01731_企業が行うべき最新ネット風評対策_(1)序:企業活動に対して有害に作用するネットメディアの負の側面

ネットメディアの急速な発達は、情報の流通のあり方や、流通スピード(拡散スピード)自体を格段に向上させる、という
「革命」
を起こしました。

他方、ネットメディアには、負の側面も否めません。

企業に対する悪評が、ネットメディアを通じて伝達された場合、低コスト・高パフォーマンスで、従来では考えられない時間的・地理的範囲において拡散し、しかも、修正・訂正・削除が事実上不可能である、という意味において、ネットメディアは
「信用を基礎として展開する企業活動にとって悪夢」
となり得ます。

裁判手続きは、時代遅れといっていいほど時間、費用がかかる手続きであり、現代のネットメディア環境とはまったく対応できていないし、言ってみれば
「役立たず」
でしかありません。

本シリーズでは、企業が被害者となるネット上の風評被害対策として、
「時代遅れで、役立たず」
の裁判に依拠する方法ではなく、対抗言論、第三者委員会の活用といった、効果的な方法を紹介していきたい、と思います。

※運営管理専用※

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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01730_訴訟で”必敗”してしまうクライアントの偏向的思考と習性:バカで、幼稚で、怠惰で、外罰的で、傲慢で、ケチなクライアントは訴訟で決して勝てない_(7・終)どうやったら、訴訟で必敗せずに済むのか

では、どうすれば、当事者・クライアントとして、訴訟で必敗せずに済むのでしょうか?

以上みてきた
「バカで、幼稚で、怠惰で、外罰的で、傲慢で、ケチなクライアント・当事者」
とは真逆の当事者・クライアント、すなわち、
「賢く、成熟して、誠実で、八つ当たりせず、謙虚で、 カネに糸目をつけない(財布を気にするなら、最初から訴訟沙汰しないようにうまいこと持っていく程度の知能をもつ)クライアント・当事者」
になればいいだけです。

具体的に言いますと、以下のとおりとなります。

1 賢いクライアント・当事者

賢いクライアントというのは、
「裁判で適用されるロジックやルール」
すなわち、
「裁判におけるゼネラル・ルール」=マクロ的で普遍的な裁判ゲームのロジック・ルール 、
「裁判におけるローカル・ルール」=ミクロ的でスペシフィックな裁判ゲームのロジック・ルール
という二重構造のゲームのロジック・ルールをきちんと理解把握できているクライアントです。

そして、後者、
「裁判におけるローカル・ルール」=ミクロ的でスペシフィックなゲームのロジック・ルール 、
こそが、訴訟の帰趨を決定づけるほど重要です。

ただ、 当該ゲームロジック・ルールについては、
「単純に総括して、2800もの『専制君主国家の独裁君主』がいて、それぞれ群雄割拠よろしく、独自のゲームのロジック・ルールを定めて運用しており、目の前の『専制君主国家の独裁君主』様のロジック・ルール(感受性・経験則)に照らして、『“自分として必要かつ十分と考えている、話の説得性(スジ)と、それを示す痕跡(証拠)と、求める帰結の妥当性(スワリ)”が、果たして、受け容れられているか、拒絶されているか』は、実際、裁判官にぶつけてみて、帰納的に把握するほかない」
という、ともすれば
「いい加減でデタラメにすら思える」
過酷で残酷で不愉快な現実を異議なく受け入れることができるのが、賢いクライアントです。

もちろん、このことを自分で勉強して、知る必要はありません。

まともな弁護士であれば、上記をきっちり、はっきり、くっきり理解して、バカにでも判るくらい噛み砕いて説明できるはずですから、弁護士からそのような説明を受けたら、素直に受け入れればいいだけです。

それをできるのが、賢いクライアントです。

ただ、上記のようなゲームのロジックやルールをあまりよく判っていない弁護士、というのがいるかもしれません。

そのようなよく判っていない弁護士を敬して遠ざけ、
「ゲームのロジックやルールの理解」
という点でもう少しマシな弁護士にたどり着けるコネがあることを前提に、当該マシな弁護士を見つけ出せる程度の
「人を見る目」がある、
というのも、賢いクライアントが実装すべき知見である、といえます。

2 成熟した知性をもつクライアント・当事者

成熟した知性を持つクライアントとは、
「裁判所は、『真実と正義を愛し、悪やウソを憎み、明敏なる知性をもって、真実を発見し、正当な解決をもたらしてくれる弱者の味方であり、被害者たる当事者にとって、証拠がなくとも、理性と常識を働かして、相手が企図する嘘偽りを見破り、自分を救済してくれる、優しく、正しく、間違わず、心強く、無条件・無制限に信頼することができる、父や母のような存在』」
という幼稚な見方(「大岡越前守・遠山金四郎的裁判所観」)を愚説として斥け、
「裁判所は、現実に発生した事実とは関係なく、証拠と法律のほか、スジとスワリという独特のロジックやルールを通じて、再構成したストーリー(事実とは異なる仮説、虚説)に基づき、憲法により付与された独裁的権力を用いて、権力的に物事を決めつけ、解決する役所であり、証拠もなく、法律的にも分が悪い事案で、一般的なスジやスワリとも乖離するようなものであれば、過大な期待をしても難しい」
という見方(「ただの権力的な役所としての裁判所観」)を堅持できる程度の成熟性をもったクライアントです。

そして、自己中心的・天動説的なメンタリティではなく、
「裁判というゲームを支配するのは、司法権という圧倒的権力と裁量をもち、神の如き絶対性をもつ存在で、民主体制下の日本にあって『専制君主国家の独裁君主』として君臨する裁判官である」
という厳然たる現実を所与とし、
「担当裁判官の常識・経験則・感受性」を太陽とする、
「地動説」的な思考転換
によって、裁判官の有するロジックやルールと感受性に併せて、自分のプレゼン内容を最適化して、当たり前のように、媚びへつらうことができる、
本当の大人が、成熟した知性をもつクライアント、といえます。

3 誠実なクライアント・当事者

(1)言いたいことが、法的・論理的に再構成・再構築されていること
(2)「証明可能な事実」と「反証不能な論理」だけを使って言いたいことを表現すること
(3)言いたいことをしびれるくらいわかりやすく「ミエル化・カタチ化・言語化・文書化」すること

という訴訟におけるプレゼンの厳しい制約をふまえ、
誠実かつ堅実に、訴訟遂行を行える(=そのような訴訟遂行スキルをもつ弁護士を探し当て、当該弁護士の指示にしたがって、課された宿題を真面目に取り組むことのできる)クライアントが、誠実なクライアント、ということになります。

4 八つ当たりしないクライアント・当事者

八つ当たりしないクライアントとは、そもそもの前提として、

・訴訟という営みは、選択や決定の連鎖で成り立つ壮大な試行錯誤であること
・「『選択の帰結に利害を有する唯一無二の当事者』であるクライアント」には、「自己責任・自業自得・因果応報」の前提で、誰に八つ当たりすることもなく、選択と決定という過酷な役割・責任を果たすことが求められること

をはっきり、くっきり理解し、

・弁護士に任せきりになって、当事者としての役割・責任を放擲することもなく
・「俺は正解・定石を知っている。プロである俺に全て任せろ。俺に任せれば全てうまく行く」と息巻く、訴訟という営みの本質をよく判っていない弁護士を敬して遠ざけ

「当事者・クライアントにのみ、ひしひしとのしかかり、誰にも転嫁できない義務と責任と役割」
である各選択局面について、真剣に、果断に、選択・決定し、その結果の責任を誰にも転嫁しないようなクライアントをいいます。

5 謙虚なクライアント・当事者

謙虚なクライアントとは、知性と成熟性を備え、メタ認知(自己客観視、俯瞰認知)出来、展開予測能力に優れ、思考柔軟性があり、情緒が安定し、何より精神的冗長性(余裕)があるクライアントのことです。

そして、謙虚なクライアントは、
「憲法によって与えられた、『専制君主国家の独裁君主』並の権力と裁量をもつ裁判官の法と良心」を太陽とする「天動説」(以下、「担当裁判官が天動説的に抱いている常識・価値観・経験則・法解釈」)
が裁判におけるすべての中心であり、裁判に関与する者すべてが、この
「担当裁判官が天動説的に抱いている常識・価値観・経験則・法解釈」
にひれ伏すことが強制される、という現実を、二義を容れずに理解し、納得することができます。

6 カネに糸目をつけない(財布を気にするなら、最初から訴訟沙汰しないようにうまいこと持っていく程度の知能をもつ)クライアント・当事者

最後に、カネに糸目をつけない(財布を気にするなら、最初から訴訟沙汰しないようにうまいこと持っていく程度の知能をもつ)クライアントは、

訴訟に勝つのは、正しい方、真実を語っている方ではなく、訴訟という
「壮大な資源動員合戦・泥沼化する消耗戦」
を勝ち抜くコスト負担・資源動員負担に耐えられる側である、

という過酷な現実をわきまえているクライアントです。

万が一、コスパの最悪な訴訟という営みにエンゲージを余儀なくされるとしても、

{「純経済的な勝訴期待値」 +「『クライアントの尊厳や体面やアイデンティティ』や『クライアント個人としての内部人格均衡ないし情緒安定性』や、『クライアント法人としての組織内部統制秩序に対して、不可逆的な混乱・破壊・崩壊をもたらさないための組織防衛上の定性的価値』」} > 「全動員資源に関する総コスト」

などという形で訴訟の目的を再定義・再構築することで、
「訴訟のコスパ」
をめぐる議論の混乱や内部の経済合理性の疑義にまつわる動揺を沈静化させることができる、
というクライアントです。

もちろん、財布を気にするなら、最初から訴訟沙汰しないようにうまいこと持っていく程度の知能をもつ、という経済合理性をもつクライアントも、カネに糸目をつけないクライアント同様、訴訟に負けることはありません(というか、そもそも訴訟の前に解決してしまうので)。

7 総括

なお、
「賢く、成熟して、誠実で、八つ当たりせず、謙虚で、 カネに糸目をつけない(財布を気にするなら、最初から訴訟沙汰しないようにうまいこと持っていく程度の知能をもつ)クライアント・当事者」
であれば、そもそも、

というリテラシーを実装しており、訴訟のはるか手前で示談にしたり、さらには、紛争を明確かつ具体的に予知して、予防法務上の手を打って、契約でリスク対処を上書きしてリスクそのものを消失させているはずであり、訴訟なんて鈍臭い状況に陥らないわけですが。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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01729_訴訟で”必敗”してしまうクライアントの偏向的思考と習性:バカで、幼稚で、怠惰で、外罰的で、傲慢で、ケチなクライアントは訴訟で決して勝てない_(6)ケチなクライアント

1 壮大な資源動員合戦・消耗戦の様相を呈する訴訟

あまり議論されていない点で、そのため、かなりの誤解があるのですが、訴訟はかなりのコストがかかります。

そして、訴訟に勝つのは、正しい方、真実を語っている方ではなく、訴訟という
「壮大な資源動員合戦・消耗戦」
を勝ち抜くコスト負担・資源動員負担に耐えられる側、ということになります。

この点については、下記をご覧いただければ、ある程度理解できるかと思います。

引用開始==========================>
(前略)
それなりの成果が出るように、真面目にやるとなると、気の遠くなるようなコストと手間暇がかかるのです。
無論、弁護士費用や裁判所の利用代金(印紙代)もかかりますが、この外部化されたコストは、費消される資源のほんの一部にしか過ぎません。
実際、訴訟を起こすとなると、原被告間において生じたトラブルにまつわる事実経緯を、状況をまったく知らない第三者である裁判所に、しびれるくらい明確に、かつ、わかりやすく、しかも客観的な痕跡を添えて、しっかりと説明する必要があります。
(中略)

前提としての体験事実の言語化・文書化
なお、「客観的なものとして言語化された体験事実を、さらに整理体系化し、文書化された資料が整えることが、裁判制度を利用するにあたって、絶対的に必要な前提」ということについてですが、事実経緯を、記憶喚起・復元・再現し、これを言語化し、記録化し、文書化する、となると、どえらい時間とエネルギーが必要になります。
(中略)
スケジュールを確認し、前後の予定や行動履歴を、メールや通話記録をみながら、記憶の中で復元していき、手元の領収書や店への問い合わせや店が保管している記録を前提に、一定の時間と労力を投入すれば、状況を相当程度再現していくことは可能であり、さらに時間と労力を投入すれば、これを記録として文書化することもできなくはありません。
(中略)
すなわち、「がんばって5日前の昼飯のこと、思い出せ。思い出して、文書化できたら30万円あげる」と言われたら、ヒマでやることないし、あるいは期限や他の予定との兼ね合いをみながら、少し小遣いに困っているなら、その話を受けるかも、という感覚です。
このような言い方をすると、「でもそれって弁護士さんがやってくれるんじゃないの?」というツッコミが入りそうですが、それは弁護士と当事者の役割分担の誤解です。
弁護士は、事件の当事者ではなく、事件に携わったわけでも体験したわけでもないので、事件にまつわる経緯を語ることはできません。
無論、事件経緯を示す痕跡としてどのようなものがどこにあるか、ということも、直接的かつ具体的に知っているわけではありません。
弁護士は、そのあたりのストーリーを適当に創作したりでっち上げたりすることはできません。
たまに、依頼者から「思い出したりするの面倒なんで、先生、その辺のところ、適当に書いといて」という懇請に負けて、弁護士が適当な話を作って裁判所に提出してしまうような事例もたまにあるように聞きます。
しかし、こんないい加減なことをやったところで、結局、裁判の進行の過程で、相手方や裁判所からの厳しいツッコミを誘発し、ストーリーが矛盾したり破綻したりしていることが明確な痕跡(証拠)をもって指摘され、サンドバッグ状態になり、裁判続行が不能に陥りかねません(「証人尋問すらされることなく、主張整理段階で、結審して、敗訴」というお粗末な結論に至る裁判はたいていそのような背景がある、と推察されます)。
弁護士は、「記憶喚起・復元・再現し、これを言語化し、記録化し、ある程度文書化された依頼者の、事件にまつわる全体験事実」(ファクトレポート)から、依頼者が求める権利や法的立場を基礎づけるストーリー(メインの事実)ないしエピソード(副次的・背景的事情)を抽出し、こちらの手元にある痕跡(証拠)や相手方が手元に有すると推測される痕跡(証拠)を想定しながら、破綻のない形で、裁判所に提出し、より有利なリングを設営して、試合を有利に運べるお膳立てをすることが主たる役割として担います。
いずれにせよ、真剣かつ誠実に裁判を遂行しようとすると、「弁護士費用や裁判所利用料としての印紙代という外部化客観化されたコスト」以外に、気の遠くなるような資源を動員して、クライアントサイドにおいて、「事実経緯を、記憶喚起・復元・再現し、これを言語化し、記録化し、文書化する」という作業を貫徹することが要求されます。

<==========================引用終了

要するに、訴訟に勝つのは、
・カネがあり、かつ
・カネに糸目をつけない
という側の当事者です。

これは、
「1万円札を10万円で買うくらいの気概を持たないと、訴訟を勝つ以前に戦い抜くことができない」
という極めて不愉快な事実を意味します。

ちなみに、
「カネがある」
という事と、
「カネに糸目をつけない」
という事とは、まったくの別事象です。

「カネはあっても、カネをケチる」
というタイプの当事者・クライアントも世の中には結構な割合で存在するからです。

このあたりの状況は、
「金持ちの分類・特徴・生態・習性・偏向」
にまとめてありますので、これをみれば、
「金持ちのほぼすべては、どケチである(※私も『ケチっぷり』では人後に落ちないので、褒め言葉です)」
という社会現実がご理解いただけるかと存じます。

2 訴訟のコスパを正常化させるための、訴訟の目的の再定義・再構築

例えば、債務不履行を理由として1000万円の損害賠償を求める、という事例を仮定します。

この営みを実践するために、コストのかかる弁護士を数名動員し、また、過去の曖昧な話を「ミエル化・カタチ化・言語化・文書化・フォーマル化」し、また話を根拠付ける動かぬ証拠を探し出して時系列に整理する、という企業内部の資源動員のため、総額で2000万円かかるとします。

しかし、この請求を法的に成立させる前提として、

1)言い分のミエル化・カタチ化・言語化・文書化・フォーマル化として、
(1)特定の約束をしたことと、
(2)その約束に背いたことと、
(3)当該約束違反が違法であり、
(4)約束違反に基づき特定かつ具体的な損害が発生し、
(5)その損害を数額として算定評価して、金1000万円を優に超える、
という各事実を具体的に主張し、
2)その主張をしびれるくらい明確に基礎づける根拠を提示し、さらに、
3)「そんなのウソだ」「FAKEだ」「誇張に過ぎる」「話がオーバー」といった相手方の反論を乗り越え、
4)何を考えてるか不明ながら強力な権限と裁量をもち、ブレまくる裁判所に、しびれるくらいしっかりと確信させる、というプレゼンを準備して、
5)当該プレゼンをしっかり、きっちり披瀝して裁判官のハートをガッチリ掴む

という形でプレゼンを大成功させる必要があります。

加えて、1000万円といっても、すべてうまく行った場合の話であって、
「担当裁判官が天動説的に抱いている常識・価値観・経験則・法解釈」
によって個々の裁判官毎にブレまくる
「当該裁判のローカル・ルール」
が不利な方向で発動する蓋然性も踏まえると、どんなに主張に正当性があり、確実な証拠が手元にあっても、現実的な期待値としては、700万円程度と考えられる、としましょうか。

700万円の期待値に対して、2000万円のコストを負担するとなると、単純に考えれば
「1万円札を3万円で買う」ような話
であり、明らかに馬鹿げています。

カネのある無しとか、ケチとかシブチン以前の問題として、経済合理性判断として、明らかに狂っています。

この
「訴訟というプロジェクト」
の経済合理性について、正常化させるための論理を構築しておかないと、

・「天動説的な幼児性精神構造を持つトップが独善的にもつ、『自己の常識や良識や哲学や価値観』という一種の『偏見』」の優位性・正当性を実証することを通じて「オーナー経営者の意地や沽券やメンツ」のために奉仕する、という目的だけだと、あまりにバカバカしくて誰もついて来なくなるでしょうし(表向きは真剣に協力するでしょうが)、また、
・弁護士としても「700万円のために2000万円かかりましたが、勝ったことは勝ったので、成功報酬として130万円ほどいただけますか」と言いだしたら、怒り狂ったクライアントに首を締められるかもしれませんし、さらに、
・上場企業などですと、株主総会において、「1000万円のために2000万円ものコストを費やしたのは善管注意義務違反だ」などと言われかねない、

といった状況に陥る危険があります。

したがって、単純に考えれば
「1万円札を3万円で買う」ような愚劣な話
を、正常化・正当化するようなロジックを整備しておく必要があります。

例えば、こんな説明ロジックです(筆者所属の弁護士法人が受任に際して確認する依頼者の意向表明です)。

引用開始==========================>
「本契約に基づく費用を含む本件処理対応のための総合的資源動員」を総合すると、「事件解決により得られるべき期待値」との比較においてマイナスになる経済的リスクを孕んでおり、ともすれば、「1万円を得るために5万円を投じる」類の危険性があることは、クライアントとして、十分な説明をし、強く、かつ明確に警戒を与えた。
加えて、「純粋に経済合理性を追求するのであれば、これ以上の埋没費用(サンクコスト)出捐を防ぐため、特段の対応を取らない」という選択もありうることを説明した。
しかし、クライアント側の意見ないしロジックとしては、
「『事件を放置することは、クライアントの尊厳や体面やアイデンティティが不可逆的に毀損され、クライアント個人としての内部人格均衡ないし情緒安定性や、クライアント法人としての組織内部統制秩序に対して、不可逆的な混乱・破壊・崩壊をもたらしかねず、また『やられてもやり返さないと、そういう組織ないし人間と見下され、以後、やられっぱなしにされたり、際限なき譲歩を迫られたりして、生存戦略上致命的な不利を被る』というより大きな損失を発生する危険が見込めるため、巨視的・長期的・総合的に熟慮の上、事件の成否に関わらず、事件単体の局所的経済不合理性があっても、弁護士費用をかけて事件を取り組むことそのものが、全体的・総合的・長期的に、十分な経済的メリットをもたらす』との理性的かつ合理的判断の下、クライアントが理解納得し、弁護士法人の強い警告や遠慮と謙抑からの忌避に関わらず、本費用の取り決めに基づく依頼を強く要請する」
というものであり、却って、クライアントから
「弁護士法人サイドにおいて、かような経済的均衡課題について慮り、口を差し挟むことは、一切不要であり、完全に放念されたし」
との強い表明がなされた。
以上のとおり、本契約に記載の各費用及び報酬の取り決めは、全てクライアントの一方的都合と事情に基づき、クライアント内部において経済性・合理性が十分検証されたものであり、他方、弁護士法人としては、本件受任を慫慂したものでも、求めたものでもなく、むしろ、
「受任に消極的・謙抑的であった弁護士法人に対して、クライアント側が『経済的に迷惑や損害を一切被らせず、また事後、態度を翻して、事件の成否による不経済等を法律上あるいは事実上も論難することは一切ないこと』を確約して、強く、かつ一方的に受任を求めたこと」
を起点として、徹頭徹尾クライアントの要望を反映し、具体化する観点で作成されたものである。
<==========================引用終了

要するに、「純経済的な勝訴期待値」だけ考えれば、

「純経済的勝訴期待値」<「全動員資源に関する総コスト」

となるかもしれないが、
「『クライアントの尊厳や体面やアイデンティティ』や『クライアント個人としての内部人格均衡ないし情緒安定性』や、『クライアント法人としての組織内部統制秩序に対して、不可逆的な混乱・破壊・崩壊をもたらさないための組織防衛上の定性的価値』」を含めて考えると、

{「純経済的な勝訴期待値」 +「『クライアントの尊厳や体面やアイデンティティ』や『クライアント個人としての内部人格均衡ないし情緒安定性』や、『クライアント法人としての組織内部統制秩序に対して、不可逆的な混乱・破壊・崩壊をもたらさないための組織防衛上の定性的価値』」} > 「全動員資源に関する総コスト」

として、訴訟の目的を再定義・再構築することで、前記のような
「訴訟のコスパ」
をめぐる議論の混乱や内部の経済合理的動揺を沈静化させることができるかもしれない、ということです。

3 訴訟のもう一つの目的・使い方

さらに、訴訟には、さらに別の目的あるいは使い方が浮上してきます。

例えば、
・訴えを提起する側が、動員資源を相当節約できる体制を維持できており(例えば、弁護士費用が安い、状況や記録が整備されていて、主張のミエル化・カタチ化・言語化・文書化・フォーマル化も、証拠の収集・整理・提出も簡単にこなせる)、
他方で、
・訴えられた相手側において、応訴するために、強烈に多大な動員資源を費消する(弁護士の稼働単価も、内部人件費も高額で、状況や記録も未整備で、主張のミエル化・カタチ化・言語化・文書化・フォーマル化や、証拠の収集・整理・提出も、凄まじく資源動員を要する)、
という関係性が看取できる場合、勝ち目がそれほどなくとも、あるいは、勝ち目がほぼなくても、訴訟を提起して、相手方を訴訟の場に引き込み、泥沼化させるだけで、相手方には、
「直面した『壮大な資源消耗戦ないし泥沼の消耗戦』に手を抜いたり、中途半端に対応した瞬間負けることになるので、これに真摯に対応せざるを得ず、そのためのコストや資源を投入し続けなければならない」
という意味ないし文脈において、凄まじいダメージを与えることが可能となる、という事実が浮かび上がってきます。

すなわち、たとえ、起こしてきた訴えがあまりにもデタラメで
「勝ち目がほぼない」
という状況であっても、放ったらかしにしておいたり、手抜きをしたら、
「専制君主国家の独裁君主」
並の権力と裁量を握持する裁判官の不興を被り、たちまち優位性を喪失して、勝ち目云々に関わらず、あれよあれよという間に訴訟に負けてしまいかねません。

そして、勝ち目があろうとなかろうと、(不当訴訟などと言われない程度ないし限度において)少しばかりの理由と根拠があれば、訴訟を提起できる、ということは、憲法が同法32条の裁判を受ける権利として、明確に保障しております。

この点、原告が、自然人でも法人でもなく、人格なき社団ですらなく、
「ウサギ」
を原告とした訴訟が提起されたことがあります。

ウサギが原告って、どうやって、本人尋問とかするのでしょうか?
というか、つれてきたウサギは、原告のウサギなのか、あるいは、別のウサギなのか、原告本人尋問なのか、証人尋問なのか、を明らかにするために必要かと思いますが、どうやって明確にするのでしょうか?
証人尋問でも原告本人尋問でもいいのですが、ウサギ語で質問するのでしょうか?
通訳はいるのでしょうか?
通訳は正しくウサギ語を通訳しているのでしょうか?
どうやって通訳の正確性を確認するのでしょうか?
原告ウサギが生息する奄美から東京地裁につれてくる過程で、ウサギが寂しくなって死んでしまわないでしょうか?
死んだら死んだで訴訟の受継とかどうやってやるんでしょうか?

とか、普通に考えたらいろいろツッコミどころがあるのですが、一応、訴訟が係属して、結構な長い時間、訴訟が行われたようです。

もちろん、結果は、却下となりましたが、こんな裁判だって、憲法32条の裁判を受ける権利が保障されている関係で、訴訟が提起できてしまうのです。

訴訟は当然のことながら自らの正当な権利を実現するために使われるべき手続ですが、以上の状況を前提とすれば、あくまで事実上・副次的なものですが、
「『キング・オブ・法律』の憲法が認めた、合法的嫌がらせ手段」
としての効果ないし機能も内包しており、副次的機能ないし効果に着目して
「相手にプレッシャーを与えるため」
「裁判外交渉では埒があかないので、相手を交渉の場に引きずり出すため」
「相手を壮大な資源動員合戦・泥沼の消耗戦に引きずり込み、これを回避させるために、和解に応じさせる、という目的ないし展開予測を前提として、外交・軍事上のオプションの一つとして機能させる」
という使い方等が可能となってしまう、ということです(もちろん、小心者で臆病者の私めは、そんな大それた真似は到底できませんが)。

4 小括

いずれにせよ、
「訴訟が壮大な資源動員合戦であり、泥沼の消耗戦であり、主張内容の正しさや証拠の信用性云々ではなく、カネがない方、カネをケチった方、訴訟の経済合理性に疑問を抱いた挙げ句おざなりに対処した側が負けてしまう」
という、不愉快な現実が厳然と存在します。

そういう意味では、
「カネがないクライアント、
カネあってもカネをケチるクライアント、
あるいは
カネがありケチではないが、訴訟の経済合理性に納得できずに、おざなりな対応に終始するクライアントは、
訴訟において必敗する」
という言い方も、訴訟の実情を考えれば、あながち間違いとは言い難いのです。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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01728_訴訟で”必敗”してしまうクライアントの偏向的思考と習性:バカで、幼稚で、怠惰で、外罰的で、傲慢で、ケチなクライアントは訴訟で決して勝てない_(5)傲慢なクライアント

1 「天動説」的幼児性精神構造

裁判沙汰になるようなトラブルを抱える方々は、当事者のいずれか、あるいは当事者双方ともに、幼児性精神構造を持っている場合が少なくありません。

知性と成熟性を備え、メタ認知(自己客観視、俯瞰認知)できる者同士、あるいはそのような成熟した本来的大人が一方にいれば、話し合いでカタが付き、裁判沙汰にまで発展しません。

というよりも、どちらか一方が、
「知性と成熟性を備え、メタ認知(自己客観視、俯瞰認知)できる者」
であれば、将来的な紛争になる可能性を予知し、予防法務技術を駆使して、そのリスクを、契約書において上書きしてリスクそのものを消失させており、交渉にすらず、事態が解決されるか、そもそも、そのような契約を忌避して、契約にまで至らず関係を解消しているはずです。

結局、裁判沙汰にまで発展する人間関係、企業間関係というのは、原被告いずれかあるいは双方において、当事者やトップの精神構造が幼稚で、天動説の如く、自分が世界や宇宙の中心にあって、自分が世界や宇宙を自由自在に振り回せる、という愚劣な考えに罹患しているものと推定されます。

こういう幼児性精神構造をもつ当事者ないしクライアントを、以下、
「傲慢な当事者」
「傲慢なクライアント」
と簡略化して表記します。

2 傲慢なクライアントの思考と行動

傲慢なクライアントは、自分の常識がこの世の規律のすべてである、と考えます。

ちなみに、「常識」とは、物心つくまでに身につけた偏見のコレクションを指します(アインシュタインの定義です)。

そして、
「自分の常識」
という偏見あるいは歪んだ物の見方を、相手が受け容れないと、不満を高め、暴発します。

暴発する相手が、部下や身内であれば、いいのですが、認識や見解の隔たりが生じた取引相手方に対しても、暴発させます。

「認識や見解の隔たり」
が生じた場合に備えて、その解消のためのツールとして、契約書があるはずなのですが、肝心の契約書にそのような記載がなかったり、記載が曖昧だったりしますが、そのような場合、
「常識」
で埋め合わせるほかなくなります。

その埋め合わせるべき
「常識」
が、彼我において顕著な隔たりが生じてしまう場合は、紛議に発展します。

あるいは、相手方も
「ビジネス的・社会生活的には非常識」
であるとわかっていても、
「法律的な屁理屈」
が成り立ち、しかも、そのような
「法律的には成り立ち得る屁理屈」
を使って主張すると、数百万、数億といった金額単位の利害得失差が生じるのであれは、
「ビジネス的・社会生活的には非常識」
とわかっていても、
「法律的には成り立ち得る屁理屈」
を採用せざるを得ません。

これは、(道徳や倫理を教条的に堅持するミッションがあるわけでもなく、むしろ、金儲けのためならそのようなくだらない価値観など踏み潰すことが求められる)営利追求組織である企業のトップとしての責任ある行動としては、営利のためには、常識や道徳や倫理を捨て、法律的屁理屈を掲げざるを得ません。

引用開始==========================>
そんな「言った言わない、話が違う」ということなんて、普通の認知と記憶と常識があれば、起こり得ない、と言われそうです。
確かに、1000円貸した貸さない、とか、「その本、私もう読んじゃったのがあって、メリカリで売ろうと思っていたから、500円で譲ってあげる」みたいな話であれば、「言った言わない、話が違う」なんてことは生じ得ません。
お互い譲り合えばいいだけですから。
しかし、億単位、あるいは数十億円単位の話となれば、別です。
億単位、あるいは数十億円単位の話は、常識を超えた話です。
そんな常識を超えた話にトラブルが発生し、そこは1つ常識的に、ここはお互い譲り合って穏便に、まあまあ、相身互いで、円満に行きましょう、といって、納得するはずがありません。
だって、常識を超えた額の話ですから。
常識が通用しないスケールの話ですから。
ちょっと勘違い、食い違い、想定外、思惑違いがあったので、ちょっとタンマ、ちょいノーカン、そこは許して、譲って、という話のサイズが、数億円、数十億円のロスやダメージの容認となります。
そんなことをにっこり笑って許容するなんてしびれるくらいのアホは、ビジネス社会では生きていけません。
たとえ、しっかり認知していて、はっきり記憶していて、ただ、契約書がなかった、あるいは契約書の記載があいまいだった、という事情があって、相手の言っている内容が事実としても記憶としても間違いなく常識的で正当な内容であっても、「契約書みてもそんなことは書いていない。書いていない以上、認めるわけにはいかない」と突っ張るのが、責任ある企業の経営者としての態度です。
すなわち、「言った言わない、話が違う」ということなんて、普通の認知と記憶と常識があれば、起こり得ない、というのは、1000円、1万円の話であればそのとおりですが、ビジネスや企業間のやりとりにおいては、些細な勘違い、食い違い、想定外、思惑違いであっても、契約書や確認した文書がなければ、すぐさま、「言った言わない、話が違う」のケンカに発展し、常識も情緒もへったくれも通用しないトラブルに発展することは日常茶飯事なのです。
すなわち、法によって強制されるものではないが、「多少の時間とエネルギーとコストを負担してもなお、『言った、言わない』といった類の無益な紛争を起こしたくない」と考える取引当事者が、“紛争予防のための自衛手段”として、相互に合意内容を証拠化しておく。
これが契約書なのです。

<==========================引用終了

https://9546.jp/2019/10/27/%e5%a5%91%e7%b4%84%e6%9b%b8%e3%81%ae%e3%83%81%e3%82%a7%e3%83%83%e3%82%af%e3%81%ae%e6%ae%b5%e5%8f%96%e3%82%8a%e3%81%a8%e5%ae%9f%e5%8b%99%e3%81%9d%e3%81%ae%ef%bc%93%ef%bc%9a%e3%80%8c%e5%a5%91%e7%b4%84/

このようにして、彼我の
「常識」
の隔たり、あるいは、
「常識」

「法律的に成り立ち得る屁理屈」
との間の隔たりが存在し、そのギャップの帰結として、数百万、数億といった金額単位の利害得失差が生じる場合に、
「法的紛争」
が発生する契機が生じます。

「傲慢でない当事者」
すなわち、
「知性と成熟性を備え、メタ認知(自己客観視、俯瞰認知)が出来、展開予測能力に優れ、思考柔軟性があり、情緒が安定し、何より精神的冗長性(余裕)がある当事者」
が一方におり、あるいは、双方ともにそのような内面を持っていれば、
「『認識や見解の隔たり』が生じた場合に備えて、その解消のためのツールとして、契約書があるべきはずのところ、肝心の契約書にそのような記載がなかったり、記載が曖昧だったりした」
という事態そのものを
「自らの手落ち」
として恥じ入り、
「訴訟となった場合の内部動員資源を含むコストを考えた、全体としての訴訟のコスパ」
を踏まえて、早々に手打ちを模索始めます。

ところが、
「傲慢な当事者」
は、天動説的幼児性のため、
「自己の常識や良識や哲学や価値観」
という一種の
「偏見」
を世界が従うべき正義と誤解してしまっており、
「正義があるんです! 正義は勝ちます! これは聖なる戦いです!」
と叫び、「訴訟なんです! 裁判なんです! 戦いなんです! 出るとこ出て、彼らの非道を暴くんです!」
といって、手打ちの機会をことごとくはねのけ、裁判をおっぱじめてしまいがちです。

3 傲慢なクライアントを遥かに上回る権力と傲慢さをもつ、「専制君主国家の独裁君主」並の権力と裁量をもつ裁判所

ところで、
「傲慢な当事者」
「傲慢なクライアント」
が傲慢さを発揮し得る領域にも限界というものが観念されます。

オーナー系企業においては、部下ないし社内の人間といった身内については、その傲慢さは、自由に発揮可能かもしれません。

「プライドや職業倫理よりも、仕事や客やカネが大事」
という、
「男芸者」
のような弁護士の場合も、そのような傲慢さを受容するかもしれません。

ただ、
「傲慢」
というものの、当の
「傲慢な当事者」
「傲慢なクライアント」
の内面においては、別に、他者に無理難題を強いている、という感覚はありません。

彼ないし彼女の内面においては、
「他者も理解し、共感し、ひれ伏して当然の、『この世界の中心にあって、この世界を支配している、自身の常識なり良識なり健全な価値観なり哲学なり正義』」
といったものを、理解させ、共感させ、従ってもらおう、と必死なだけなのです。

もちろん、取引先や、取引で揉めた相手に対しても、同様に、
「他者も理解し、共感し、ひれ伏して当然の、『この世界の中心にあって、この世界を支配している、自身の常識なり良識なり健全な価値観なり哲学なり正義』」
を理解させ、共感させ、従ってもらおうと努めます。

ところが、取引相手や、揉めた相手として、
別の
「他者も理解し、共感し、ひれ伏して当然の、『この世界の中心にあって、この世界を支配している、自身の常識なり良識なり健全な価値観なり哲学なり正義』」
を持っている場合、
あるいは、
相手方もこちらと同じ
「他者も理解し、共感し、ひれ伏して当然の、『この世界の中心にあって、この世界を支配している、自身の常識なり良識なり健全な価値観なり哲学なり正義』」
を堅持しているが、それとは別に、
「法律的に成り立ちうる屁理屈」
があって、それに従った場合、数百万、数億といった金額単位の利害得失差が生じる場合、結局、彼我の見解の隔たりは埋まらないことになります。

ここまでのプロセス、すなわち、裁判外でチャンチャンバラバラしている間は、相手が受け入れる受け容れないは別として、言うだけタダ、というか、単なる見解表明の自由として、特に問題が生じるわけではありません。

しかしながら、事態がこじれて、裁判にまで至ると、
「傲慢なクライアント」
の天動説的幼児性も限界ないし終焉が訪れます。

すなわち、裁判というプロセスにおいては、
「憲法によって与えられた、『専制君主国家の独裁君主』並の権力と裁量をもつ裁判官の法と良心」
という新たな
「天動説」(以下、「担当裁判官が天動説的に抱いている常識・価値観・経験則・法解釈」)
が登場し、裁判に関与する者すべてが、この
「担当裁判官が天動説的に抱いている常識・価値観・経験則・法解釈」
にひれ伏すことが強制されるのです。

もちろん、一般的な裁判官は、今なお存在する
「どこぞの下品なオーナー系企業のイタい感じのオーナー社長」
や、
「経済発展が遅れた地域にみられる独裁国家の国家元首」
のような、わかりやすいまでの横暴さを発揮することはなく、むしろ、手にしている権力や裁量とは真逆の、慎ましやかで、控えめで、ジェントルで、エレガントな振る舞いをなさいます(「裁判官が、実は、民主国家においてありえないくらい、非民主的な選出システムで選出され、しかも、これまたありえないくらい専制的で独裁的な権力者である」という実体が露見したら、大変だもんね)。

この様子をみて、愚かな
「傲慢なクライアント」
は、
「何だ、裁判官も意外とおとなしい、というか、ジェントルというか、ヘタれだな。これならマウント取れるな」
とアホな勘違いをして、自身が天動説的に抱いている
「他者も理解し、共感し、ひれ伏して当然の、『この世界の中心にあって、この世界を支配している、自身の常識なり良識なり健全な価値観なり哲学なり正義』」
が、裁判でも通用する、と思い込みます。

ここで、弁護士が、しっかりと、ゲームのロジックとルール、すなわち、
裁判というプロセスにおいては、
「憲法によって与えられた、『専制君主国家の独裁君主』並の権力と裁量をもつ裁判官の法と良心」
という
「担当裁判官が天動説的に抱いている常識・価値観・経験則・法解釈」
にひれ伏すことが強制される
ということを教示できればいいのですが、
こういう愚かで傲慢なクライアントには、
「プライドや職業倫理よりも、仕事や客やカネが大事」
という、
「男芸者」のような弁護士
が引力にように引き寄せられることもあり、
傲慢なクライアントの誤解が矯正される機会は失われます。

そして、裁判が進むにつれ、
「担当裁判官が天動説的に抱いている常識・価値観・経験則・法解釈」

傲慢なクライアントの脳内に巣食う天動説的な価値観としての
「他者も理解し、共感し、ひれ伏して当然の、『この世界の中心にあって、この世界を支配している、自身の常識なり良識なり健全な価値観なり哲学なり正義』」
がどんどん乖離していき、
最後は、前者が法的な裏付けの下、優勢に働き、後者を駆逐する、という悲喜劇が生じます。


4 小括

訴訟において、勝利を収め、あるいは自己に有利な解決を得るためには、自らの天動説的価値観をとっとと放擲し、地動説に宗旨変えし、
「担当裁判官が天動説的に抱いている常識・価値観・経験則・法解釈」
を太陽と仰いで、ひたすら、これに自己の認識や主張を最適化させていくことが求められます。

その意味では、傲慢なクライアントが、そのままの価値観や常識や思い込みを引きずった状態で、訴訟に臨み、また、このクライアントにくっついているのが、
「プライドや職業倫理よりも、仕事や客やカネが大事」
という、
「男芸者」のような弁護士
だと、矯正の機会を失い、ゲームのロジックやルールに反した行動を続けた挙げ句、最後は悲劇となって終焉を迎えます。

以上の点から、傲慢なクライアントは、訴訟で必敗する、という言い方ができるのです。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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01727_訴訟で”必敗”してしまうクライアントの偏向的思考と習性:バカで、幼稚で、怠惰で、外罰的で、傲慢で、ケチなクライアントは訴訟で決して勝てない_(4)外罰的なクライアント

1 クライアントに選択と決定という責任を果たすことが求められる「訴訟 」という営み

1)訴訟という営みは、選択や決定の連鎖で成り立つ壮大な試行錯誤

訴訟という営みは、選択や決定の連鎖で成り立つ、壮大な試行錯誤の営みです。

訴訟の当事者は、各選択局面毎に、論理的に想定可能な全ての選択肢を整理・抽出し、展開予測とストレステストとプロコン評価を加え、選択と決定を続けていなかければなりません。

2)「『選択の帰結に利害を有する唯一無二の当事者』であるクライアント」には、「自己責任・自業自得・因果応報」の前提で、誰に八つ当たりすることもなく、選択と決定という過酷な役割・責任を果たすことが求められる

そして、
「選択の帰結に利害を有する唯一無二の当事者であるクライアント」
が、自己責任・自業自得・因果応報の前提で、誰に八つ当たりすることもなく、選択と決定という責任を果たすことが求められます。

もちろん、弁護士という支援者はいますが、あくまで、代理人であり、他人です。

クライアント・当事者の選択と決定という自己責任を果たす上で、弁護士は、
・(クライアントが気づかない状況において)選択局面であることを認知・知覚したり、
・選択課題を発見・特定・具体化して、明瞭に整理してあげたり、
・各選択局面毎に、論理的に想定可能な全ての選択肢を整理・抽出してあげたり、
・展開予測とストレステストとプロコン評価を加えることに知的な支援をしたり、
といった知的支援をすることはありますが、あくまで
「代理人(他人)」としての「支援」
であり、最終的な決定と責任と役割は、依然、当事者本人に帰属します。

3)弁護士に任せきりになって、当事者としての役割・責任を放擲するクライアント

有名な弁護士に、高い着手金を払ったクライアントなどは、
「これほどまでに有名な弁護士に、これだけのギャラを払ったのだから、後は大船に乗ったつもりで、勝ちが転がり込んでくる」
という夢想を抱きがちかもしれません。

もちろん、所要の成果が出れば問題はないのでしょう。

ただ、訴訟というのは、どちらかが勝って、どちらかが負けるものであって、また、原被告どちらもが、
「自分が勝って、相手が負ける」
ことを所与として、最後まで戦うわけですから、単純な割合でいうと、50%の確率で、期待していた成果が出ない、期待とは真逆の成果が出る、という悲劇が生まれます。

単純確率で50%の割合で生じる、期待していた成果が出ない(敗訴する、あるいは不利な和解をすることになる)悲劇的状況に至ると、クライアントは、当然のことながら、今までの期待や信頼はどこに行ったか、と思うほど、猛然と、弁護士を批判・非難・攻撃し始めます(にっこり笑って、「全力を尽くしていただいて感謝します」と喜ぶクライアントは稀でしょう)。

曰く、
「お前のせいだ」
「あの大言壮語はどこに行った」
「先生には勝つことを請け負ってもらったのだから、負けるならお願いしない。カネ返せ」
というクレームや文句のオンパレードになります。

4)クライアントの他人任せを助長する「俺は正解・定石を知っている。プロである俺に全て任せろ。俺に任せれば全てうまく行く」と息巻く弁護士

もし、弁護士が、営業段階で、着手段階で、
「私に任せろ」
「楽勝だ」
「絶対勝てる」
などと言っていたのなら、この弁護士は救いがたいアホですし、自業自得・自己責任・因果応報の帰結として、サンドバッグになるとしてもやむを得ないでしょう。

というより、そもそも、

という理解を前提とすると、前記のような弁護士の与太話といってもいいセールストーク(「私に任せろ」「楽勝だ」「絶対勝てる」) を真に受けるクライアントの方もどうかしています。

5)当事者・クライアントの義務と責任と役割

というより、そもそも、当事者・クライアントにおいては、訴訟にエンゲージした瞬間から
「大船に乗ったつもりで、勝ちが転がり込んでくる」
などといった状況とは真逆の、過酷なまでの義務と責任と役割を担わされるのです。

そして、
当該「義務と責任と役割」
は、当事者・クライアントにのみ、ひしひしとのしかかり、誰にも転嫁できない性質のものです。

訴訟の結果を外罰的にとらえて、八つ当たりしたり責任転嫁したりする、という現象の裏側には、上記のような
「当事者・クライアントにのみ、ひしひしとのしかかり、誰にも転嫁できない
義務と責任と役割」
を理解していないことが根源的原因です。

という理解を前提とすると、
・誰かに八つ当たり
・誰かを詰る、責める
以前に、そもそも、
・誰かに任せる
・誰かに委ねる
という発想を抱く段階で、訴訟にボロ負けすることが必定となっている、といえるのだと思います。

6)どんなに楽勝そうにみえても、訴訟は、「正解なき、定石もないプロジェクト」

どんなに楽勝そうにみえても、訴訟は、すべからく
「正解なく、定石もないプロジェクト」
です。

そして、
「正解も定石もないプロジェクト」
である以上、まず、プロジェクト推進のためのチームビルディングのあり方として、

正解も定石も不明なプロジェクトを推進するためのチーム体制を整える1~7

ことが必要になりますし、当該組織を用いたプロジェクトオペレーションとしても、

「正解や定石のないプロジェクト」の戦略を立案し、戦略的に遂行する1~11

の理解を前提とした作戦遂行が必要になります。

すなわち、
「正解も定石も観念しえない、結果が蓋然性に依存する、いわばギャンブルのようなプロジェクト」
である訴訟については、
「最善解・現実解を探るための各選択局面において選択と判断を続ける、試行錯誤を続ける営み」
なのであり、選択の連鎖により、成果が極度に左右されるものなのです。

2 「選択や判断を誰か他人に依存し、結果次第で八つ当たりする」という外罰的精神傾向が示唆するもの

クライアントの中には、
「私は選択しない(選択するのは面倒くさい)ので、そっちで選択してくれ」
「諸事、うまいことやってくれ」
「任せる」
「好きにやってくれ」
「私はわからない(わかる努力は放棄する)」
という方もいます。

こんなことをおっしゃるクライアントは、別に、器量が広く寛容、というのではありません。

クライアントから出てくるこのような言葉の行間や紙背には、
「うまくいくから、任せる」
「うまくいく限りにおいて、任せる」
「うまくいくことを前提ないし条件で、任せる」
という含意があります。

「うまくいかなくとも、どんな悲惨で想定外でむちゃくちゃな結果が出ても、ニコニコ笑って、一切文句は言わない」
というクライアントなど、皆無です。

要するに、
「私は選択しない(選択するのは面倒くさい)ので、そっちで選択してくれ」
「うまいことやってくれ」
「任せる」
「好きにやってくれ」
「私はわからない(わかる努力は放棄する)」
等と言い出す、
「一見鷹揚で、器量に優れたように見える、物分りの良さそうなクライアント」
の発言については、言葉の背後に潜む反語的含意を含めて正しく再記述すると、
「うまくいかなかったら、承知しないぞ」
「うまくいかなったら、責任追及するからな」
「うまくいかなかったら、どのようなプロセス・選択・判断をしたのか、そのすべてを調べ上げ、その選択や判断が正しかったのか、徹底的に検証して、その是非を問う」
ということであり、これが発言者の真意なのです。

このような発言の真意を理解せず、
「一見鷹揚で、器量に優れたように見える、物分りの良さそうなクライアント」
の言葉を真に受け、言葉通り、弁護士が知識と経験と感覚にしたがって、随意に適当かつイージーに選択と試行錯誤を進め、結果、期待する成果が出なかったら、
「なんであのときこうしなかった」
「なんであのときそういう見方をした」
「あのときの選択は結果的にはこっちの方がよかった」
と後知恵で難詰されて不愉快な状況に陥ることが必定です。

「私は選択しない(選択するのは面倒くさい)ので、そっちで選択してくれ」
「うまいことやってくれ」
「任せる」
「好きにやってくれ」
「私はわからない(わかる努力は放棄する)」
という発言をする
「一見鷹揚で、器量に優れたように見える、物分りの良さそうなクライアント」
は、クライアントにおいて負担すべき唯一の権限と責任を放擲して、これを弁護士に押し付けようとする意図に出たものであり、前記のような発言に隠れた反語的解釈も踏まえると、当該クライアントは卑怯、怠惰、狡猾、責任放棄、責任転嫁といった信頼できない性質を内包しており、弁護士としては、
「プロジェクトパートナーとしての不適格性の顕れ」
と考え、警戒あるいは忌避し、さらには、エンゲージを拒否すべきことになろうかと考えます。

しかしながら、現実には、
「私は選択しない(選択するのは面倒くさい)ので、そっちで選択してくれ」
「うまいことやってくれ」
「任せる」
「好きにやってくれ」
「私はわからない(わかる努力は放棄する)」
等と言い出す、
「一見鷹揚で、器量に優れたように見える、物分りの良さそうなクライアント」
を前にした弁護士の中には、
「私に任せろ」
「楽勝だ」
「絶対勝てる」
などと愚かなことを言って調子を合わせる、しびれるくらいアホな手合も少なからずいるようです。

上記のような不幸なまでにアホな弁護士の行動は、弁護士・依頼者の役割分担設計において、クライアントを、
「クライアントにのみ、ひしひしとのしかかり、誰にも転嫁できないはずの義務と役割と責任」
から免責し、成果が出なかったら、弁護士自身に対して、八つ当たりするような外罰的態度を許容する、ということを意味します。

もちろん、クライアントとしては、期待外れの結果を前にして、
「お前のせいだ」
「あの大言壮語はどこに行った」
「先生には勝つことを請け負ってもらったのだから、負けるならお願いしない。カネ返せ」
と当然の詰め寄りをして、醜悪な内部ゲバルトをするのもご随意です。

しかしながら、クライアントとして、弁護士に八つ当たりしたところで、結果が改善されるわけでもありません。

結局、敗訴したら敗訴したで、その債務や責任を、弁護士になすりつけることもできず、すべて自分で負担しなければならないのです。

3 小括

いずれにせよ、外罰的なクライアント、言い換えれば、
「誰にも転嫁できないはずの義務と役割と責任」
を放擲するような無自覚で無責任で他人任せで当事者意識が欠如しているクライアントは、当然のように訴訟で必敗する、ということはいえるかと思います。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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01726_訴訟で”必敗”してしまうクライアントの偏向的思考と習性:バカで、幼稚で、怠惰で、外罰的で、傲慢で、ケチなクライアントは訴訟で決して勝てない_(3)怠惰なクライアント

1 怠惰なクライアントとは、自分の言いたいことを、しっかり、きっちり、「『証明可能な事実』と『反証不能な論理』だけを使って、法的に論理的・合理的な形で再構成・再構築」し、これをしびれるくらいわかりやすく「ミエル化・カタチ化・言語化・文書化」する、というタスクをいい加減に考えたり、途中放棄するクライアント

訴訟におけるプレゼンには、いくつか制約があります。

(1)言いたいことが、法的・論理的に再構成・再構築されていること
(2)「証明可能な事実」と「反証不能な論理」だけを使って言いたいことを表現すること
(3)言いたいことをしびれるくらいわかりやすく「ミエル化・カタチ化・言語化・文書化」すること

そして、この制約を無視・軽視・度外視して、訴訟活動を行うようなクライアントを、「怠惰なクライアント」という言い方が出来ます。

という制約です。

2 訴訟におけるプレゼンの制約1:「(1)言いたいことが、法的・論理的に再構成・再構築されていること」

まず、
「(1)言いたいことが、法的・論理的に再構成・再構築されていること」
ですが、例えば、あいつはひどいやつだ、あいつは死んでもいいやつだ、あいつは社会にとって害毒だ、ということを明確に主張し、立証できたとしても、民事訴訟において
「裁判所が、原告に対して、被告を殺す権利を与える、という判決を下す」
ということは絶対起こり得ません。

同様に、我が国の民事訴訟制度上、企業側が、どれほど悪辣に社会に迷惑をかけるような行為を行ったとしても、また、そのことを完全に主張し、立証し得たとしても、企業には
「現実に生じた損害」
を賠償することしか求め得ず、それ以上の懲罰的賠償を払わさられることはありえません。

極端な話をすると、人間1人死んだ場合の賠償相場も、当該被害者の年齢や職業等によって決まっており、被害者がどれだけ遺族にとって価値ある貴重な存在であることを主張立証しても、当該相場を極端に上回る賠償金は出てきません。

要するに、言いたいことがあっても、法的・論理的に追求可能な結論から逆算して、有効かつ論理的に再構成しない限り、いくら騒いでも、期待される効果が出てくるものではありません。

ちなみに、こんなにひどい約束違反をされた、これは許せない、ということをいくらわめきたてても、
・債務不履行は判ったが、債務不履行に基づいて、何をしたいのか、解除をしたいのか、損害賠償したいのか、
・解除したいなら、解除通知をしたのか、その前提として、催告はしたのか、履行の提供をして同時履行の抗弁権を奪ったのか
・損害賠償をしたいなら、どのような損害が発生して、その数額はどのようなものとして算定され、その算定根拠はどのようなものか、
を主張し、立証しないと、どれほどひどい約束違反であることが主張し、立証出来ても、請求棄却(原告敗訴)判決しか出てきません。

3 訴訟におけるプレゼンの制約2: 「(2)『証明可能な事実』と『反証不能な論理』だけを使って言いたいことを表現すること」

次に、
「(2)『証明可能な事実』と『反証不能な論理』だけを使って言いたいことを表現すること」
ですが、プレゼンを行うのに、形容詞や副詞といった修飾語を一切使わず、5W2H という事実や、誰も反証することの出来ない論理だけで表現する、という営みは非常に負荷がかかり、面倒臭いものです。

特に、喧嘩での言い合うとなると、あいつは悪い、お前なんか死んでしまえ、お前みたいなひどいやつはみたことない、あいつはひどい、こんな行為は許せない、被った損害は信じられないくらい甚大だ、などといった形で、形容詞や副詞といった修飾語がアホみたいに混入してきます。

もちろん、感情の高ぶり、ということもあるのでしょうが、具体的事実を明確にして、事実だけを使って、自分の主張内容を表現する、という営みは、むちゃくちゃ知的に高度であり、負荷がかある面倒なものだからです。

もし、これが誰でも簡単にできるなら、それこそ、世の中全員、今すぐにでも新聞記者になれます。

逆の言い方をすれば、プレゼンする際、手を抜くなら、
「形容詞や副詞といった修飾語」
を使うのが楽ちんです。

・なぜ、戦争をしなければならないか?
・こんなにリスキーで負荷のかかる戦争をやんなきゃいけない、その目的って一体何なんだ?
・なぜ、敵を殺し、倒さなければならないか?
・他に方法はないのか?
ということを、客観的事実と反証不能な論理だけを使って証明しようとすると、ほぼ不可能です。

ちなみに、太平洋戦争においても、こんなやりとりがあったそうです。

引用開始==========================>
記録には、開戦に先立つ1941年11月2日の御前会議で、東条英機氏との緊張あふれるやりとりが残されています。
東条英機氏とは、軍人で、太平洋戦争開戦当時の総理大臣、すなわち、戦争という「公共事業」をおっぱじめた実務の最高責任者。
ちなみに、お亡くなりになった、昭和のアイドル歌手の「西城秀樹」とは、まったく無関係です。
当時の御前会議(真珠湾攻撃の直前も直前。

開戦前ギリギリの時期での会議です)において、
昭和天皇「(開戦の)大義名分ヲ如何ニ考フルヤ」
東条英機「目下研究中デアリマシテ、何レ奏上イタシマス」
という応答があったそうです。
これはひどい。
本当にひどい話です。
プロジェクトオーナーから
「近々開始する予定で、決裁を求めてる事業だけど、この事業の目的って、一体何? 何のためにこんな危険な大事業やるの?」
と聞かれて、プロジェクトの総責任者であるマネージャーが
「今、目的を研究しています。目的がわかれば、いずれ、報告します」
と平然とぬかしている状況。
こんなプロジェクト、始まる前から失敗すること、確定です。
おそらく、陛下も、
「お前ら、どうせ目的とかもはっきりしない、いい加減で、適当な考えで、ヤバい博打をするつもりだろ。目的をはっきり聞かせろ。答えられんだろうが」
という危惧感をもちながら、怒りと侮蔑をもって、あえて諮問されたのだと思います。
それを、ぬけぬけと
「目的は後から考えます。思いついたら、そのうち報告します」
という返答をするような舐め腐った態度自体、太平洋戦争という「公共事業」を遂行した実務責任者や幹部連中のいい加減さ、デタラメさを雄弁に物語っています。

<==========================引用終了

要するに、太平洋戦争という巨大な資源動員・資源費消を前提とする
「日本史上最大の公共事業」たる戦争
の目的や理由を、リベラリストで理知的で平和を愛する昭和天皇陛下に対して、事実だけで表現しようとしても、まったく不可能だった、ということです。

多分、
・うざいから戦争する
・ムカつくから戦争する
・どうせ勝てるから戦争する
・やりたいから戦争する
ということなのだろうと思いますが、当然ながら、そんな本音は、少なくとも
「証明可能な事実」

「反証不能な論理」
を使って論理化・正当化することは、できっこありません。

だからこそ、
「鬼畜米英」
という情緒豊かな修飾語や、
「大東亜共栄圏」
「八紘一宇」
といった情感あふれるが無内容な言葉で、戦争の理由や大義を説明(にもなってないか)しようとしたのでしょう。

要するに、
「手抜き」
というか
「思考放棄」
ですが、主張や説明を簡単に済ませるなら、
・敵は鬼畜米英だから
・◯◯人は、薄汚れて害毒を撒き散らしているから
・我が国は神の国だから
というプレゼンは最高にコスパがいいのですが、非知的であることは、ご理解いただけるかと存じます。

言い方を変えると、バカで面倒くさがりほど、
「形容詞や副詞といった修飾語」
を使う(そういうった非論理的表現に逃げる、お茶を濁す)のであって、真面目で知的な人間は、
「証明可能な事実」

「反証不能な論理」
だけを使って言いたいことを表現する(し、そういう芸当ができる)、ということになります。

ここで、バカで面倒くさがりの方には大変残念なお知らせですが、裁判所という国家機関は、
「証明可能な事実」

「反証不能な論理」
だけを使って言いたいことを表現する真面目で知的な人間は大好きですが、
「鬼畜米英」
「鬼畜米帝」
「一死報国」
「七生報国」
みたいな情緒過多、論理不明な修飾語を多様するプレゼンを吠える怠惰で非知的な方々はどうやらお苦手なようです。

4 訴訟におけるプレゼンの制約3: 「(3)言いたいことをしびれるくらいわかりやすく『ミエル化・カタチ化・言語化・文書化』すること」

最後に、「(3)言いたいことをしびれるくらいわかりやすく『ミエル化・カタチ化・言語化・文書化』すること」ですが、これも真面目にやろうとすると、大変です。

引用開始==========================>
なお、「客観的なものとして言語化された体験事実を、さらに整理体系化し、文書化された資料が整えることが、裁判制度を利用するにあたって、絶対的に必要な前提」ということについてですが、事実経緯を、記憶喚起・復元・再現し、これを言語化し、記録化し、文書化する、となると、どえらい時間とエネルギーが必要になります。
例えば、皆さんは、5日前の昼飯のこととかって覚えています?
誰と、どこで、どのメニューを注文し、どの順番で、どんな話をしながら食べたか?
食後のデザートに何を選んだか? 飲んだのはコーヒーか紅茶か、レモンかミルクかストレートか、おかわりをしたか?
おごったか、おごられたか、割り勘にしたか、傾斜配分にしたか? 勘定はいくらだったか?
とか、覚えていますか?
私は、別に認知機能に問題なく、東大に現役合格する程度の暗記能力・記憶力は備えているものの、自慢ではないですが、
「5日前の昼飯のこととか、そんなのいちいち覚えてるわけないやろ!」
と胸を張って言えます。
といいますか、仕事の関係で、食事は不規則であり、忙しくて昼飯をすっ飛ばしたり、朝食ミーティングがあれば、夜まで食べないこともあるので、昼飯を食べたかどうかすら、いちいち覚えていません(何度も言いますが、認知機能に問題があるわけではなく、あまりにどうでもいいというか、くだらないことなので、覚えていないのです)。
もちろん、
「がんばって5日前の昼飯のこと、思い出せ」
と言われれば、思い出せないこともありません。
それなりに、認知機能もありますし、記憶力や暗記力も平均以上だと思いますので。
スケジュールを確認し、前後の予定や行動履歴を、メールや通話記録をみながら、記憶の中で復元していき、手元の領収書や店への問い合わせや店が保管している記録を前提に、一定の時間と労力を投入すれば、状況を相当程度再現していくことは可能であり、さらに時間と労力を投入すれば、これを記録として文書化することもできなくはありません。
とはいえ、それをするなら、投入する時間や労力をはるかに上回るメリットがないと、こんなくだらないことに0.5秒たりとも関わりたくありません。
もともと、人間のメンタリティとして、
「過ぎたことは今更変えられないし、どうでもいい。未来のことはあれこれ悩んでも仕方ないし、考えるだけ鬱陶しい。今、この瞬間のことだけ、楽しく考えて、生きていたい」
という志向がある以上、
「過ぎ去ったことを調べたり考えたり、さらには、内容を文書化したりする、なんてこと、あまりやりたくない」
という考えは実に健全といえます。
すなわち、
「がんばって5日前の昼飯のこと、思い出せ。思い出して、文書化できたら30万円あげる」
と言われたら、ヒマでやることないし、あるいは期限や他の予定との兼ね合いをみながら、少し小遣いに困っているなら、その話を受けるかも、という感覚です。
このような言い方をすると、
「でもそれって弁護士さんがやってくれるんじゃないの?」
というツッコミが入りそうですが、それは弁護士と当事者の役割分担の誤解です。
弁護士は、事件の当事者ではなく、事件に携わったわけでも体験したわけでもないので、事件にまつわる経緯を語ることはできません。
無論、事件経緯を示す痕跡としてどのようなものがどこにあるか、ということも、直接的かつ具体的に知っているわけではありません。
弁護士は、そのあたりのストーリーを適当に創作したりでっち上げたりすることはできません。
たまに、依頼者から「思い出したりするの面倒なんで、先生、その辺のところ、適当に書いといて」という懇請に負けて、弁護士が適当な話を作って裁判所に提出してしまうような事例もたまにあるように聞きます。
しかし、こんないい加減なことをやったところで、結局、裁判の進行の過程で、相手方や裁判所からの厳しいツッコミを誘発し、ストーリーが矛盾したり破綻したりしていることが明確な痕跡(証拠)をもって指摘され、サンドバッグ状態になり、裁判続行が不能に陥りかねません(「証人尋問すらされることなく、主張整理段階で、結審して、敗訴」というお粗末な結論に至る裁判はたいていそのような背景がある、と推察されます)。
弁護士は、
「記憶喚起・復元・再現し、これを言語化し、記録化し、ある程度文書化された依頼者の、事件にまつわる全体験事実」(ファクトレポート)
から、
依頼者が求める権利や法的立場を基礎づけるストーリー(メインの事実)ないしエピソード(副次的・背景的事情)
を抽出し、
こちらの手元にある痕跡(証拠)や相手方が手元に有すると推測される痕跡(証拠)
を想定しながら、破綻のない形で、裁判所に提出し、より有利なリングを設営して、試合を有利に運べるお膳立てをすることが主たる役割として担います。
いずれにせよ、真剣かつ誠実に裁判を遂行しようとすると、「弁護士費用や裁判所利用料としての印紙代という外部化客観化されたコスト」以外に、気の遠くなるような資源を動員して、クライアントサイドにおいて、「事実経緯を、記憶喚起・復元・再現し、これを言語化し、記録化し、文書化する」という作業を貫徹することが要求されます。

<==========================引用終了

実際は、この
「(3)言いたいことをしびれるくらいわかりやすく『ミエル化・カタチ化・言語化・文書化』すること」
を面倒くさがり、手抜きをして、お茶を濁そうとする手合が裁判では意外に多くはびこっています。

引用開始==========================>
当事者ないし弁護士の仕事は、事件の経緯をまず客観的事実の側面からドライかつ緻密に整理した上で、事実を示す根拠となる資料に関して、
「『証拠の不備をあげつらって、知らぬ存ぜぬと厳しく非難する相手方』ですら、否定しようのない、動かぬ証拠」
が存在するかしないか、を検証することから始めるべきことになります。
弁護士の中には、この種の
「地味で堅実な作業」
を面倒くさがり、推理と理論だけで華々しいストーリーを構築し、延々と主張して、仕事をした気になっている方もいらっしゃるようです。
事実や根拠を無視して一方的な主義主張を叫んだり、証拠もなしに理屈を説明したりすることは、それこそ、高校生にだってできますし、裁判所はその種の安っぽいストーリーテリングにウンザリしています。
具体的・客観的な事実経過を調べ上げて克明に表現したり、
「当該事実に関し、自分と立場を異にする相手でも、納得せざるを得ない証拠」
を集めたりする過程は、地味で労力のかかるものです。
これを忌避して、その「空白」を、「『常識』という名の『偏見のコレクション』」や、自身の矮小(わいしょう)な経験や、ちゃちな知性や、独善的で強引な推論でつなぎ合わせ、あるいは華麗な修飾語や枕詞を並べ立てて、お茶を濁すタイプの弁護士や当事者もいらっしゃいますが、この種の「関係者をけむにまくだけの、とりとめのない話」でごまかそうとしても、裁判官の冷めた対応を招くだけです。
裁判に時間がかかるのは、裁判が高度で知的な内容だからではありません。
当事者・弁護士が
「客観的事実を、確実な証拠と地味な努力によって、克明に説明しようとすること」
を忌避して仰々しい主義主張をわめきたてたり、あるいは、ロクな証拠もなく、推論だけで話を創ろうとしたりして、前に進まないからです。
このような現実に対し、裁判所は相当苦々しく考えているようです。

<==========================引用終了

5 訴訟はいくらでも手を抜ける

あまり知られていない事柄ですが、訴訟は、手を抜こうとすれば、いくらでも手を抜けます。

当事者・クライアントが手を抜く場合もあるでしょうし、弁護士が手を抜く場合もあるでしょうし、両方仲良く手を抜く場合もあるでしょう。

もちろん、裁判に欠席したり、書面や証拠を出さなかったり、証人尋問で準備をしなかったり、という
「わかりやすい手抜き」
もありますが、裁判には皆勤で、書面や証拠もそれなりのボリュームのものを出し、証人尋問もそれなりに準備して臨んでも、実際には
「怠惰」で「手抜き」
としかいいようのない訴訟活動(外形的にはそれなりに一生懸命頑張っているが、「外形はそれなりだが、実質・本質的な手抜き訴訟活動」といいます)というものは存在します。

具体的には、

(1)言いたいことが、(情緒的には理解出来、怒りや不平や不満は読み取れるが)法的・論理的に再構成・再構築されておらず、
(2)(証明云々は別にした事実や勇ましい修飾語は散りばめられているが)「証明可能な事実」がなく、(一方的情緒としては理解は出来るものの、反論処理されていない理屈であり、)「反証不能な論理」とまでは言えない論理が多様された上で、言いたいことを表現しており、
(3)「怒りや不安や不平や不満」はなんとなくわかるものの、「ミエル化・カタチ化・言語化・文書化」が今ひとつで、当該状況や利害の埒外の裁判官からすると、今ひとつ、言いたいことや表現したい状況が頭に入ってこない、

といった、怠惰で、手抜きな訴訟活動が結構な割合でみられます。

学校の先生や、行政機関なら、教育的指導や行政指導によって、救済的なメッセージがわりとわかりやすく発信され、よほど鈍感な人間でも無い限り、指導を受け容れ、所要の成果を獲得することは可能です。

しかしながら、裁判官は、そんなに優しくも面倒見がいいわけでもありませんし、あまり一方に肩入れしすぎると、相手方からクレームが飛んできます。

もちろん、裁判官は、微細な形で助け舟のサインを出している場合もありますが、弁護士も当事者・クライアントも鈍感過ぎて、気づかず、無視して、やり過ごす、ということも無茶苦茶多いようです。

そういうこともあって、
「外形はそれなりだが、実質・本質的な手抜き訴訟活動」
は、ダメ出しされることなく、鈍感で忖度できない弁護士も当事者・クライアントは、2人仲良く、修飾語満載な華麗な主張に悦に入り、破滅の道をまっしぐらに突き進んでいきます。

6 小括

いずれにせよ、このような意味で
「怠惰」なクライアント
が、まず、訴訟に必敗するクライアントの特徴である、ともいえそうです。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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01725_訴訟で”必敗”してしまうクライアントの偏向的思考と習性:バカで、幼稚で、怠惰で、外罰的で、傲慢で、ケチなクライアントは訴訟で決して勝てない_(2)幼稚なクライアント

1 幼稚なクライアントとは、空気を読まずに、わがままを通そうとするクライアント

私の個人的理解によるものですが、大人と子供の違いは、何かというと、他人に合わせることができるかできないか、という点に求められると考えます。

すなわち、子供の特徴は、自己中心的であり、天動説的なメンタリティです。

要するに、自分が世界の中心で、自分がすべてであり、自分がいなくなれば世界がなくなるのと同様、というメンタリティが子供の精神構造です。

人間のデフォルト設定としての精神構造は、子供のそれであり、幼稚なものです。

しかし、社会参加をし、集団行動を行う上で、帰属集団や組織や社会のロジックやルールを知り、これらを優先し、自分のやりたいことを理性で抑え込んで、他人や外部秩序に合わせることを学ぼうとします。

うまくこういうことを学べて、幼稚な精神構造を克服、書き換え、修正し、世界の中心は自分の外にあり、社会や外部秩序が自分の考えや価値や利益に優先し、自分など取るに足らない、という地動説的メンタリティを獲得することで、社会参加が可能となり、社会に居場所を見つけられ、社会生存することが可能となります。

逆に、いい大人になっても、自分が世界の中心で、自分がすべてであり、自分がいなくなれば世界がなくなるのと同様、というメンタリティのままでいると、引きこもりになるか、社会のルールと衝突した挙げ句、刑務所にご厄介になるか、いずれにせよ、社会参加が不可能となり、社会に居場所を見つけられず、社会生存することができなくなります。

2 裁判所という国家機関をどう捉えるか

例えば、裁判所は、
「真実と正義を愛し、悪やウソを憎み、明敏なる知性をもって、真実を発見し、正当な解決をもたらしてくれる弱者の味方であり、被害者たる当事者にとって、証拠がなくとも、理性と常識を働かして、相手が企図する嘘偽りを見破り、自分を救済してくれる、優しく、正しく、間違わず、心強く、無条件・無制限に信頼することができる、父や母のような存在」
という見方です(以下、「大岡越前守・遠山金四郎的裁判所観」といいます)。

裁判所利用者として、裁判所という国家機関をどのように捉えるか、という点については、いろいろなイメージを描くことが、
「論理上」は可能
です。

この対極に位置するのが、
「裁判所は、現実に発生した事実とは関係なく、証拠と法律のほか、スジとスワリという独特のロジックやルールを通じて、再構成したストーリー(事実とは異なる仮説、虚説)に基づき、憲法により付与された独裁的権力を用いて、権力的に物事を決めつけ、解決する役所であり、証拠もなく、法律的にも分が悪い事案で、一般的なスジやスワリとも乖離するようなものであれば、過大な期待をしても難しい」
という見方です(以下、「ただの権力的な役所としての裁判所観」といいます)

この、
「ただの権力的な役所としての裁判所観」
について、さらに掘り下げますと、
民事裁判官のアタマとココロを分析する (1)~(6)
で書かれている裁判官のイメージとなります。

私としては、制度上の理解としても、四半世紀の実務経験としても、明らかに後者、
「ただの権力的な役所としての裁判所観」
が正しいと考えています。

「大岡越前守・遠山金四郎的裁判所観」
は、おそらく、テレビとか映画の見過ぎというか、小説という
「小さなウソ」
の世界と現実世界の区別がついていないか、実に、幼稚というか、アホというか、モノを知らない人間のモノの見方です。

3 裁判所における幼稚な行動

この
「大岡越前守・遠山金四郎的裁判所観」
を前提としますと、裁判所は、後見的な親のような優しい存在であり、いくらでも甘えられます。

当然のことながら、裁判所を
「甘えられる親のような存在」
と措定すると、裁判所利用者たる当事者は、子供のように甘えだします。

「証拠はさておき、実際あったことはこうだったんだ」
「いや、そりゃ、この文書には署名したし、押印もしたよ、だけど、この文書に書いてあることはまったくのデタラメなんだ」
「『こんなの形だけですから、とりあえず、署名・押印しといて下さい』って言われて、サインしてハンコ押しただけなんだ」
「確かに、手元に文書はあったんだけど、相手から、『ちょっと預かります。すぐ返すから』と言われて渡したんですけど、相手が返さないんですよ」
「母は、もう高齢で、半分認知症なんですよ。今まで月5万円でやりくりしていた母が、いきなり300万円とか自分の意思で使うわけないじゃないですか」
といった、話を、大の大人が、眦を決して、
「絶対受け容れられる、理解いただける」
という信念の下、大見得を切って、プレゼンをし、悦に入ります。

しかし、上記のような話は、たいてい、無残な形で否定され、最後は、
みなさん一様に、裁判所への失望を露わにします。
曰く、
「なんでこの程度の事実を認めるのにこんな時間がかかるんだ」
「なんだよ、和解しろ、和解しろって。こっちは、判決くれって言ってんのに。あの裁判官、判決書くのが面倒だから、サボろうとしてんじゃねえか」
「裁判官ってあんなに冷たい人間だとは知らなかったわ。血も涙もないエリートってああいう人のことをいうのね」
「裁判官は、もっと、世情に長けていて、人情がわかる、大岡越前守みたいな人間がなるのではないのか」
「まったく、杓子定規に建前ばかりいいやがって。そんなこたあ、端から承知だってんだ。それで、埒があかないから、裁判起こしたんじゃねえか」
「怒り心頭に発した!日本の司法は腐ってる!」
「なんだよ。文書だ、法律だって。世の中、紙や法律だけで動いてんじゃねえぞ」
と。

4 「自分の言いたいことを言うのではなく、相手(裁判所)が求めている話を求めている要件を充足させ、求めているスタイルで、要領よくプレゼンする」のが定石

他方で、
「ただの権力的な役所としての裁判所観」
を前提とするくらいの現実的な知性や成熟性を持てると、上記のような対応にはなりません。

裁判というゲームを支配するのは、司法権という圧倒的権力と裁量をもち、神の如き絶対性をもつ存在で、民主体制下の日本にあって
「専制君主国家の独裁君主」
として君臨する裁判官ですので、これを太陽とする、
「地動説」的な思考転換
によって、裁判官の有するロジックやルールと感受性に併せて、自分のプレゼン内容を最適化して、媚びへつらいます。

もちろん、
「裁判官の有するロジックやルールと感受性」
といっても、 裁判官の数が2018年時点で2782名いるわけであり(簡裁判事除く)、約2800ものローカル・ルールがあるわけですから、裁判毎に、この
「ブラックボックス化され、帰納的にしか把握できないローカル・ルール」
を探り当て、プレゼンを修正したりすることも必要です。

5 小括

ところが、前記のように、
「大岡越前守・遠山金四郎的裁判所観」
という偏見を強固に抱き、裁判所を
「甘えられる親のような存在」
と措定し、子供のように甘え、
「天動説」
のように自分を中心にして、自分の正義感や感受性の赴くまま、裁判官の受け取り方を意に介せず、マスターベーションよろしく、身勝手な主張を延々吐き出して、悦に入っている幼稚なクライアントがいます。

もちろん、まともな弁護士であれば、そのような幼稚なクライアントの思考や感性を矯正するのでしょう。

しかし、弁護士の知能・経験レベルもクライアントと同程度であったりすると、
「大岡越前守・遠山金四郎的裁判所観」
という偏見を強固に抱き、裁判所を
「甘えられる親のような存在」
と措定し、子供のように甘え、
「天動説」
のように自分を中心にして、 自分の正義感や感受性の赴くまま、裁判官の受け取り方を意に介せず、マスターベーションよろしく、身勝手な主張を延々吐き出して、クライアントと一緒に、悦に入ってしまうこともあるかもしれません。

弁護士自身は相応に知性も経験もあるのですが、クライアントの
「大岡越前守・遠山金四郎的裁判所観」
という偏見が強固で、幼稚さ・未熟さが矯正不能で、ギャラをもらっているため、不本意ながら、クライアントのメガフォンとして、幼稚な訴訟活動をさせられることもあるかもしれません。

いずれにせよ、このような意味で
「幼稚」なクライアント
が、まず、訴訟に必敗するクライアントの特徴である、ともいえそうです。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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01724_訴訟で”必敗”してしまうクライアントの偏向的思考と習性:バカで、幼稚で、怠惰で、外罰的で、傲慢で、ケチなクライアントは訴訟で決して勝てない_(1)バカなクライアント

1 バカなクライアントとは、ゲームのロジックやルールを理解せずにゲームをおっぱじめるクライアント

この場合の
「バカ」
というのは、ゲームのロジックやゲームのルールを理解せずにゲームをおっぱじめる人間を指します。

そりゃそうです。

将棋のルールをよくわからないまま将棋を始めたものの、
なんか、相手がこちらの陣地に入って裏返した瞬間、駒が変わった動きをするけど、あれって何なんだろう?
なんて首をかしげている状況であれば、勝てるわけがありません。

2 世の中、大事なロジックやルールほど、教科書に載っていない

ところで、世の中、本質的かつ重要なロジックやルールほど、教科書に載っていませんし(よく読んでいたら、その手がかりのようなものがほんの少し載っているが、反対方向のノイズが多すぎて、全体として真逆のことが書かれていたりする)、新聞やテレビでも伝えてくれませんし、親も学校の先生も教えてくれませんし、ひょっとしたら、新聞やテレビを作っている人間も、親も学校の先生も、
「世の中における、本質的かつ重要なロジックやルール」
を実は知らないのかもしれません。

そして、このことは、民事裁判においても当てはまります。

裁判における本質的かつ重要なロジックやルールも、本や新聞や学校の教科書には載っていませんし、載っていても、わかりにくくしか書いておらず、なかなか把握困難です。

いや、
「偉そうに、自信たっぷりで、知的で、ジェントルで、エレガントで、いかにも頼りがいのありそうな、シブい中年の弁護士先生」
も、実は知っていないとか、知ったかぶっているだけとか、知っていても実践できていないとか、誤解しているとか、忘れちゃっているとか、無視・軽視・度外視して適当にやっている、なんてことがあるかのもしれません。

3 民事裁判のゲームとロジック

民事裁判のゲームとロジックですが、一般的には、民事訴訟法等で定められている、とされます。

しかし、これは、
「民事裁判におけるゼネラル・ルール」
のことです。

こちらは、法学部やロースクールでそのさわりくらいを勉強できますでしょうし、司法試験の勉強プロセスや司法研修所での研修で、大まかなことは学べます。

裁判で適用されるロジックやルールには、もう1つあります。

そして、このもう1つルールの方が圧倒的に重要であり、裁判の勝敗を基礎づけるくらい決定的なのです。

この
「民事裁判のローカル・ルール」
とも呼ぶべきものは、約2800通りあり、ブラックボックス化されており、しかも、
「ストーブの熱さを知るために、実際ストーブに手をくっつけて触って、大火傷を負ってからじゃないと知覚・認識できない」
といった赴きが如く、帰納的にしか認識され得ないものです。

4 民事裁判における「ローカル・ルール」

その中身は、事件の勝敗をどう結論づけるか(スワリ)、原被告双方の主張の論理性の優劣判断をどちらに傾かせるか(スジ) 、証拠をどう評価するか、法律をどのように適用するか(適用しないか)といったもので、いずれも、訴訟の勝敗を決定づけるものです。

こういう言い方をすると、
「近代的な日本の裁判システムが、そんなにいい加減で、デタラメで、予測不能なわけないだろ!」
という幼稚で愚劣な批判が巻き起こりそうですが、このことはキング・オブ・法律の、憲法が制度として保障しております。

5 民主体制下の日本で存在する約2800の「専制君主国家」

すなわち、憲法上、裁判官には、司法権を振りかざすに際して、指揮されたり、命令されたり、忖度しなければならない、上司や上長や上級機関といったものが一切存在しておりません。そして、裁判官は、天下御免のやりたい放題のスーパーフリーで司法権を振りかざせせる、とされています。

このことは、憲法76条3項に、職権行使独立の原則が謳われているほか、憲法上、手厚く独立性を身分保障をされていることからも明らかです。

総括すると、裁判所という、法律上の争訟を排他的に取扱い、当該争訟において国家意思を表明する国家機関は、さしづめ、
「専制君主国家の独裁君主」
といった趣の立場や権力や裁量が与えられており、民主主義体制を採用する我が国にあって、異彩を放っています。

司法試験を合格したエリート裁判官(簡裁判事を除く)は、2018年時点で2782名おりますが、極端な言い方をすれば、民主主義国家であるはずの我が日本には、
「(司法権が行使される局面において、という限定が付きますものの)指揮されたり、命令されたり、忖度しなければならない、上司や上長や上級機関といったものが一切存在せず、憲法から、天下御免のやりたい放題のスーパーフリーで司法権を振りかざせるパワーを与えられた、2800名弱の『専制君主国家』が存在し、そこで、独裁者がふんぞり返っている」
という見方も可能です。

6、裁判官が持つ、不気味で強大な権力

当然ながら、2800名もいる
「専制君主国家の独裁君主」
の中には、常識や良識が共有出来る穏当な方もいらっしゃるかもしれませんが、言葉が通じない、話が通じない、情緒が通じない、ただ、不気味に強大な権力をもっている、という方も少なからずいらっしゃいます。

そういう方が、特異な観察と特異な解釈と特異な評価を以て事件を観察した結果、こちらサイドとして
「主張内容が法律的に筋が通っており(法的論理性、スジ)、事件構図として主張内容の社会的・経済的妥当性があり(結論の妥当性、スワリ)、主張についても背景事情についてもそれぞれ明確な痕跡・記録(証拠)が手元にあり、相手の主張内容を尽き崩せる材料が手元にある」
と考えていても、突然、真逆の心証を抱き、何を説明しても一切耳を傾けず、そのまま権力を振り回して、突き進む可能性は、あり得るのです。

7、裁判ゲームの進め方・「ローカル・ルール」は帰納的にしか把握できない

原告も被告も、序盤戦(主張整理段階・書証提出段階)においては、民事訴訟法や要件事実論や経験則・認定則という、「ゼネラルな(雑駁な・アバウトな)ゲームのロジック・ルール」にしたがって、自らの主張の正当性を構築し、プレゼンします。

序盤戦が終わりにさしかかるころ、裁判官から、いろいろとサイン(といっても実にわかりにくい)が出され、きちんとした弁護士は、このサインを必死で読み解き、裁判官の心証形成状況の理解・把握に努めます。

というのは、前述のとおり、単純に総括して、
2800もの「専制君主国家の独裁君主」
がいて、それぞれ群雄割拠よろしく、独自のゲームのロジック・ルールを定めて運用しており、目の前の
「専制君主国家の独裁君主」様のロジック・ルール(感受性・経験則)
に照らして、
「『自分として必要かつ十分と考えている、話の説得性(スジ)と、それを示す痕跡(証拠)と、求める帰結の妥当性(スワリ)』が、果たして、受け容れられているか、拒絶されているか」
は、実際、裁判官にぶつけてみて、帰納的に把握するほかないからです。

このように、
「裁判におけるゼネラル・ルール」=マクロ的で普遍的な裁判ゲームのロジック・ルール 、
「裁判におけるローカル・ルール」=ミクロ的でスペシフィックなゲームのロジック・ルール
という二重構造のゲームのロジック・ルールを前提として、
「話の説得性(スジ)と、それを示す痕跡(証拠)と、求める帰結の妥当性(スワリ)」
の最適化を図るのが裁判というゲームの進め方になります。

8 ゲームのロジック・ルールを誤解したまま裁判を進める愚かさ

ところが、上記のようなゲームのロジックやルールを理解せず、
「天動説」
のように自分を中心にして、自分の正義感や感受性の赴くまま、裁判官の受け取り方を意に介せず、マスターベーションよろしく、身勝手な主張を延々吐き出して、悦に入っている愚かなクライアントがいます。

もちろん、まともな弁護士であれば、そのような愚かなクライアントの思考や感性を矯正するのでしょう。

しかし、弁護士の知能・経験レベルもクライアントと同程度であったりすると、上記のようなゲームのロジックやルールを理解せず、
「天動説」
のように自分を中心にして、自分の正義感や感受性の赴くまま、裁判官の受け取り方を意に介せず、マスターベーションよろしく、身勝手な主張を延々吐き出して、クライアントと一緒に、悦に入ってしまうこともあるかもしれません。

弁護士自身は相応に知性も経験もあるのですが、クライアントの愚劣さが矯正不能で、ギャラをもらっているため、不本意ながら、クライアントのメガフォンとして、ゲームのロジックやルールを無視した訴訟活動をさせられることもあるかもしれません。

9 焦ると、慌てると人間は確実にアホになる

あと、焦るクライアント、慌てるクライアント、時間的冗長性を欠如したクライアントは、確実にバカになります。

ノーベル賞を受賞した人間であろうと、東大教授であろうと、焦り、慌て、パニックになったら、一瞬で偏差値20のビリギャルクラスのアホになります。

知性とは、冗長性、時間的冗長性や精神的冗長性、さらには情緒安定性と同義です。

もちろん、基本的な知的・精神的基盤、すなわち、新規探索性、精神の開放性、思考の柔軟性、明朗な無い罰性(健全で明るく前向きな自己否定ができる謙虚さ)等があっての話です。

ただこれらは必要条件であって、時間的冗長性、精神的冗長性、情緒安定性があって初めて発揮できます。

簡単な連立方程式であっても、火事や地震の現場で、必死で逃げようとしている最中に、解いてもらおうとしても、東大卒の数学者であっても、間違います。

法律的なトラブルは、医学的な事案と異なり、1分、1秒の対処時間差で、どうなるものでもありません。

法的なトラブルに遭遇したら、まずは、落ち着くことです。

というよりも、諦めることです。

パニックになって、焦って、慌てて、精神的ゆとりを亡くし、また、他者への配慮も、聞く耳も持たないクライアント・当事者がいます。

こういう手合は、一応日本語で話していても、要約すると、
「とにかく、何とかしろ。時計の針を逆に戻せ。早くしろ、一瞬で直せ」
という無茶苦茶な命令か、愚痴を聞いてほしいか、同情を求めているか、という状況で、およそ、コミュニケーションが成立しないことが多く、ただただ、空回りし、
「やってしまったこと、起きてしまったことは、仕方ないとして、これを所与として、大事を小事に、小事を無事に近づける」
ために必要な論理的で秩序だった作戦を構築し、展開するための、時間と労力と機会がどんどん消失し、ますます、対策のためのコストが上昇していきます。

諦める、という言い方がムカつくようであれば、
「腹を括る」
という言い方もできますでしょうか。

とにかく、冷静さを亡くし、心を亡くし、知性を亡くした状態の人間を、トップに担いで、まともな作戦展開できるわけがありません。

頭がいい、悪いはさておき、まず、焦っている、慌てている、冷静さを欠いている当事者・クライアントは、
「バカなクライアント」
の最たる者ですから、まず、バカを治す、すなわち、
「自分が慌てて、バカになっていること」
をきちんと自己認識してもらい、そして、冷静さを回復して、バカを治してもらうことが必要です

10 小括

「バカ」
には色々なタイプがありますが、世間知らず、あるいは、自分の置かれた立場や、自分がエンゲージしているゲームのロジックやルールを知らずに、努力して、空回りして、成果を出せずに、無駄な時間とコストと労力を費消するのは、ハード・コア・バカだと思います。

こういう言い方もできるかもしれません。

引用開始==========================>
大事なことは努力することではありません。
ガンバルことではありません。
むしろ、目的から逆算した最小限の犠牲で十分なのであり、牛丼のキャッチフレーズではありませんが、早く、安く、それなりに、うまいことやった方がいいに決まっています。
方向性を誤って空回りしていても、努力は無意味です。努力は無意味どころか、時間を失います。
時間があればカネは作れますが、カネがあっても時間は買えません。
もうすぐ受験の季節がやってきますが、受験も同様ですね。たとえば、ここに東大を強く志望する高校生がいたとします。
この高校生が、一生懸命、走り込みや、筋トレをやっています。
曰く、
「ボクは、小学校の先生からも、中学の先生からも、公務員をやっているお父さんからも、専業主婦としてパートで頑張っているお母さんからも、ボクが大好きで尊敬する、善良を絵に書いたようなみんなから、こういわれて育った。『努力は尊い。努力はいつか報われる。失敗をおそれるな』と。だからこうやって、走り込みや筋トレをして、体を鍛え、誰にも負けない運動性能と体力を身に着け、東大に合格するんだ。こんなに、体力を鍛え、努力しているんだから、神様はきっと見放さない。いつか、ボクは東大に合格するはずだ」
と。
しかし、残念ながら、この高校生は、10年浪人しようが、50年浪人しようが、東大に合格することはないでしょう。
理由はかんたんです。東大の受験科目には、体育がないからです。
だから、どんなに走り込みをしたり、筋トレをしたりして、体育の点数を向上改善させても、それが、どんなに苦労を伴い、負荷がかかり、尊い、立派な努力であっても、その努力は、東大合格、という点に限っては、全く意味がありません。
なぜか。

努力が、目的に結びついていないからです。
努力が、目的から逆算された、合理的で有益なものではないからです。
もっといえば、そもそも、自分の適性や能力に見合った目的の設定がなされていなかったのかもしれません。

<==========================引用終了

いずれにせよ、ゲームのロジックやルールを知らず、あるいは理解を拒み、ロジックやルールを所与として、自分を最適化せず、ただただ、自分の言いたいことを言いたいように言う、を繰り返していると、学校で授業中一人暴れる行動と同じで、良き成果に結びつかず、迷惑がられて排除される未来しか待っていません。

他方で、この
「ゲームのロジックやルール」、
「裁判におけるローカル・ルール=ミクロ的でスペシフィックなゲームのロジック・ルール」
は2800通りもあり、ブラックボックス化されており、帰納的にしか認識され得ないものです。

加えて、

・そのような「ブラックボックス化された2800通りのローカル・ルール」の存在や意義・機能や、
・これがまかり通っている状況や、
・「民主主義国家であるはずの我が日本には、(司法権が行使される局面において、という限定が付きますものの)指揮されたり、命令されたり、忖度しなければならない、上司や上長や上級機関といったものが一切存在せず、憲法から、天下御免のやりたい放題のスーパーフリーで司法権を振りかざせるパワーを与えられた、2800名弱の『専制君主国家』が存在し、そこで、独裁者がふんぞり返っている」という事実

については、本や新聞に載っていない(注意深く読めば手がかりのようなものは書かれているが、腹が立つくらいわかりにくくしか書かれていない、逆のことを示唆することがアホほど書かれており、誤導されてしまう)し、親や学校の先生も教えてくれないし、あるいはそもそも知らないし、弁護士の中にも明確に理解できていない人間もいるかもしれない、という状況です。

もちろん、この種のゲームのロジックやルールを、きちんと教えても、
「そんなのは俺の常識と違う」
「裁判官がそんな非常識な横暴な権力を振り回すわけないだろ」
「日本は民主国家だし、組織である以上、上司や秩序があるはず」
「なんて、不愉快な予想をするんだ。先生は法律や裁判を判っていない!(注:言っている人間は法学部を卒業しているわけではないど素人で、言われている人間は東大法学部卒の弁護士です)」
などと吠えて、騒いで、理解を峻拒するような手合もいます。

そういうバカなクライアントが、まず、訴訟に必敗するクライアントの特徴である、といえそうです。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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