1 すべての法律が、「一義的な理論によって説明しうる絶対的・普遍的・ 科学的法則に基づくもの」といえるか?
そもそも、法律自体、理論や科学で説明できるものではなく、合理的な装いをまとった宗教に近い、単なる価値の体系であり、わかりやすく、身も蓋もない極論でいってしまえば、偏見の集積であり、特定のイデオロギーに過ぎません。
現代社会では、
「金利を付して金銭を貸す行為」
は法律上まったく問題ない正当な取引活動ですが、他方で、人身売買や奴隷労働の強制は完全な違法行為です。
数百年ほど前、ヨーロッパでは、
「金利をつけて金銭を貸す行為」
は完全明白かつ重大な違法行為である反面、人身売買や奴隷制度は全く問題のない適法行為とされていました。
また、今では、お酒は誰でも楽しめる嗜好品として手軽に入手し毎日呑んでも文句は言われませんが、かつてのアメリカでは、酒は違法薬物並に扱われた時代がありました。
現在、オランダでは、マリファナ(大麻の葉や花を乾燥させた物)やハシシ(大麻樹脂)などの大麻加工品の個人使用は罰せられません。
以上のとおり、
「人間は、生きている限り、本能と自由意志がある限り、ルールやモラルによって本能を抑えこむ、ということはおよそ不可能」
であり、かつ、
「そもそも、ルールやモラルの全てを把握しているわけではないし、知らないところでこれに抵触することなど普通に起こり得る」
ということがいえるのだと思います。
「そもそも、ルールの全てを把握しているわけではないし、ルール自体が常識の欠如した方が制定に関与しており、中身も常識や倫理とは無縁のもので、常識にしたがって常識的な行動をしたら、知らないところでこれに抵触することなど普通にあり得る」
ということは、もはや明らかでしょう。
2 普通の人間が普通に生活していても、一日に2,3の法律違反をしてしまう
実際、普通の人が普通に生きていれば、1日2つ3つの法律を犯します。
いえ、人を殺すとか、モノを盗むとかというレベルではなく、信号無視や駐車違反やスピード違反や駆け込み乗車といったライトなものを考えれば、実感いただけるはずです。
かつての大阪の御堂筋の駐車状況や、深夜の第二東名高速の車の飛ばしっぷりをみれば、
「実際、普通の人が普通に生きていれば、1日2つ3つの法律を犯します」
という話は実感をもって理解いただけるはずです。
ですので、除夜の鐘の数は108つでは足りず、1年365日で1日平均3前後の法令違反の通常人の平均値を考えれば、1000回くらい鐘をついてもいいくらいです。
こういう言い方をしますと、
「だったら、警察や検察や裁判所や刑務所がパンクするはずだ。そんなことにならないのは、法を犯す数がもっと少ないからだ」
という青臭い反論が返ってきそうです。
いえいえ。
法を犯したから、罪を犯したから、といって、必ず捕まって起訴され有罪となり刑務所に放り込まれるわけではありません。
3 すべての犯罪行為が罪に問われるとは限らない
例えば、日本では、年間15万件ほどの民事裁判(地裁第一審)が発生します。
そのうち、証人尋問までもつれ込むのが3割とみても約5万件が、ガチに争われる事件と推定されます。
原告か被告かどっちかウソをついていなければ裁判にならないはずですから、推定で年間約5万件前後の偽証行為が発生しているものと思われます(もっと多いかもしれません)。
ところで偽証罪の起訴件数については、古いデータですが、1995年から2014年までの10年間に偽証罪により起訴された件数は、たったの59件です。
年間数万件単位で発生する偽証行為に対して、起訴されるのが年間平均約6件と冗談のような数になっています。
これは、
「裁判ではウソが付き放題」
「裁判で偽証しないヤツがバカ」
ということを国家が暗に認めているようなものです(私は、臆病な小心者のせいか、ウソをついたり、そそのかしたりする度胸はなく、ウソをついたり、つかせたりすることはありません。なお、ウソをつかなくても、裁判に勝てる方法がちゃんと確立されていますので、仕事はそれなりにうまく行っています) 。
その他、駐車違反やスピード違反など、
「法を犯してもお咎めなし」
なんて事例は、世の中腐るほどあります。
いずれにせよ、
「だったら、警察や検察や裁判所や刑務所がパンクするはずだ。そんなことにならないのは、法を犯す数がもっと少ないからだ」
というのは明らかな誤りであり、起訴や立件はおろか、認知すらされない法令違反は、暗数ベースでの把握すら困難なほど、超絶的な数、日々発生しています。
このように考えると、つくづく、
「人間は、生きている限り、法を犯さずにはいられない」
ということは、歴史上も、経験上の蓋然性からも、容易に証明できる真実である、といえると思います。
4 「絶対、法を犯さない」という例外的な属性の方々
もちろん、例外はあります。
私の知る限り、
「生きていても、絶対、法を犯さない」
という人間は、この世に2種類しか存在しません。
すなわち、
「絶対、法を犯さない」
というタイプの方々が2種類ほどいらっしゃるのです。
いえ、カトリックの神父さんとか真言宗のお坊さんとかではありません。
カトリックの神父さんの児童の性的虐待や、お寺や神社の不祥事等をみれば、むしろ、
「どんなに立派(そう)な人間でも決して欲には勝てない」
というシンプルながら、パワフルな事実を再確認することができます。
「絶対、法を犯さない」
という最初のタイプの方々は、懲役刑を食らって刑務所に収監された受刑者の皆さんです。
受刑者の皆様は、別に、法令遵守意識が高いとか、精神が高邁・高潔というわけではありません(おそらく)。
普通の人と同じく、いや、普通の人以上に、欲に素直で、ルールやモラルに無頓着で、さらに言うと、大胆に法を犯したか、はっきりとした痕跡を残したか、あるいはその双方をやらかし、普通の人より大きなしくじりを犯した方々です。
ですが、受刑者の方々は、どんなに法を犯したくても犯すことは不可能です。
それは、内面の高貴さとか法令遵守意識の高さによるものではなく、24時間監視されて、自由が奪われ、社会との接点がないからです。
懲役刑というペナルティの本質は、
「普通の人なら、普通に生きて、普通に1日2つや3つの法を犯しつつ、娑婆で気ままに生きられる」
という自由があるが、懲役刑を食らうと、
「普通の人のように、気軽に、自由に、カジュアルに法を犯そうとしても、24時間監視され、社会との接点がなく、自由が奪われた状態で、気ままに法を犯せない」
という窮屈な生活を強いられる。
しかも、
「普通の人と同じく、いや、普通の人以上に、欲に素直で、ルールやモラルに無頓着」
というリベラルでファンキーな方に、普通の人より窮屈な生活を強いる、という苦痛を味わわせる。
ここに、懲役刑のペナルティとしての厳しさがあるのです。
「絶対、法を犯さない」
という属性をもつ方々がもう1タイプあります。
それは、皇族の方々です。
無論、皇族の方々は、性欲を制御できない神父さんや、カネが大好き過ぎておカネにまつわる事件を起こすような特定の宗派のお坊さんの方々と違い、気品と、気高さと、生まれ持った高貴さがおわしますから、ということもあるでしょう(多分)。
それ以上に、日本の皇族の方々は、24時間監視されて、自由が奪われ、社会との接点がありません。
偶然にも、刑務所の受刑者のライフスタイルと同じになっています。
だから、環境面、処遇面の制約から、罪を犯そうとしても、あるいは犯したくても、犯しようがない、ということもあり、(もちろん内面の気高さも大きなファクターもありますが)
「絶対、法を犯さない」
という特異な人生を送っておられるのです。
欧米の皇族には、監視もなく、自由を謳歌でき、社会との接点が多いせいか、
「普通の人と同じく、いや、普通の人以上に、欲に素直で、ルールやモラルに無頓着」
といったタイプの方もいらっしゃり、結構問題を起こしていらっしゃいます。
「象徴天皇制」、
言い換えれば
「天皇終身アイドル制」
という、大きな大きなお役目を負わされた挙げ句、刑務所の受刑者同様、24時間監視されて、自由が奪われ、社会との接点もなく、我々一般ピーポーのように気軽に罪も犯せない、なんとも窮屈な生活を強いられている日本の皇族の方々は、本当においたわしい限りですが、とはいえ、不満1つおっしゃらず、しっかりとお役目を果たされていることについては、頭が下がります。
これらの方々が、
「生きていても、絶対、法を犯さない」
のは、
「法を完璧に把握し、すべての法を尊重し、常にかつ完全に、高貴で品位を保ちエレガントな振る舞いをされているから」
というよりも、
「社会と隔絶された環境に置かれ、24時間監視体制下にあるから、たとえ法を犯したくても物理的に犯しようがないから」
というのが大きな理由です。
市井の我々は、現行犯として逮捕されたり、顕著な痕跡をおおっぴらに残すような真似をしない限り、1日2つや3つの法を犯しながら、自由に、気ままに生活ができます。
深夜の高速道路の自動車のスピード状況や、かつての大阪市内の路駐の状況をみれば、
「ごく普通の市民であっても、生きている限り、1日に2つ3つ法を犯しながら、生活している」
という事実はご理解いただけると思います。
前述のとおり、除夜の鐘が108とかいい108、煩悩は108程度ですが、普通に生活していたら、法令違反は1年間で軽く1,000を超えます。
我々は、そのくらい、日々法を犯しながら、平気な顔で生きているのです。
ところが、
・「法を無視ないし軽視するような性格・気質」を生まれ持っている、
あるいは
・「欲得やスリルや刺激を抑えきれず、法を犯すのが大好きな特異な精神傾向」
を有しているような特定属性の方々が、
「法を犯したくても、決して法を犯せない」
という状況に追い込まれる。
懲役刑というペナルティの本質的な意味は、どこかに閉じ込めておくことではなく、
「法を無視ないし軽視するような性格・気質」を生まれ持っている、
あるいは
「欲得やスリルや刺激を抑えきれず、法を犯すのが大好きな特異な精神傾向」を有しているような特定属性の方々が、
「法を犯したくても、決して法を犯せない」
という状況に追い込むことを以て懲らしめとする、という点にこそあるのではないか、と考えられます。
5 ライトな法令違反を犯しつつも普通に生活が送れるのは、プライバシー権のおかげ
前述のとおり、囚人でも皇族でもない市井の我々は、衆人環視の状況で現行犯を犯すような明白で愚かなことをせず、あるいは、犯人性や行為を示す顕著な痕跡を残さない限り、何時でも、気軽に、自由に、イージーに、法を犯せます。
そして、そのような環境を享受することが、人権として保障されています。
これが、プライバシーという権利の根源的本質です。
憲法というのは、
「すべての人間が、何時(いつ)何時でも、どのような状況にあっても、すべての法を守って、誰に対しても説明つく行動をして生きるべき」
という非現実的なまでに堅苦しい教条主義的前提に立たず、
「人間が生きている限り、法を犯さずにいられないが、囚人でもない限り、それを逐一目くじら立てて、すべてを監視下において、窮屈で息がつまるような生活を強制せず、自由気ままに、ときに、ちょっとした悪事や非行や法令違反を含め、やましいことや、後ろ暗いことや、説明できないことや、表沙汰にしてほしくないようなこともやらかしながら、生きていける環境こそが、人間らしく生きることであり、これを基本的人権として保障するべき」
という、
「実に、成熟した考えに基づく、粋で鯔背で世情に通じ、俗気にあふれる法理」
を内包しているのです。
いずれにせよ、刑務所の受刑者や皇族の方々(何かたまたま並んでしまってしまいましたが、他意は一切ありません)といった特殊な環境にある特殊な属性をもつような例外的な人々を別として、我々、一般ピーポは、生きている限り法を犯さずにはいられず、1日2つや3つ、人によっては4つや5つ、大晦日に鳴らす除夜の鐘は到底108で足りないような、そんな自由で気ままな生活を送って、(バレたり、痕跡を残したりといったヘマをしない限りにおいて、)楽しい人生を送っているのです。
著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所
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