけです。

なお、独裁的覇権的権力を付託され、これを放埒不羈に振り回す裁判官も同様ですが、なんと、法廷や準備手続の部屋では、
「録音禁止」
という訴訟指揮内容が告知され、権力を振り回す様子を記録されることを鉄壁の防御で防いでいます。

「よほど、録音されたら外聞の悪いことが行われているんだろう」
と推認されるところです。

いずれにせよ、現代社会においては、暴力や権力を振るう者に対抗するには、彼らがもっとも苦手な
「音入れ」
です。

と、少し脱線しましたが、総括しますと、
非常識な内容を含み、
「日本語を使いながら、およそ日本語の文章とは言えないほど壊滅的にユーザビリティが欠如し、呪文や暗号のような体裁の奇っ怪で不気味な文書(もんじょ)」であり、
おまけに公権的解釈が複数存在し、何を信じていいか皆目不明で、
しかも、この民主主義の世の中において、極めてレアな「独裁権力を振り回す覇権的で絶対的な国家機関」によって、自由気まま、奔放不羈なスタイルで、わりと適当に解釈されちゃい、
加害者や小狡い人間に優しく、被害者や無垢なカタギに過酷な、意外とワルでロックでパンクで反体制的なヒール(悪役)として一般庶民をいじめる、
何とも、クレイジーで、デタラメで、いい加減で、ファジーなくせに、不気味で、厄介で、毒々しい、得体の知れない恐ろしさをもつ法律ですが、
だからといって、
「こんなシロモノ、知りたくもないし、お近づきにもなりたくないし、認知や感覚を遮断し、一生目を閉じ、耳を塞ぎ、接点や縁をもたずに生きていきたい」
という、無垢で善良な一般庶民のささやかな願いは
「法の不知は害する(法の不知はこれを許さず)」
という古代ローマ以来の法格言によって、無残にも打ち砕かれてしまいます。

こう考えると、やはり、
「げに恐ろしきは法律かな」
ということになりますね。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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00652_“げに恐ろしきは法律かな”その6:法律は、加害者や小狡い人間に優しく、被害者や無垢なカタギに過酷な、意外とワルでロックでパンクで反体制的なヒール(悪役)

これまでみてきたように、法律は、
非常識な内容を含み、
「日本語を使いながら、およそ日本語の文章とは言えないほど壊滅的にユーザビリティが欠如し、呪文や暗号のような体裁の奇っ怪で不気味な文書(もんじょ)」
であり、おまけに公権的解釈が複数存在し、何を信じていいか皆目不明で、
しかも、この民主主義の世の中において、極めてレアな
「独裁権力を振り回す覇権的で絶対的な国家機関」
によって、自由気まま、奔放不羈なスタイルで、わりと適当に解釈されちゃう、
という
「げに恐ろしき」
ものです。

そして、そんな法律は、決して、弱きを助け、強きを挫くものなどではなく、デフォルト設定としては、
加害者や小狡い人間に優しく、被害者や無垢なカタギに過酷で、意外とワルでロックでパンクで反体制的なヒール、
といったシロモノであり、やはり、つくづく
「げに恐ろしきもの」
なのです。

すなわち、
「法律」

「契約」
に書いてないことは、何をやってもいい。

やってほしくないことややられたくないことは、
あらかじめ、ミエル化、カタチ化、具体化、特定化、文書化、フォーマル化をした上で、
「法律」として作って公布しておくか、
やられたくない・やってほしくない相手と「契約」という形で取り交わしておかないと、
やられたい放題にされても一切文句を言えない。

そういう、
「やってほしくないことややられたくないことは、あらかじめ、ミエル化、カタチ化、具体化、特定化、文書化、フォーマル化」
をせずに、カタギの常識を持ち出して、法律に常識的な配慮を期待しても、ダメ。

そういう場合、法律は、
「え?  やってほしくないことややられたくないことがあったの? だったら、あらかじめ、ミエル化、カタチ化、具体化、特定化、文書化、フォーマル化して禁止したり制御したりしておかないと。え? そんなの無理? やっていないと? そりゃ、あんたがズボラこいたんだよ。ざ~~んねん。やられっぱなしもしゃないよ。自己責任、自業自得、因果応報ね。ドンマイ!」
と冷淡にあしらうだけです。

これは、別に、私(筆者)が、狷介で、悪趣味な、マイノリティ思考の嫌われ者だから(そういう一面があることは否定しませんが)、というわけではありません。

かなり前になりますが、こんな記事があります。

====================>引用開始
東京・丸の内の森綜合法律事務所(注:現・森・濱田松本法律事務所)。
18日、株式公開を控えたあるベンチャー企業の役員が集合した。
取締役会を開くためである。
顧問の小林啓文弁護士を交えて昼過ぎから深夜まで株式公開に向けた経営戦略を話し合った。
「自分から企業に出向くと拘束時間が長くなり、弁護士報酬の企業負担が重くなる」と小林弁護士。
顧問先企業のうち四社は法律事務所で取締役会を開く。
同弁護士の1時間あたりの報酬は平均4万5千円だ。
「小林弁護士はわが社の秘密兵器」。
ソフトバンクの孫正義社長もまた毎週1回、同弁護士と話し合う時間をとる。
不祥事への対応ではない。
経営戦略への助言を求めているのだ。  
「私の仕事は経営者の夢を構想に置き換え、それを(実現可能な)計画におろすこと」。
小林弁護士の真骨頂は法律を積極的に武器として使う戦略法務だ。
「ビジネスモデル特許をとって競争相手を縛りつけよう」
経済は常に法律に先行する。法律に書いていないことはやっていいことだ」。
過激にも聞こえるその発言に、企業経営者から「取締役に喝を入れてほしい」といった依頼が頻繁に舞い込んでいる。

以上、『第3部特権は誰のため(5)船団解体の兆し――競争に商機見いだす(司法経済は問う)』(日本経済新聞2000年1月31日朝刊) より
<====================引用終了

以上のとおり、天下(?)の森・濱田松本法律事務所のパートナーの著名な弁護士も、前記の前提見解に立って、サービスを提供されています。

結局、
「法律」という、
「加害者や小狡い人間に優しく、被害者や無垢なカタギに過酷で、意外とワルでロックでパンクで反体制的なヒール(悪役)」
に常識や理性や道徳や倫理を期待するのが土台無理な話です。

自衛策としては、
法をしっかり勉強し、あるいは
法をしっかり勉強した信頼できる弁護士をカネで雇い、
仕事やプロジェクトを進め上で生じるべきすべてのリスクを早期に発見・抽出・特定・具体化した上で、
「やってほしくないことややられたくないことを、あらかじめ、ミエル化、カタチ化、具体化、特定化、文書化、フォーマル化して、法律や取り決めや契約を作成するなり上書きして、リスクを制御する」
ということしかありません。

そんな資源動員ができるのは、一部の金持ちか企業であり、だからこそ、法は、常に、強きを助け、弱きを挫く、という残酷な帰結をもたらす現実となって無垢で無防備な一般庶民に襲いかかるのです。

こう考えても、やはり、
「げに恐ろしきは法律かな」
といえますね。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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00651_ドラマチックな要素が皆無の民事裁訴訟における証人尋問の実体

一般に、
「証人尋問は訴訟の最も重要で、ドラマチックな場面」
などと考えられているようです。

東京地裁が取り扱う民事事件については、連日、法廷において、
鋭い尋問、
動揺する証人、
喧々諤々とした論争、
丁々発止のやりとり、
連発される異議、
飛び出す新証拠、
傍聴席を埋め尽くすたくさんの傍聴人、
身を乗り出す裁判官、
などとテレビドラマのような熱気を帯びた法廷劇場が展開されている、とイメージされる方も多いのではないでしょうか。

しかし、実際の民事訴訟においては、傍聴人は、関係者が数人いる程度で、ほとんどが無観客試合の状態です。

この点で、まずは舞台イメージの問題として、拍子抜けするほど地味で、緊張感とか緊迫感はほとんどありません。

そして、そもそもの話になりますが、尋問の成果をアピールする相手である肝心の裁判官自体が、ハラハラドキドキを期待していませんし、ひどい場合は、
「今日、どこに飲みに行こうか」
と考えながら半分寝ていたり、あるいは完全に寝ている状態の裁判官もたまにいたりします(「裁判官も年季が入ると、魚のように、目を開けたまま寝られる」というウソかホントかわからないような噂話を聞いたことがあります)。

ちなみに、司法修習時代、実務修習で法廷の壇上に立って裁判官と同じ目線で本物の裁判を臨戦(観戦)するというプログラムがあるのですが、壇上で修習生で寝てしまうというライトな不祥事が結構な確率で発生します。

ご多分に漏れず、修習生であった私も尋問中に壇上で何度かやらかしましたが、その時、裁判官になるには、頭の良さよりも、忍耐力か、あるいは、
「当事者や代理人にバレないように、魚のように、目を開けたまま寝れる」
という特殊技能を実装しないと無理、と見切りました。

能力はさておき、この忍耐力とか特殊技能という点で、将来のキャリア選択について
「裁判官とかマジ無理」
と結論づけ、早々に選択除外した記憶があります(他にも、「裁判所という組織は、日本の組織の中でダントツに“支店数”が多くかつ極地や僻地に至るまで拡散しており、左遷先や転勤先が死ぬほど多いこと」に加え、かつ「悪事や非行を働いたわけでもないのに、定期的な左遷が実施され、突然、何年かに一度の頻度で、“都を追われ、配所の月を眺めること”がキャリアプログラムに組み込まれている」ということもあり、メトロポリタンの私としては「マジ勘弁」と思ったことなどの理由があります)。

さて、実務経験に基づく蓋然性を基礎とする判断をする限り、裁判官としては、ハラハラドキドキ、ドラマチックなサスペンスを期待するどころか、むしろ、そんな状況が目まぐるしく変わるような例外状況や異常事態など、却って迷惑(非常に迷惑)と感じています。

すなわち、よほどマイペースで無能な裁判官を除き、普通に空気を読める普通の能力をもつ職業裁判官は、証人尋問の
「前」
において、事件の勝敗の方向性(業界用語で「事件の筋」などと読んでいます)や心証は、主張の中身や書面の証拠だけでほぼ決定済みなのです。

こういう言い方をすると、法律実務を知らない学生などから
「予断と偏見を以て裁判するなんてことはあり得ないし、あってはいけない」
と青臭い反論がふっかけられるかも知れません。

無論、刑事裁判においては、建前として、
「無罪推定則がある以上、裁判所は予断と偏見を抱いていはいけない」
というフィロソフィーがある、ということになっています。

しかし、民事裁判については、言ってしまえば、
「たかが一般市民同士のつまらないいがみ合い」
です。

訴訟など、別に起こしても起こさなくてもいいし、訴訟を起こしてしまった後でもいつでも和解したり取り下げたり放棄してもいい。犬も食わない、猫もまたぐ、食えない、どうしようもない、無意味なケンカです。

そんな、当事者の都合でどうにでもなる、くだらない一般市民同士のしょうもないエゴの衝突、つまらない意地の張り合い、足の引っ張り合いが、民事訴訟の本質です。

そして、建前は別にして、本音や実体ベースで考察する限り、民事裁判官の最大の使命は、真実の発見でも、正義の実現でもなく、
「訴訟経済」
なのです。

すなわち、私人同士の揉め事など、
・お互い納得するか(あるいは裁判所がもつ「裁判官職権行使独立の原則(憲法76条3項)」という独裁権力をちらつかせて、脅しすかしの末、無理くり納得させるか)、
・相応の手続保障を尽くした上で、高裁や最高裁でひっくり返されないような設えを整え、相応の結論を出すか、
のいずれかの方法でチャッチャと終わらせることが重要なのです。

法とは、
正義とは、
真実とは、
事件の裏に何があったのか、隠された真相とは、
などと、アホなテレビドラマサスペンスのような無駄な悩みをもつ裁判官がいたとしたら、おそらく、滞留事件が多すぎて、最高裁事務総局から相当怒られ、
「関八州に立ち入るべからず」
といった感じで延々と僻地巡りをさせるか、とっくの昔に肩たたきをされて辞めさせられています。

国家が司法権という主権を握り締める以上、予算を割いてサービスとして民事裁判制度を国民に提供しなければならないため、公益性も乏しい私人同士のつまらんケンカに、頭が良くて給料の高い裁判官という公務員を雇い入れるなどして、裁判所という貴重な国家資源を整備することが求められます。

しかし、当然ながら、裁判所を運営するための国家資源(ヒト、モノ、カネ)は有限であり、しかも逼迫する国家財政においては、年金や景気や防衛や子育てなど他のもっと重要な政策目標達成のために使うカネを捻出するのに汲々としており、
「司法予算」などという
「『(比較的・相対的な観点で)カタギとしてまともに暮らしている限り、あまりお世話になることのない、特殊な属性の方のための病理現象』を解消するたため、というワリとどうでもいいことのために使う予算」
については、増やしたり充実させたりすることは困難です。

このように、予算も人員も絞られているため、裁判所という組織の最大の正義は、
「この貴重かつ有限な資源を、効率的に運用して、日本全国に発生する民事事件や刑事事件をすべて、迅速に解決すること」
となるのも頷けます。

これを別の表現をすれば、先程述べた
「民事訴訟における訴訟経済の最大限の追求」
という裁判所という国家機関にとって果たすべき最重要課題が導かれることになるのです。

訴訟経済や思考経済に資するのは、ハラハラドキドキや大逆転や大どんでん返しなどではありません。

むしろ、適切な相場観と予定調和に基づく
「予断と偏見」
を以て、個々の事件を効率よく、波乱なく、すんなり、すっきり、とっとと終わらせることが、訴訟経済に最も貢献します。

とはいえ、訴訟経済を追求した結果、あまりにデタラメや間違いが多すぎると、今度は、国民の裁判や裁判所や裁判官に対する
「信頼」
がなくなります。

「国民の裁判や裁判所や裁判官に対する信頼」
というのは、裁判所がもっとも気にかけるポイントです。

この
「国民の信頼」
というファクターは、国家主権の中の司法権という権力を独裁的に掌握する裁判所にとって唯一無二の権力基盤ですので、これを損ねることに対しては、裁判所はハイパー・ウルトラ・センシティブです。

国家主権のうち他の二権、すなわち、立法権を握る国会、行政権を握る内閣は、いずれも、メンバーなりトップなりが選挙で選ばれており、
「民主的基盤」
が明確に存在します。

ところが、
職権行使独立の原則をはじめとした特権(他にも、同年代の行政官僚と比べて給料が高い、オフィスが立派、官舎が広くて便利といった優遇措置など)が認められ、
司法権という(ときに違憲立法審査権を使って、立法作用や行政作用を吹き飛ばせる、という意味で他の二権を超越するくらい強力な)国家主権を独裁的・覇権的に行使できる
裁判所を構成する裁判官は、いってみれば、
単なる
「選挙も投票も経ることなく、ちょっと勉強が出来て、小難しい試験に合格した、小利口でチョコザイな試験秀才」
というだけの存在
に過ぎず、民主的基盤はほぼ皆無です(例えば、「ある地域の住民全員の賛同を得たので、私を当該地域を管轄する裁判所の裁判官にしてくれ」と最高裁事務総局にお願いしても、「お前アホか。勉強して、司法試験合格してから来い」と一蹴されます)。

国会議員や大臣は、
「皆の人気者」
でありさえすれば知性や教養や倫理や行動制御や品性が
多少「アレ」
でもなれることはありますが、裁判官だけは、どんなに人気があっても、原則として司法試験に合格しない限り、一生かかっても、死んでも、あるいは生まれ変わっても、なれません。

脱線しましたが、裁判所という組織については、
「訴訟経済」
という絶対的正義を追求しつつも、効率を追求した結果、漏れ抜けやデタラメやミスやエラーやチョンボが多発して、
「国民の信頼」
を損ねてはいけない、という組織課題もあり、このバランスを取りながら運営されています。

「訴訟経済」
ということを考えれば、
欲にまみれ、怒りに打ち震え、感情的になったケンカの当事者の、要領を得ず、いつ終わるかわからない聞くに耐えない愚痴を、親切に寄り添って聞いたりするより、
当事者が延々語る
「長~~~いワリに中身のない話」
をミエル化、カタチ化、洗練化、文書化、フォーマル化させて、文書と証拠として整理させた上で、ドライかつクールかつソリッドな体裁で
「筆談」
「文通」
ベースのやりとりをさせ、
それだけでチャッチャと結論出してしまえば、ラクだし、早いし、(当事者が喚いたり吠えたりする)情緒的なノイズも効果的に遮断され、これに振り回されることにより生じるべきミスやエラーもうまいこと防げます。

とはいえ、試験、例えば旧司法試験や現在の司法試験予備試験を例にとって考えてみてください。

択一試験や論文試験といった筆記試験に合格しても、実際、口述試験で会って話してみると、
「口下手を通り越して、コミュニケーションが全く取れず、まともな受け答えが不可能で、どう考えても法曹としての潜在的な適格性を欠いている」
という輩が紛れており、そういう例外的場合には(どんなに筆記でいい成績をとっても)不合格とせざるを得ない場合ということがありえます。

あと、優秀な成績で筆記試験で合格した後、口述試験の会場で登場したのが、
金髪で、
Tシャツ短パン姿で、
サングラスをかけ、
素足にサンダルで、
ごつい金のチェーンネックレスで、
巻き舌の関西弁でしゃべり、
250ヤード先からみても「まんまヤカラ」という人間
であれば、いかに筆記試験で優秀な成績を収めたとしても、いってみれば、
常識と倫理観が致命的に欠如した
「知能が高いというだけの、優秀な銀行強盗」
を法曹界に招き入れるというリスクが生じるかもしれないので、こういう人間も排除しなければならない。

このように、
「筆記試験に合格したことを以て、一定水準以上の能力を有する蓋然性が顕著で、合格の推定が相当程度及んでいる」
という場合であっても、選抜行為の質・完全性や、選抜者全体の信頼性を担保するため、
「推定を覆す万が一の事態に備え、消極的・保守的確認」
をする必要が出来します。

そして、このような消極的確認を行うもっとも端的な方法は、筆談や文通である程度、話の筋や関係者のキャラを把握した上で、
「関係者や当事者に実際会ってみる」
ということに尽きます。

証人尋問もそのような趣旨で行なわれます。

ただ、そのような消極的意味合いがほぼすべてといってよく、
「証人尋問で、何か新たに発見したり、何か新たな事件の方向性を見出したり」
ということは、基本ありません。

両当事者の筆談や文通も支離滅裂で、話の筋も皆目見えず、どっちもどっちの状態で、さらに直接会ってノイズ混じりの愚痴や与太話を聞いたら、余計に混乱しますし、
「訴訟経済」
という民事訴訟における絶対正義を追求する観点からは、こんな不経済で非効率な方法は絶対やっちゃアカン、ということは明白です。

したがって、証人尋問において、いきなり全然違う話が出てきてまったく想定外の展開が出てきたり、状況を完全にひっくり返ったり、ということは滅多に起きないし、訴訟経済第一主義の裁判官としても、そんなことを望んでもいないし、むしろ、そういうドラマチックな逆転劇を生理的に忌み嫌っているものと思われます。

ただ、主張としても、書証としても、圧倒的に不利に立たされた当事者としては、そういう状況は受け入れるわけにはいけません。

一見、きれいに整ったストーリーや文書の裏側に、これを覆す状況や背景を見つけ出そうと躍起になります。これを反対尋問で、しんねりこんねり、突きまくるわけです。

これに対して、裁判所は、
「訴訟経済」
すなわち
「予断と偏見」
を以て、事件の方向性を決めて尋問に臨んでいる可能性が高く(というかほとんどこういう前提状況であり)、よほどの例外的事態でもない限り、
「書証の面で不利な当事者が、反対尋問等で粗探しをして、些細な矛盾や齟齬や破綻を見つけて、鬼の首を取ったかのように快哉を叫んだ」
という状況があったとしても、裁判所としては、当初の方向性を変えることは少ないです。

結果、証人尋問で、(主に依頼者向けの)派手なパフォーマンスで、一見すると反対尋問で相手をやり込めたような状況があったとしても、
「(些細な破綻や矛盾や齟齬はあったが)書証を覆すほどのものではない」
として、尋問前にすでに決定している態度を変えることがない、というのが民事裁判の現場で起こり得べき現実の状況なのです。

いずれにせよ、
舞台設定としてもギャラリーが皆無で地味ですし、
訴えかける裁判官自体が勝敗を決めてしまっていてしかも冷めていますし、
弁護士が反対尋問で大声で威嚇したり、
さらに相手の弁護士がこれに対する異議を出したりしても、
裁判官としても、つまらんケンカを見ているようにやる気なさげで面倒くさそうにたしなめるだけ、
張り切っているのは、弁護士と証人だけ、
という感じで、全体的になんとも空疎で、気だるく、結論がほとんど変わらない、負けそうな側のガス抜きと裁判所の
「手抜き」批判
を交わすための、無意味なセレモニー、というのが民事証人尋問の実像です(とはいえ、優勢の当事者としても、あまりにいい加減なことをしていると、旧司法試験や司法試験予備試験で最後の口述試験で落とされてしまうようなドジを踏むが如く、証人が重要かつ不利な話をはじめて暴走し、突然、状況が一変するような流れになる可能性もあるので、消極的確認手続きとはいえ、おちおち手を抜くこともできませんが)。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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00650_合弁事業(ジョイントベンチャー、あるいはジョイベン)を行う合弁会社において、マイノリティシェア(株式割合半数未満)しか掌握できない場合の自衛措置の概要

合弁事業(ジョイントベンチャー、あるいはジョイベン)を行う合弁会社において、マイノリティシェア(株式割合半数未満)しか掌握できない場合に、合弁事業で後から泣きをみないためには、まず、合弁事業体の組織形態の選択からよく検討すべきです。

合弁事業体の組織形態として深く考えず
「とりあえず」
という形で株式会社が選択されますが、この辺りの思い込みから見直すべきといえます。

例えば、組合形態であれば、組合持ち分の譲渡は他の組合員の同意なしに行うことは困難ですし、単純な多数決原理ではなく、十分な議論を経た合意形成が重んじられます。

また、合同会社という選択もあり得ます。

すなわち、合同会社は、出資者は株式会社同様、有限責任しか負いませんが、法人統治は組合のような閉鎖的規律で運営されますし、また、出資者の交替には全出資者の了解を要し、加えて、合同会社の業務執行権は原則として全出資者が有します。

このように、有限責任のメリットを享受しながら、複数の企業が互いに他方の独断や横暴を防止し、納得と合意に基づいて合弁事業を運営したい場合、合同会社は非常に理想的な組織選択と言えるのです。

また、仮に、合弁法人として株式会社を選択するような場合でも、まずはマジョリティーシェアを要求すべきです。

「マジョリティーシェアが取れない場合まら、合弁事業を止める」
といって駄々をこねたり、ブラフをかますのも、道義上・倫理上はともかく、法律上・戦略上としては、全然アリです。

とはいえ、合弁相手とのサイズの問題、バーゲニングパワーの問題等で、どうしてもマジョリティーシェアを取れない場合は、合弁契約の内容において自らの権益を具体化し、マジョリティーシェアを掌握したパートナー企業の横暴を許さないようにしておくべきです。

さらに、自社がマジョリティーシェアを取れない場合、合弁会社が自らの関与なしでは身動きできないようにする、契約外の状況構築や非法律的な制御方法も考えるべきです。

例えば(ほんの一例ですが)、自社が合弁会社における調達や販売の排他的窓口となって合弁会社の商流を完全に掌握しておいて、相手先企業が不穏な動きをしようとすれば直ちに商流を制限するとか、商標権を自己名義で登録して合弁会社に貸与する形をとっておき、多数派のパートナーが不当なことを要求してきた場合には、報復措置として商標ライセンスを停止しつつ解決の糸口をつかむ、といった方法です。

中国の易経に
「治にあって乱を忘れず(治而不忘乱)」
という言葉がありますが、
「リスクの高い事業を、打算と欲得だけで結ばれた関係で、見知らぬ相手と一緒に遂行する」
という合弁事業の本質をふまえ、リスクシナリオをしっかり描き、後で泣きをみないように十分な予防策を講じておくべきです。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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00649_合弁事業(ジョイントベンチャー、あるいはジョイベン)を行う合弁会社において、マイノリティシェア(株式割合半数未満)しか掌握できない場合の自衛措置の必要性・重要性

一般論としては
「合弁契約が曖昧なものではダメ」
ということが言えますが、マジョリティーシェア(50%超の株式割合)を有するのであれば、当該合弁パートナーサイドは、合弁契約が雑な内容であることを気に病む必要はありません。

すなわち、合弁契約が粗雑、曖昧、無内容な場合であっても、それで合弁会社(株式会社)の運営が不可能になるわけではなく、単に会社法が適用されるだけだからです。

そして、会社法においては、株主同士の意見対立は単純な多数決原理で決せられることになります。

要するに、意見対立が起こった場合、いかに少数派が筋の通った主張をしようが、多数決を握る側の意見がすべて通ることになります。

例えば、
「自己の持ち分を無断で第三者に売り飛ばし、合弁契約の遵守を売却先に求めず、トンズラする」
という合弁パートナーの行動は決してお行儀がいいとは言えませんが
「契約上『やっていけない』と明記されていないことは、すべてこちらの自由。多数決原理に従って利己的に行動して何が悪い!」
という主張は、道義上・倫理上はともかく、法律上・戦略上は極めて正しく、結果として、マイノリティシェアしか持たない合弁当事者が何を言っても、相手に責任追及することは困難と考えられます。

逆に言えば、少数派株主として合弁参加する側としては、合弁をはじめる前に、多数派株主たる合弁相手のこの種の横暴を防止すべく
「株式を無断で譲渡することの禁止」
「株式を譲渡する場合における合弁相手側の先買権(First Refusal Right)」
「違反の場合のペナルティ」
等といった措置を、合弁契約においてきっちりと定めるべき、ということになります。

そのような予防措置・自衛措置を怠った場合、残念ながら、マイノリティシェアしか持たない合弁当事者は、
「多数決原理の前では、壊滅的に非力なマイノリティー」
と言うほかなく、自業自得・自己責任・因果応報の理として、多数株式を掌握した合弁当事者が横暴に振る舞い、合弁会社を単独で支配して好き勝手をする事態を指をくわえて見ているほかありません。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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00648_合弁事業(ジョイントベンチャー、あるいはジョイベン)を行う上での法的リスクと予防・排除の基本(合弁契約作成の基本的方向性)

合弁事業については、例として適切とはいえませんが、犯罪も事業も、リスクのある行為を行うという点では同じなので、アナロジーとして、共犯事例を使って、解説します。

一般的に、共犯におよぶ場合、2人以上の者が、共同して犯罪を実行する意思を形成し、犯罪実現に向けて共同するという
「相互利用補充関係」
が形成されることで、単独犯の場合より犯罪成功の確率が高まると言われています。

例えば、1人でセキュリティのしっかりした銀行に対して強盗で押し入ろうとすると、準備や段取りが大変となり、また、脅している間に、多数の行員や警備員に反撃されて取り押さえられたり、あるいは、大量の現金をトロトロ持ち運んでいる間に捕まったり、と成功確率が大きく下がります。

他方で、映画
「オーシャンズ11」シリーズ
等をみても明らかなとおり、計画を練る人間、計画予算を調達する人間、カネを出す人間、セキュリティを破る人間、計画を実行する人間、カネを運ぶ人間、逃走を助ける人間と役割分担を行えば、準備や段取りもスムーズになって計画実現までの時間が大いに短縮されるほか、1人で計画・実行する場合に比べて成功確率は格段に向上します。

合弁事業であれ、共犯であれ、合理的思考の帰結として
「徒党を組んで、役割分担し、リスク分散し、全体成功率を高める」
という同様の選択を行うことは、十分うなずけます。

他方で、事業であれ犯罪であれ、誰かと共同で
「リスクがあるが、成功した場合の旨味もあるプロジェクト」
を行う場合、一人で行う場合とは違ったリスクも浮上します。

共犯の例を使って説明すると、共犯形態でリスクの高い犯罪を実行する場合、役割分担や犯行道具の準備の分担等の取り決めも大切ですが、決め事としてより大切なのは、途中で犯罪が発覚した場合の逃走ルートの確認や、誰かが捕まった場合の弁解のシナリオや、仲間割れをした場合の紛争の解決方法等
「ウマくいかなかったケースの想定と、対処の取り決め」
です。

そして、この理は、合弁事業の法的リスクの予防、すなわち合弁契約作成の際にも当てはまります。

すなわち、合弁契約においては、
事業立ち上げまでの役割分担設計が想定と違った場合における追加資源動員の責任分担、
事業の赤字が続いた場合の追加投融資の責任分担や、
出資企業が脱退したくなった場合の処置、
企業運営において意見の対立が生じた場合の打開方法等、
不愉快な事態をより多く想定し、その際の解決のルールをきちんと取り決めておくことが重要となります。

しかしながら、破綻したときや仲が悪くなったときのことを細かく取り決めようとすると、伝統的日本企業の悪しき思考習性として
「これから成功を夢見て仲良く一緒にやっていこうというときに、水を差すような無粋なことをするな」
等と非難されて、法務セクションや顧問弁護士のアドバイスは無視され、合弁契約は極めて曖昧で無内容なものになってしまいがちです。

その結果、現実に合弁事業の破綻やパートナー間の深刻な意見対立等が生じた場合、お互い曖昧な内容の契約書を手に取って、長期間の不毛な裁判を争うことになることが多くなるのです。

他者と良好な関係を構築するためにもっとも必要な前提は?

相手を信頼すること?

違います。

他者と良好な関係を構築するためにもっとも必要な前提は、
「トコトン相手を信用しないこと」
です。

ケンカをするなら、早い方がいいです。

最初に波風を立てておかないと、後から津波が襲いかかります。

共犯形態での犯罪遂行であれ、合弁事業によるビジネス展開であれ、相手のキャラクターや信頼度が成功の決め手になります。

共犯形態での犯罪サスペンスを描いた映画やドラマで、犯人が失敗するパターンとしては、昨日今日知りあったばかりで、人間性をよく理解していない人間とチームを組んでしまい、パートナーがドジを踏んだり、裏切ったりして、捕まる、というのがお決まりのパターンです。

他方で、家族で犯罪を行う場合や、兄弟で犯罪を行う場合、ルパン三世のチームのように古くからの知り合いで共犯を形成する場合は、わりと成功確率が高くなります。

合弁事業も同様であり、古くから商流の接点があり、お付き合いがあるようなところと合弁をする場合は成功確率が高くなります。

とはいえ、古くからお付き合いがあり、信頼できる相手であっても、未経験の事業をリスクとダメージを背負い込みながら共同で行う、といった負荷のかかる状況においては、別の人間性が露見して、いがみ合うことになるかもしれません。

ましてや、知り合って日が浅く、欲得や打算だけで、共同事業を描いたような相手と合弁事業を行う場合、相当警戒と保守的思想で、リスクに関するストレステストをしっかり行い、判明したリスクに対する予防措置を行っておかないと、ちょっとした想定外の事態で、いとも簡単に関係は瓦解します。

そして、関係が瓦解する際には、必ず、壮大な時間とコストとエネルギーを費消する、仁義なき法的紛争が待ち構えております。

「トコトン相手を信用しない」
という思考前提で、
うまくいくまでの資源動員の押し付けあい、
必要な準備や段取りのサボタージュ、
うまく行かなかった場合の責任のなすりつけあいや、
うまく行った場合の成果配分をめぐる仲間割れ
等、ありとあらゆる不愉快な想定を、なるべく早期に、なるべく具体的に行い、これを
「ミエル化、カタチ化、具体化、文書化」
した上で、契約書にどんどん盛り込みあるいは上書きしていく。

これが、合弁事業のリスクを予防するために行う
「合弁契約」
という企業法務的営みの本質です。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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00647_合弁事業(ジョイントベンチャー、あるいはジョイベン)を行う上での法的枠組

合弁事業を行う際、どのような法的枠組みを使って、この経済的プロジェクトを具体化・現実化させていくのでしょうか?

民法上の組合(パートナーシップ)や有限責任事業組合(LLP)といった組合の形式や、合同会社(LLP)と言われる特殊な法人を作る場合もありますが、一般的に用いられる(圧倒的に多くの)合弁事業の運営主体は、株式会社です。

多くの合弁事業法人が株式会社という組織形態を選択される理由ですが、これは深い思考の結果というよりも
「株式会社という事業組織が一般的で馴染みがあり、統治秩序もイメージしやすく、また、他の組織形態のことを勉強するのが面倒だから」
ということのようです。

そして、合弁事業を行う会社(パートナー企業)それぞれが、合意した割合での出資を行うことによって新たな株式会社(合弁会社)を設立し、出資者の間で出資比率や企業運営の具体的方法(どの会社が何人の役員を送り込むか)等を取り決め
「合弁契約」
として書面化して、事業を開始します。

要するに、2つの会社(3つでも4つでもいいのですが)が新たな事業を構想して共同で推進する場合、当該事業を担わせるために両社のDNAを併せ持つ
「子供」
を新たに産み落とし、その
「両社の信頼の結晶たる子供」
に各会社の経営資源(ヒト、モノ、カネ、チエ、コネ等)を注入し、合弁事業を担わせる、という仕組みです。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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00646_合弁事業(ジョイントベンチャー、あるいはジョイベン)を行う経済的動機・背景

合弁事業(“Joint Venture”略して「ジョイベン」などと呼ばれる)とは、2社以上の会社が共同で経営資源を持ち寄り、1つの事業を立ち上げることをいいます。

企業が合弁事業を行うのにはいくつか理由がありますが、その大きな理由の1つとしては、リスクの分散が挙げられます。

特に、規模が大きく新しい事業を立ち上げようとする場合、企業にはさまざまなリスクを負担しなければなりません。

自分の不得手な事業分野や土地勘のない分野で勝負する場合や、進出事業分野に適合した経営資源が自分の手元になく新たに調達しなければならない場合、単独で新しい事業を立ち上げるには、大きなリスクが生じます。

そこで、複数の企業がお互いの強みを持ち寄り、あるいは弱点を補う形で事業を立ち上げ、リスクを分散すれば、事業の成功の確度も格段に上がることになる、という算段の下に、共同事業をやろうということになるわけです。

これは、犯罪を行う場合も同じ理屈があてはまります。

一般的に、共犯におよぶ場合、2人以上の者が、共同して犯罪を実行する意思を形成し、犯罪実現に向けて共同するという
「相互利用補充関係」
が形成されることで、単独犯の場合より犯罪成功の確率が高まるといわれています。

例として適切とはいえませんが、犯罪も事業も、リスクのある行為を行うという点では同じです。

合理的思考の帰結として
「徒党を組んで、役割分担し、リスク分散し、全体成功率を高める」
という同様の選択を行うこともうなずけます。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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00645_企業法務ケーススタディ(No.0223):債権管理・回収ってどうすりゃいいの!

本ケーススタディの詳細は、日経BizGate誌上に連載しました 経営トップのための”法律オンチ”脱却講座 シリーズのケース30:債権管理・回収ってどうすりゃいいの!をご覧ください。

相談者プロフィール:
眉田企画株式会社 代表取締役社長 眉田 豊代子(まゆた とよこ、42歳)

相談概要:
相談者の会社では、代金回収の際トラブルが頻発し、 今年に入って営業マンが10人も辞めていきました。
ノルマがきついうえ、注文取りと代金回収が同じ営業が行っていることに問題がありそうです。
以上の詳細は、ケース30:債権管理・回収ってどうすりゃいいの!【事例紹介編】をご覧ください。

本相談を検討する際の考慮すべき法律上の問題点1: 債権の管理・回収という仕事
比較的小額の商品を取引対象とする消費者向けのビジネス(BtoC)においては、馴染み客が売り掛けやツケで飲み食いするような場合を除き、ほとんどが物やサービスと代金が交換されますので、債権管理や回収を明確に意識しなくてもビジネスは運営できます。
他方で、企業間取引(BtoB)や高額な物やサービスの取引、さらには売る側が弱い立場にあったり、あるいは売掛リスクよりビジネス拡張を重視して営業をかけるような場合は、物やサービスを提供した側(売り主やサービス提供者)は、提供した時点では代金ではなく債権、すなわち、
「支払い約束」
あるいは
「買い主から支払いをしてもらえる権利」
を受け取り、決められた期限に
「債権弁済」
あるいは
「支払い約束を履行」
してもらう形で、現実のお金を受け取る、という二段階のプロセスを経ることになります。
債権が現金に変わるまでの間、不安と危険を感じながらフォローとケアをするプロセスが、債権管理・回収といわれる業務の本質です。
以上の詳細は、ケース30:債権管理・回収ってどうすりゃいいの!【債権の管理・回収という仕事】をご覧ください。

本相談を検討する際の考慮すべき法律上の問題点2:「ビジネスマター」から「リーガルマター」へ
債権支払の期限が遅れたり支払額が十分でなかったりした場合は、一旦
「延滞事故」
とし、その上で、改善されるようなレベルなのか、あるいは、契約紛争や回収事件や回収不能状態になったのか、を見極めることになります(債権管理)。
合理的期間内に自主的に回収が困難となった場合は、法律や裁判やこれらを駆使し得る社内外の専門家(社内弁護士や顧問弁護士等)の協力を得て、強制的に回収する方策を企画し、
「債権を現金に変質させる」
業務に移行します(債権回収)。
以上の詳細は、ケース30:債権管理・回収ってどうすりゃいいの!【「ビジネスマター」から「リーガルマター」へ】をご覧ください。

本相談を検討する際の考慮すべき法律上の問題点3:回収専門部門の設置を
「購入を依頼する立場の営業部門」
が、ある時(支払事故)を境に当該取引先に対し厳しい取り立てを行うのは、営業担当者に心理面で大きなストレスを与えます。
推奨されるのは、債権の管理・回収は営業部門とは異なる回収専門の部署(総務部等、他部署との兼任でもかまいません)を設置することです。
以上の詳細は、ケース30:債権管理・回収ってどうすりゃいいの!【回収専門部門の設置を】をご覧ください。

モデル助言:
社長直轄の債権管理・回収部門を設置してはどうでしょうか? 
法務、総務、経理といった間接部門の方に兼務させてもいいでしょう。
営業マンは営業に専念し、塩対応が得意な人は塩対応に徹し、事件になったら弁護士に依頼する、こういうシステマティックな処理プロセスをきちんと整備すると、客の方も諦めて払ってくれるかもしれませんね。
以上の詳細は、ケース30:債権管理・回収ってどうすりゃいいの!【今回の経営者・眉田社長への処方箋】をご覧ください。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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