00652_“げに恐ろしきは法律かな”その6:法律は、加害者や小狡い人間に優しく、被害者や無垢なカタギに過酷な、意外とワルでロックでパンクで反体制的なヒール(悪役)

これまでみてきたように、法律は、
非常識な内容を含み、
「日本語を使いながら、およそ日本語の文章とは言えないほど壊滅的にユーザビリティが欠如し、呪文や暗号のような体裁の奇っ怪で不気味な文書(もんじょ)」
であり、おまけに公権的解釈が複数存在し、何を信じていいか皆目不明で、
しかも、この民主主義の世の中において、極めてレアな
「独裁権力を振り回す覇権的で絶対的な国家機関」
によって、自由気まま、奔放不羈なスタイルで、わりと適当に解釈されちゃう、
という
「げに恐ろしき」
ものです。

そして、そんな法律は、決して、弱きを助け、強きを挫くものなどではなく、デフォルト設定としては、
加害者や小狡い人間に優しく、被害者や無垢なカタギに過酷で、意外とワルでロックでパンクで反体制的なヒール、
といったシロモノであり、やはり、つくづく
「げに恐ろしきもの」
なのです。

すなわち、
「法律」

「契約」
に書いてないことは、何をやってもいい。

やってほしくないことややられたくないことは、
あらかじめ、ミエル化、カタチ化、具体化、特定化、文書化、フォーマル化をした上で、
「法律」として作って公布しておくか、
やられたくない・やってほしくない相手と「契約」という形で取り交わしておかないと、
やられたい放題にされても一切文句を言えない。

そういう、
「やってほしくないことややられたくないことは、あらかじめ、ミエル化、カタチ化、具体化、特定化、文書化、フォーマル化」
をせずに、カタギの常識を持ち出して、法律に常識的な配慮を期待しても、ダメ。

そういう場合、法律は、
「え?  やってほしくないことややられたくないことがあったの? だったら、あらかじめ、ミエル化、カタチ化、具体化、特定化、文書化、フォーマル化して禁止したり制御したりしておかないと。え? そんなの無理? やっていないと? そりゃ、あんたがズボラこいたんだよ。ざ~~んねん。やられっぱなしもしゃないよ。自己責任、自業自得、因果応報ね。ドンマイ!」
と冷淡にあしらうだけです。

これは、別に、私(筆者)が、狷介で、悪趣味な、マイノリティ思考の嫌われ者だから(そういう一面があることは否定しませんが)、というわけではありません。

かなり前になりますが、こんな記事があります。

====================>引用開始
東京・丸の内の森綜合法律事務所(注:現・森・濱田松本法律事務所)。
18日、株式公開を控えたあるベンチャー企業の役員が集合した。
取締役会を開くためである。
顧問の小林啓文弁護士を交えて昼過ぎから深夜まで株式公開に向けた経営戦略を話し合った。
「自分から企業に出向くと拘束時間が長くなり、弁護士報酬の企業負担が重くなる」と小林弁護士。
顧問先企業のうち四社は法律事務所で取締役会を開く。
同弁護士の1時間あたりの報酬は平均4万5千円だ。
「小林弁護士はわが社の秘密兵器」。
ソフトバンクの孫正義社長もまた毎週1回、同弁護士と話し合う時間をとる。
不祥事への対応ではない。
経営戦略への助言を求めているのだ。  
「私の仕事は経営者の夢を構想に置き換え、それを(実現可能な)計画におろすこと」。
小林弁護士の真骨頂は法律を積極的に武器として使う戦略法務だ。
「ビジネスモデル特許をとって競争相手を縛りつけよう」
経済は常に法律に先行する。法律に書いていないことはやっていいことだ」。
過激にも聞こえるその発言に、企業経営者から「取締役に喝を入れてほしい」といった依頼が頻繁に舞い込んでいる。

以上、『第3部特権は誰のため(5)船団解体の兆し――競争に商機見いだす(司法経済は問う)』(日本経済新聞2000年1月31日朝刊) より
<====================引用終了

以上のとおり、天下(?)の森・濱田松本法律事務所のパートナーの著名な弁護士も、前記の前提見解に立って、サービスを提供されています。

結局、
「法律」という、
「加害者や小狡い人間に優しく、被害者や無垢なカタギに過酷で、意外とワルでロックでパンクで反体制的なヒール(悪役)」
に常識や理性や道徳や倫理を期待するのが土台無理な話です。

自衛策としては、
法をしっかり勉強し、あるいは
法をしっかり勉強した信頼できる弁護士をカネで雇い、
仕事やプロジェクトを進め上で生じるべきすべてのリスクを早期に発見・抽出・特定・具体化した上で、
「やってほしくないことややられたくないことを、あらかじめ、ミエル化、カタチ化、具体化、特定化、文書化、フォーマル化して、法律や取り決めや契約を作成するなり上書きして、リスクを制御する」
ということしかありません。

そんな資源動員ができるのは、一部の金持ちか企業であり、だからこそ、法は、常に、強きを助け、弱きを挫く、という残酷な帰結をもたらす現実となって無垢で無防備な一般庶民に襲いかかるのです。

こう考えても、やはり、
「げに恐ろしきは法律かな」
といえますね。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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00651_ドラマチックな要素が皆無の民事裁訴訟における証人尋問の実体

一般に、
「証人尋問は訴訟の最も重要で、ドラマチックな場面」
などと考えられているようです。

東京地裁が取り扱う民事事件については、連日、法廷において、
鋭い尋問、
動揺する証人、
喧々諤々とした論争、
丁々発止のやりとり、
連発される異議、
飛び出す新証拠、
傍聴席を埋め尽くすたくさんの傍聴人、
身を乗り出す裁判官、
などとテレビドラマのような熱気を帯びた法廷劇場が展開されている、とイメージされる方も多いのではないでしょうか。

しかし、実際の民事訴訟においては、傍聴人は、関係者が数人いる程度で、ほとんどが無観客試合の状態です。

この点で、まずは舞台イメージの問題として、拍子抜けするほど地味で、緊張感とか緊迫感はほとんどありません。

そして、そもそもの話になりますが、尋問の成果をアピールする相手である肝心の裁判官自体が、ハラハラドキドキを期待していませんし、ひどい場合は、
「今日、どこに飲みに行こうか」
と考えながら半分寝ていたり、あるいは完全に寝ている状態の裁判官もたまにいたりします(「裁判官も年季が入ると、魚のように、目を開けたまま寝られる」というウソかホントかわからないような噂話を聞いたことがあります)。

ちなみに、司法修習時代、実務修習で法廷の壇上に立って裁判官と同じ目線で本物の裁判を臨戦(観戦)するというプログラムがあるのですが、壇上で修習生で寝てしまうというライトな不祥事が結構な確率で発生します。

ご多分に漏れず、修習生であった私も尋問中に壇上で何度かやらかしましたが、その時、裁判官になるには、頭の良さよりも、忍耐力か、あるいは、
「当事者や代理人にバレないように、魚のように、目を開けたまま寝れる」
という特殊技能を実装しないと無理、と見切りました。

能力はさておき、この忍耐力とか特殊技能という点で、将来のキャリア選択について
「裁判官とかマジ無理」
と結論づけ、早々に選択除外した記憶があります(他にも、「裁判所という組織は、日本の組織の中でダントツに“支店数”が多くかつ極地や僻地に至るまで拡散しており、左遷先や転勤先が死ぬほど多いこと」に加え、かつ「悪事や非行を働いたわけでもないのに、定期的な左遷が実施され、突然、何年かに一度の頻度で、“都を追われ、配所の月を眺めること”がキャリアプログラムに組み込まれている」ということもあり、メトロポリタンの私としては「マジ勘弁」と思ったことなどの理由があります)。

さて、実務経験に基づく蓋然性を基礎とする判断をする限り、裁判官としては、ハラハラドキドキ、ドラマチックなサスペンスを期待するどころか、むしろ、そんな状況が目まぐるしく変わるような例外状況や異常事態など、却って迷惑(非常に迷惑)と感じています。

すなわち、よほどマイペースで無能な裁判官を除き、普通に空気を読める普通の能力をもつ職業裁判官は、証人尋問の
「前」
において、事件の勝敗の方向性(業界用語で「事件の筋」などと読んでいます)や心証は、主張の中身や書面の証拠だけでほぼ決定済みなのです。

こういう言い方をすると、法律実務を知らない学生などから
「予断と偏見を以て裁判するなんてことはあり得ないし、あってはいけない」
と青臭い反論がふっかけられるかも知れません。

無論、刑事裁判においては、建前として、
「無罪推定則がある以上、裁判所は予断と偏見を抱いていはいけない」
というフィロソフィーがある、ということになっています。

しかし、民事裁判については、言ってしまえば、
「たかが一般市民同士のつまらないいがみ合い」
です。

訴訟など、別に起こしても起こさなくてもいいし、訴訟を起こしてしまった後でもいつでも和解したり取り下げたり放棄してもいい。犬も食わない、猫もまたぐ、食えない、どうしようもない、無意味なケンカです。

そんな、当事者の都合でどうにでもなる、くだらない一般市民同士のしょうもないエゴの衝突、つまらない意地の張り合い、足の引っ張り合いが、民事訴訟の本質です。

そして、建前は別にして、本音や実体ベースで考察する限り、民事裁判官の最大の使命は、真実の発見でも、正義の実現でもなく、
「訴訟経済」
なのです。

すなわち、私人同士の揉め事など、
・お互い納得するか(あるいは裁判所がもつ「裁判官職権行使独立の原則(憲法76条3項)」という独裁権力をちらつかせて、脅しすかしの末、無理くり納得させるか)、
・相応の手続保障を尽くした上で、高裁や最高裁でひっくり返されないような設えを整え、相応の結論を出すか、
のいずれかの方法でチャッチャと終わらせることが重要なのです。

法とは、
正義とは、
真実とは、
事件の裏に何があったのか、隠された真相とは、
などと、アホなテレビドラマサスペンスのような無駄な悩みをもつ裁判官がいたとしたら、おそらく、滞留事件が多すぎて、最高裁事務総局から相当怒られ、
「関八州に立ち入るべからず」
といった感じで延々と僻地巡りをさせるか、とっくの昔に肩たたきをされて辞めさせられています。

国家が司法権という主権を握り締める以上、予算を割いてサービスとして民事裁判制度を国民に提供しなければならないため、公益性も乏しい私人同士のつまらんケンカに、頭が良くて給料の高い裁判官という公務員を雇い入れるなどして、裁判所という貴重な国家資源を整備することが求められます。

しかし、当然ながら、裁判所を運営するための国家資源(ヒト、モノ、カネ)は有限であり、しかも逼迫する国家財政においては、年金や景気や防衛や子育てなど他のもっと重要な政策目標達成のために使うカネを捻出するのに汲々としており、
「司法予算」などという
「『(比較的・相対的な観点で)カタギとしてまともに暮らしている限り、あまりお世話になることのない、特殊な属性の方のための病理現象』を解消するたため、というワリとどうでもいいことのために使う予算」
については、増やしたり充実させたりすることは困難です。

このように、予算も人員も絞られているため、裁判所という組織の最大の正義は、
「この貴重かつ有限な資源を、効率的に運用して、日本全国に発生する民事事件や刑事事件をすべて、迅速に解決すること」
となるのも頷けます。

これを別の表現をすれば、先程述べた
「民事訴訟における訴訟経済の最大限の追求」
という裁判所という国家機関にとって果たすべき最重要課題が導かれることになるのです。

訴訟経済や思考経済に資するのは、ハラハラドキドキや大逆転や大どんでん返しなどではありません。

むしろ、適切な相場観と予定調和に基づく
「予断と偏見」
を以て、個々の事件を効率よく、波乱なく、すんなり、すっきり、とっとと終わらせることが、訴訟経済に最も貢献します。

とはいえ、訴訟経済を追求した結果、あまりにデタラメや間違いが多すぎると、今度は、国民の裁判や裁判所や裁判官に対する
「信頼」
がなくなります。

「国民の裁判や裁判所や裁判官に対する信頼」
というのは、裁判所がもっとも気にかけるポイントです。

この
「国民の信頼」
というファクターは、国家主権の中の司法権という権力を独裁的に掌握する裁判所にとって唯一無二の権力基盤ですので、これを損ねることに対しては、裁判所はハイパー・ウルトラ・センシティブです。

国家主権のうち他の二権、すなわち、立法権を握る国会、行政権を握る内閣は、いずれも、メンバーなりトップなりが選挙で選ばれており、
「民主的基盤」
が明確に存在します。

ところが、
職権行使独立の原則をはじめとした特権(他にも、同年代の行政官僚と比べて給料が高い、オフィスが立派、官舎が広くて便利といった優遇措置など)が認められ、
司法権という(ときに違憲立法審査権を使って、立法作用や行政作用を吹き飛ばせる、という意味で他の二権を超越するくらい強力な)国家主権を独裁的・覇権的に行使できる
裁判所を構成する裁判官は、いってみれば、
単なる
「選挙も投票も経ることなく、ちょっと勉強が出来て、小難しい試験に合格した、小利口でチョコザイな試験秀才」
というだけの存在
に過ぎず、民主的基盤はほぼ皆無です(例えば、「ある地域の住民全員の賛同を得たので、私を当該地域を管轄する裁判所の裁判官にしてくれ」と最高裁事務総局にお願いしても、「お前アホか。勉強して、司法試験合格してから来い」と一蹴されます)。

国会議員や大臣は、
「皆の人気者」
でありさえすれば知性や教養や倫理や行動制御や品性が
多少「アレ」
でもなれることはありますが、裁判官だけは、どんなに人気があっても、原則として司法試験に合格しない限り、一生かかっても、死んでも、あるいは生まれ変わっても、なれません。

脱線しましたが、裁判所という組織については、
「訴訟経済」
という絶対的正義を追求しつつも、効率を追求した結果、漏れ抜けやデタラメやミスやエラーやチョンボが多発して、
「国民の信頼」
を損ねてはいけない、という組織課題もあり、このバランスを取りながら運営されています。

「訴訟経済」
ということを考えれば、
欲にまみれ、怒りに打ち震え、感情的になったケンカの当事者の、要領を得ず、いつ終わるかわからない聞くに耐えない愚痴を、親切に寄り添って聞いたりするより、
当事者が延々語る
「長~~~いワリに中身のない話」
をミエル化、カタチ化、洗練化、文書化、フォーマル化させて、文書と証拠として整理させた上で、ドライかつクールかつソリッドな体裁で
「筆談」
「文通」
ベースのやりとりをさせ、
それだけでチャッチャと結論出してしまえば、ラクだし、早いし、(当事者が喚いたり吠えたりする)情緒的なノイズも効果的に遮断され、これに振り回されることにより生じるべきミスやエラーもうまいこと防げます。

とはいえ、試験、例えば旧司法試験や現在の司法試験予備試験を例にとって考えてみてください。

択一試験や論文試験といった筆記試験に合格しても、実際、口述試験で会って話してみると、
「口下手を通り越して、コミュニケーションが全く取れず、まともな受け答えが不可能で、どう考えても法曹としての潜在的な適格性を欠いている」
という輩が紛れており、そういう例外的場合には(どんなに筆記でいい成績をとっても)不合格とせざるを得ない場合ということがありえます。

あと、優秀な成績で筆記試験で合格した後、口述試験の会場で登場したのが、
金髪で、
Tシャツ短パン姿で、
サングラスをかけ、
素足にサンダルで、
ごつい金のチェーンネックレスで、
巻き舌の関西弁でしゃべり、
250ヤード先からみても「まんまヤカラ」という人間
であれば、いかに筆記試験で優秀な成績を収めたとしても、いってみれば、
常識と倫理観が致命的に欠如した
「知能が高いというだけの、優秀な銀行強盗」
を法曹界に招き入れるというリスクが生じるかもしれないので、こういう人間も排除しなければならない。

このように、
「筆記試験に合格したことを以て、一定水準以上の能力を有する蓋然性が顕著で、合格の推定が相当程度及んでいる」
という場合であっても、選抜行為の質・完全性や、選抜者全体の信頼性を担保するため、
「推定を覆す万が一の事態に備え、消極的・保守的確認」
をする必要が出来します。

そして、このような消極的確認を行うもっとも端的な方法は、筆談や文通である程度、話の筋や関係者のキャラを把握した上で、
「関係者や当事者に実際会ってみる」
ということに尽きます。

証人尋問もそのような趣旨で行なわれます。

ただ、そのような消極的意味合いがほぼすべてといってよく、
「証人尋問で、何か新たに発見したり、何か新たな事件の方向性を見出したり」
ということは、基本ありません。

両当事者の筆談や文通も支離滅裂で、話の筋も皆目見えず、どっちもどっちの状態で、さらに直接会ってノイズ混じりの愚痴や与太話を聞いたら、余計に混乱しますし、
「訴訟経済」
という民事訴訟における絶対正義を追求する観点からは、こんな不経済で非効率な方法は絶対やっちゃアカン、ということは明白です。

したがって、証人尋問において、いきなり全然違う話が出てきてまったく想定外の展開が出てきたり、状況を完全にひっくり返ったり、ということは滅多に起きないし、訴訟経済第一主義の裁判官としても、そんなことを望んでもいないし、むしろ、そういうドラマチックな逆転劇を生理的に忌み嫌っているものと思われます。

ただ、主張としても、書証としても、圧倒的に不利に立たされた当事者としては、そういう状況は受け入れるわけにはいけません。

一見、きれいに整ったストーリーや文書の裏側に、これを覆す状況や背景を見つけ出そうと躍起になります。これを反対尋問で、しんねりこんねり、突きまくるわけです。

これに対して、裁判所は、
「訴訟経済」
すなわち
「予断と偏見」
を以て、事件の方向性を決めて尋問に臨んでいる可能性が高く(というかほとんどこういう前提状況であり)、よほどの例外的事態でもない限り、
「書証の面で不利な当事者が、反対尋問等で粗探しをして、些細な矛盾や齟齬や破綻を見つけて、鬼の首を取ったかのように快哉を叫んだ」
という状況があったとしても、裁判所としては、当初の方向性を変えることは少ないです。

結果、証人尋問で、(主に依頼者向けの)派手なパフォーマンスで、一見すると反対尋問で相手をやり込めたような状況があったとしても、
「(些細な破綻や矛盾や齟齬はあったが)書証を覆すほどのものではない」
として、尋問前にすでに決定している態度を変えることがない、というのが民事裁判の現場で起こり得べき現実の状況なのです。

いずれにせよ、
舞台設定としてもギャラリーが皆無で地味ですし、
訴えかける裁判官自体が勝敗を決めてしまっていてしかも冷めていますし、
弁護士が反対尋問で大声で威嚇したり、
さらに相手の弁護士がこれに対する異議を出したりしても、
裁判官としても、つまらんケンカを見ているようにやる気なさげで面倒くさそうにたしなめるだけ、
張り切っているのは、弁護士と証人だけ、
という感じで、全体的になんとも空疎で、気だるく、結論がほとんど変わらない、負けそうな側のガス抜きと裁判所の
「手抜き」批判
を交わすための、無意味なセレモニー、というのが民事証人尋問の実像です(とはいえ、優勢の当事者としても、あまりにいい加減なことをしていると、旧司法試験や司法試験予備試験で最後の口述試験で落とされてしまうようなドジを踏むが如く、証人が重要かつ不利な話をはじめて暴走し、突然、状況が一変するような流れになる可能性もあるので、消極的確認手続きとはいえ、おちおち手を抜くこともできませんが)。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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00650_合弁事業(ジョイントベンチャー、あるいはジョイベン)を行う合弁会社において、マイノリティシェア(株式割合半数未満)しか掌握できない場合の自衛措置の概要

合弁事業(ジョイントベンチャー、あるいはジョイベン)を行う合弁会社において、マイノリティシェア(株式割合半数未満)しか掌握できない場合に、合弁事業で後から泣きをみないためには、まず、合弁事業体の組織形態の選択からよく検討すべきです。

合弁事業体の組織形態として深く考えず
「とりあえず」
という形で株式会社が選択されますが、この辺りの思い込みから見直すべきといえます。

例えば、組合形態であれば、組合持ち分の譲渡は他の組合員の同意なしに行うことは困難ですし、単純な多数決原理ではなく、十分な議論を経た合意形成が重んじられます。

また、合同会社という選択もあり得ます。

すなわち、合同会社は、出資者は株式会社同様、有限責任しか負いませんが、法人統治は組合のような閉鎖的規律で運営されますし、また、出資者の交替には全出資者の了解を要し、加えて、合同会社の業務執行権は原則として全出資者が有します。

このように、有限責任のメリットを享受しながら、複数の企業が互いに他方の独断や横暴を防止し、納得と合意に基づいて合弁事業を運営したい場合、合同会社は非常に理想的な組織選択と言えるのです。

また、仮に、合弁法人として株式会社を選択するような場合でも、まずはマジョリティーシェアを要求すべきです。

「マジョリティーシェアが取れない場合まら、合弁事業を止める」
といって駄々をこねたり、ブラフをかますのも、道義上・倫理上はともかく、法律上・戦略上としては、全然アリです。

とはいえ、合弁相手とのサイズの問題、バーゲニングパワーの問題等で、どうしてもマジョリティーシェアを取れない場合は、合弁契約の内容において自らの権益を具体化し、マジョリティーシェアを掌握したパートナー企業の横暴を許さないようにしておくべきです。

さらに、自社がマジョリティーシェアを取れない場合、合弁会社が自らの関与なしでは身動きできないようにする、契約外の状況構築や非法律的な制御方法も考えるべきです。

例えば(ほんの一例ですが)、自社が合弁会社における調達や販売の排他的窓口となって合弁会社の商流を完全に掌握しておいて、相手先企業が不穏な動きをしようとすれば直ちに商流を制限するとか、商標権を自己名義で登録して合弁会社に貸与する形をとっておき、多数派のパートナーが不当なことを要求してきた場合には、報復措置として商標ライセンスを停止しつつ解決の糸口をつかむ、といった方法です。

中国の易経に
「治にあって乱を忘れず(治而不忘乱)」
という言葉がありますが、
「リスクの高い事業を、打算と欲得だけで結ばれた関係で、見知らぬ相手と一緒に遂行する」
という合弁事業の本質をふまえ、リスクシナリオをしっかり描き、後で泣きをみないように十分な予防策を講じておくべきです。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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00649_合弁事業(ジョイントベンチャー、あるいはジョイベン)を行う合弁会社において、マイノリティシェア(株式割合半数未満)しか掌握できない場合の自衛措置の必要性・重要性

一般論としては
「合弁契約が曖昧なものではダメ」
ということが言えますが、マジョリティーシェア(50%超の株式割合)を有するのであれば、当該合弁パートナーサイドは、合弁契約が雑な内容であることを気に病む必要はありません。

すなわち、合弁契約が粗雑、曖昧、無内容な場合であっても、それで合弁会社(株式会社)の運営が不可能になるわけではなく、単に会社法が適用されるだけだからです。

そして、会社法においては、株主同士の意見対立は単純な多数決原理で決せられることになります。

要するに、意見対立が起こった場合、いかに少数派が筋の通った主張をしようが、多数決を握る側の意見がすべて通ることになります。

例えば、
「自己の持ち分を無断で第三者に売り飛ばし、合弁契約の遵守を売却先に求めず、トンズラする」
という合弁パートナーの行動は決してお行儀がいいとは言えませんが
「契約上『やっていけない』と明記されていないことは、すべてこちらの自由。多数決原理に従って利己的に行動して何が悪い!」
という主張は、道義上・倫理上はともかく、法律上・戦略上は極めて正しく、結果として、マイノリティシェアしか持たない合弁当事者が何を言っても、相手に責任追及することは困難と考えられます。

逆に言えば、少数派株主として合弁参加する側としては、合弁をはじめる前に、多数派株主たる合弁相手のこの種の横暴を防止すべく
「株式を無断で譲渡することの禁止」
「株式を譲渡する場合における合弁相手側の先買権(First Refusal Right)」
「違反の場合のペナルティ」
等といった措置を、合弁契約においてきっちりと定めるべき、ということになります。

そのような予防措置・自衛措置を怠った場合、残念ながら、マイノリティシェアしか持たない合弁当事者は、
「多数決原理の前では、壊滅的に非力なマイノリティー」
と言うほかなく、自業自得・自己責任・因果応報の理として、多数株式を掌握した合弁当事者が横暴に振る舞い、合弁会社を単独で支配して好き勝手をする事態を指をくわえて見ているほかありません。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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00648_合弁事業(ジョイントベンチャー、あるいはジョイベン)を行う上での法的リスクと予防・排除の基本(合弁契約作成の基本的方向性)

合弁事業については、例として適切とはいえませんが、犯罪も事業も、リスクのある行為を行うという点では同じなので、アナロジーとして、共犯事例を使って、解説します。

一般的に、共犯におよぶ場合、2人以上の者が、共同して犯罪を実行する意思を形成し、犯罪実現に向けて共同するという
「相互利用補充関係」
が形成されることで、単独犯の場合より犯罪成功の確率が高まると言われています。

例えば、1人でセキュリティのしっかりした銀行に対して強盗で押し入ろうとすると、準備や段取りが大変となり、また、脅している間に、多数の行員や警備員に反撃されて取り押さえられたり、あるいは、大量の現金をトロトロ持ち運んでいる間に捕まったり、と成功確率が大きく下がります。

他方で、映画
「オーシャンズ11」シリーズ
等をみても明らかなとおり、計画を練る人間、計画予算を調達する人間、カネを出す人間、セキュリティを破る人間、計画を実行する人間、カネを運ぶ人間、逃走を助ける人間と役割分担を行えば、準備や段取りもスムーズになって計画実現までの時間が大いに短縮されるほか、1人で計画・実行する場合に比べて成功確率は格段に向上します。

合弁事業であれ、共犯であれ、合理的思考の帰結として
「徒党を組んで、役割分担し、リスク分散し、全体成功率を高める」
という同様の選択を行うことは、十分うなずけます。

他方で、事業であれ犯罪であれ、誰かと共同で
「リスクがあるが、成功した場合の旨味もあるプロジェクト」
を行う場合、一人で行う場合とは違ったリスクも浮上します。

共犯の例を使って説明すると、共犯形態でリスクの高い犯罪を実行する場合、役割分担や犯行道具の準備の分担等の取り決めも大切ですが、決め事としてより大切なのは、途中で犯罪が発覚した場合の逃走ルートの確認や、誰かが捕まった場合の弁解のシナリオや、仲間割れをした場合の紛争の解決方法等
「ウマくいかなかったケースの想定と、対処の取り決め」
です。

そして、この理は、合弁事業の法的リスクの予防、すなわち合弁契約作成の際にも当てはまります。

すなわち、合弁契約においては、
事業立ち上げまでの役割分担設計が想定と違った場合における追加資源動員の責任分担、
事業の赤字が続いた場合の追加投融資の責任分担や、
出資企業が脱退したくなった場合の処置、
企業運営において意見の対立が生じた場合の打開方法等、
不愉快な事態をより多く想定し、その際の解決のルールをきちんと取り決めておくことが重要となります。

しかしながら、破綻したときや仲が悪くなったときのことを細かく取り決めようとすると、伝統的日本企業の悪しき思考習性として
「これから成功を夢見て仲良く一緒にやっていこうというときに、水を差すような無粋なことをするな」
等と非難されて、法務セクションや顧問弁護士のアドバイスは無視され、合弁契約は極めて曖昧で無内容なものになってしまいがちです。

その結果、現実に合弁事業の破綻やパートナー間の深刻な意見対立等が生じた場合、お互い曖昧な内容の契約書を手に取って、長期間の不毛な裁判を争うことになることが多くなるのです。

他者と良好な関係を構築するためにもっとも必要な前提は?

相手を信頼すること?

違います。

他者と良好な関係を構築するためにもっとも必要な前提は、
「トコトン相手を信用しないこと」
です。

ケンカをするなら、早い方がいいです。

最初に波風を立てておかないと、後から津波が襲いかかります。

共犯形態での犯罪遂行であれ、合弁事業によるビジネス展開であれ、相手のキャラクターや信頼度が成功の決め手になります。

共犯形態での犯罪サスペンスを描いた映画やドラマで、犯人が失敗するパターンとしては、昨日今日知りあったばかりで、人間性をよく理解していない人間とチームを組んでしまい、パートナーがドジを踏んだり、裏切ったりして、捕まる、というのがお決まりのパターンです。

他方で、家族で犯罪を行う場合や、兄弟で犯罪を行う場合、ルパン三世のチームのように古くからの知り合いで共犯を形成する場合は、わりと成功確率が高くなります。

合弁事業も同様であり、古くから商流の接点があり、お付き合いがあるようなところと合弁をする場合は成功確率が高くなります。

とはいえ、古くからお付き合いがあり、信頼できる相手であっても、未経験の事業をリスクとダメージを背負い込みながら共同で行う、といった負荷のかかる状況においては、別の人間性が露見して、いがみ合うことになるかもしれません。

ましてや、知り合って日が浅く、欲得や打算だけで、共同事業を描いたような相手と合弁事業を行う場合、相当警戒と保守的思想で、リスクに関するストレステストをしっかり行い、判明したリスクに対する予防措置を行っておかないと、ちょっとした想定外の事態で、いとも簡単に関係は瓦解します。

そして、関係が瓦解する際には、必ず、壮大な時間とコストとエネルギーを費消する、仁義なき法的紛争が待ち構えております。

「トコトン相手を信用しない」
という思考前提で、
うまくいくまでの資源動員の押し付けあい、
必要な準備や段取りのサボタージュ、
うまく行かなかった場合の責任のなすりつけあいや、
うまく行った場合の成果配分をめぐる仲間割れ
等、ありとあらゆる不愉快な想定を、なるべく早期に、なるべく具体的に行い、これを
「ミエル化、カタチ化、具体化、文書化」
した上で、契約書にどんどん盛り込みあるいは上書きしていく。

これが、合弁事業のリスクを予防するために行う
「合弁契約」
という企業法務的営みの本質です。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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00647_合弁事業(ジョイントベンチャー、あるいはジョイベン)を行う上での法的枠組

合弁事業を行う際、どのような法的枠組みを使って、この経済的プロジェクトを具体化・現実化させていくのでしょうか?

民法上の組合(パートナーシップ)や有限責任事業組合(LLP)といった組合の形式や、合同会社(LLP)と言われる特殊な法人を作る場合もありますが、一般的に用いられる(圧倒的に多くの)合弁事業の運営主体は、株式会社です。

多くの合弁事業法人が株式会社という組織形態を選択される理由ですが、これは深い思考の結果というよりも
「株式会社という事業組織が一般的で馴染みがあり、統治秩序もイメージしやすく、また、他の組織形態のことを勉強するのが面倒だから」
ということのようです。

そして、合弁事業を行う会社(パートナー企業)それぞれが、合意した割合での出資を行うことによって新たな株式会社(合弁会社)を設立し、出資者の間で出資比率や企業運営の具体的方法(どの会社が何人の役員を送り込むか)等を取り決め
「合弁契約」
として書面化して、事業を開始します。

要するに、2つの会社(3つでも4つでもいいのですが)が新たな事業を構想して共同で推進する場合、当該事業を担わせるために両社のDNAを併せ持つ
「子供」
を新たに産み落とし、その
「両社の信頼の結晶たる子供」
に各会社の経営資源(ヒト、モノ、カネ、チエ、コネ等)を注入し、合弁事業を担わせる、という仕組みです。

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00646_合弁事業(ジョイントベンチャー、あるいはジョイベン)を行う経済的動機・背景

合弁事業(“Joint Venture”略して「ジョイベン」などと呼ばれる)とは、2社以上の会社が共同で経営資源を持ち寄り、1つの事業を立ち上げることをいいます。

企業が合弁事業を行うのにはいくつか理由がありますが、その大きな理由の1つとしては、リスクの分散が挙げられます。

特に、規模が大きく新しい事業を立ち上げようとする場合、企業にはさまざまなリスクを負担しなければなりません。

自分の不得手な事業分野や土地勘のない分野で勝負する場合や、進出事業分野に適合した経営資源が自分の手元になく新たに調達しなければならない場合、単独で新しい事業を立ち上げるには、大きなリスクが生じます。

そこで、複数の企業がお互いの強みを持ち寄り、あるいは弱点を補う形で事業を立ち上げ、リスクを分散すれば、事業の成功の確度も格段に上がることになる、という算段の下に、共同事業をやろうということになるわけです。

これは、犯罪を行う場合も同じ理屈があてはまります。

一般的に、共犯におよぶ場合、2人以上の者が、共同して犯罪を実行する意思を形成し、犯罪実現に向けて共同するという
「相互利用補充関係」
が形成されることで、単独犯の場合より犯罪成功の確率が高まるといわれています。

例として適切とはいえませんが、犯罪も事業も、リスクのある行為を行うという点では同じです。

合理的思考の帰結として
「徒党を組んで、役割分担し、リスク分散し、全体成功率を高める」
という同様の選択を行うこともうなずけます。

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00645_企業法務ケーススタディ(No.0223):債権管理・回収ってどうすりゃいいの!

本ケーススタディの詳細は、日経BizGate誌上に連載しました 経営トップのための”法律オンチ”脱却講座 シリーズのケース30:債権管理・回収ってどうすりゃいいの!をご覧ください。

相談者プロフィール:
眉田企画株式会社 代表取締役社長 眉田 豊代子(まゆた とよこ、42歳)

相談概要:
相談者の会社では、代金回収の際トラブルが頻発し、 今年に入って営業マンが10人も辞めていきました。
ノルマがきついうえ、注文取りと代金回収が同じ営業が行っていることに問題がありそうです。
以上の詳細は、ケース30:債権管理・回収ってどうすりゃいいの!【事例紹介編】をご覧ください。

本相談を検討する際の考慮すべき法律上の問題点1: 債権の管理・回収という仕事
比較的小額の商品を取引対象とする消費者向けのビジネス(BtoC)においては、馴染み客が売り掛けやツケで飲み食いするような場合を除き、ほとんどが物やサービスと代金が交換されますので、債権管理や回収を明確に意識しなくてもビジネスは運営できます。
他方で、企業間取引(BtoB)や高額な物やサービスの取引、さらには売る側が弱い立場にあったり、あるいは売掛リスクよりビジネス拡張を重視して営業をかけるような場合は、物やサービスを提供した側(売り主やサービス提供者)は、提供した時点では代金ではなく債権、すなわち、
「支払い約束」
あるいは
「買い主から支払いをしてもらえる権利」
を受け取り、決められた期限に
「債権弁済」
あるいは
「支払い約束を履行」
してもらう形で、現実のお金を受け取る、という二段階のプロセスを経ることになります。
債権が現金に変わるまでの間、不安と危険を感じながらフォローとケアをするプロセスが、債権管理・回収といわれる業務の本質です。
以上の詳細は、ケース30:債権管理・回収ってどうすりゃいいの!【債権の管理・回収という仕事】をご覧ください。

本相談を検討する際の考慮すべき法律上の問題点2:「ビジネスマター」から「リーガルマター」へ
債権支払の期限が遅れたり支払額が十分でなかったりした場合は、一旦
「延滞事故」
とし、その上で、改善されるようなレベルなのか、あるいは、契約紛争や回収事件や回収不能状態になったのか、を見極めることになります(債権管理)。
合理的期間内に自主的に回収が困難となった場合は、法律や裁判やこれらを駆使し得る社内外の専門家(社内弁護士や顧問弁護士等)の協力を得て、強制的に回収する方策を企画し、
「債権を現金に変質させる」
業務に移行します(債権回収)。
以上の詳細は、ケース30:債権管理・回収ってどうすりゃいいの!【「ビジネスマター」から「リーガルマター」へ】をご覧ください。

本相談を検討する際の考慮すべき法律上の問題点3:回収専門部門の設置を
「購入を依頼する立場の営業部門」
が、ある時(支払事故)を境に当該取引先に対し厳しい取り立てを行うのは、営業担当者に心理面で大きなストレスを与えます。
推奨されるのは、債権の管理・回収は営業部門とは異なる回収専門の部署(総務部等、他部署との兼任でもかまいません)を設置することです。
以上の詳細は、ケース30:債権管理・回収ってどうすりゃいいの!【回収専門部門の設置を】をご覧ください。

モデル助言:
社長直轄の債権管理・回収部門を設置してはどうでしょうか? 
法務、総務、経理といった間接部門の方に兼務させてもいいでしょう。
営業マンは営業に専念し、塩対応が得意な人は塩対応に徹し、事件になったら弁護士に依頼する、こういうシステマティックな処理プロセスをきちんと整備すると、客の方も諦めて払ってくれるかもしれませんね。
以上の詳細は、ケース30:債権管理・回収ってどうすりゃいいの!【今回の経営者・眉田社長への処方箋】をご覧ください。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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00644_“げに恐ろしきは法律かな”その5:「法律」はわりと適当に解釈される

非常識な内容を含み、
「日本語を使いながら、およそ日本語の文章とは言えないほど壊滅的にユーザビリティが欠如し、呪文や暗号のような体裁の奇っ怪で不気味な文書(もんじょ)」
であり、おまけに公権的解釈が複数存在し、何を信じていいか皆目不明の、
「げに恐ろしき」
法律ですが、
そんな代物でも、最終的に解釈運用する方々が、ある程度理解可能で判別可能なシキタリや運用哲学やプロトコルにしたがって、きちんと堅実に使っていただければ、という一縷の望みを託したくなるものです。

しかし、そんなかすかな望みが無残に打ち砕かれるような話ですが、法律は、わりと適当に解釈されちゃいます。

法の最終的な解釈運用権限は、いうまでもなく裁判所という奉行所(国家機関)に託されています。

では、その裁判所は、どういうシキタリや運用哲学やプロトコルにしたがって、法の最終的解釈権限を行使するのでしょうか?

「法の最終的解釈権限」
という強大な権力を託され、これを振るう国家機関である裁判所を構成する裁判官は、さぞ規律がしっかりしており、ルールで雁字搦めにされ、個性が否定されるだろう、というのが通常の発想だと思われます。

ちなみに、行政官僚(国家機関たる各大臣の補助機関たる官庁に勤める公務員の皆さん)は、
「法律による行政」
「絶対的上命下服」
の2つの原理で厳しく規律されています。

仕事に個性を発揮するということは、法律の軽視や指揮命令の混乱につながるため、厳しく禁じられ、ひたすら個性を埋没させ、私情を排して公正・公平な法を実現します。

そして、行政官と裁判官は、バックグラウンドも出身大学も試験科目もライフスタイルも酷似しています。

すなわち、
だいたい同じように小さいころからお勉強ができ、
だいたい同じように東大や京大を始めとするやたらと受験偏差値が高い難関大学を卒業し、
だいたい同じように大学では調子に乗ってフラフラ遊ぶことなくお勉強に勤しみ、
だいたい同じような小難しい法律の試験(司法試験や国家公務員試験)をパスして、
だいたい同じように小難しい顔やつまんなそうな顔をして地味なスーツを着てつまんなそうに仕事をしている、
だいたい同じように話しても理屈っぽく細かく退屈でつまんなそうなタイプの方々(注:以上は、世間的なイメージを私が推定したものであり、実際はそうでないかもしれません)
です。

行政官と裁判官は、このようにバックグラウンドも出身大学も試験科目もライフスタイルも酷似した公務員であり、裁判官は、公務員以上に、重大な権限を振るう厳かさが求められます。

すなわち、日本国においてもっとも強大な権力である法の最終的な解釈運用権限を振るう裁判官ともなれば、行政官僚と同様、あるいはそれ以上のとてつもなく厳しい規律に服し、何から何まで雁字搦めの窮屈この上ない生活を強いられるのであろう、と思われます。

しかしながら、事情はまったく逆で、裁判官は、上司もおらず、個性と私情を発揮して、さしづめ
「やりたい放題」
なのです。

しかも、
「裁判官が、個性の赴くまま、やりたい放題で仕事してもいい」
ということは、なんと、法律の親玉、キング・オブ・法律である、
「憲法」
に明記されているのです。

憲法76条3項をみてましょう。

「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」
とあります。

枕詞や無意味な修飾語を省いて、シンプルに再記述しますと、
「すべての裁判官は、独立してその職権を行ってよい」
すなわち、
「裁判官は、天下御免の勝手次第で、誰の命令に従うことなく、独立して職務をして差し支えない」
と憲法が明言しています。

裁判官が、その職務権限を行使するにあたっては、外部の権力や裁判所内部の上級者からの指示には拘束されないことが憲法上保障されているのです。

この憲法76条3項、裁判官職権行使独立の原則などといわれますが、私のような一般庶民でもわかるような言い方に直せば、
「裁判官やりたい放題の原則」
ともいうべき、リベラルで、反体制的で、パンクで、ロックンロールな憲法原理です。

例えば、行政官が、
「この法律は、私の良心や憲法解釈に反するので、個人の判断として執行をしません」
とか言い出すとそれだけで大問題となります。

他方、裁判官は自分の良心と自身の憲法解釈・法律解釈に基づき、気に食わない当事者に敗訴を食らわしたり、自己の憲法解釈からして許せない法律や行政行為を違憲無効と判断したり、一見して憲法に反するおかしな法律制度であっても維持したり容認したり、することができるのです。

こういう言い方をすると、
「はあ? 何いっちゃんてんの? 東京地裁に勤めるそこらへんのヒラの裁判官も、普通のサラリーマン同様、裁判所のトップである東京地方裁判所所長にヘーコラ頭下げて、揉み手でご機嫌を伺いし、きちんと指揮命令や叱咤激励にしたがって、組織人として宮仕えするんでしょ! それに、東京地裁の上に東京高裁ってのがあるじゃん! 東京地裁の裁判官といえども、東京高裁の裁判官や、東京高裁の長官の指示や命令に逆らえないでしょ!」
という声が聞こえてきそうです。

いえ、違います。

やっぱり、憲法が明記するとおり、
「裁判官は、天下御免の勝手次第で、誰の命令に従うことなく、独立して職務をして差し支えない」
のです。

その天下御免、自由奔放っぷりは、絶対的なものであり、たとえ地裁のしがないヒラ裁判官であっても、相手が地裁所長であれ、高裁長官であれ、最高裁長官であれ、内閣総理大臣であれ、天皇陛下であれ、アメリカ合衆国大統領であれ、ローマ法王であれ、どんな偉くて立派な人の言うことであっても、ビタ1ミリ聞く耳を持つ必要がなく、文字通り、やりたい放題、法を解釈運用して差し支えない、というスーパーフリーの状態を意味します。

ちなみに、上記憲法に明記された大原則を無視ないし軽視し、前述のとおり、
「地裁に勤めるそこらへんのヒラの裁判官も、普通のサラリーマン同様、裁判所のトップである地方裁判所所長にヘーコラ頭下げて、揉み手でご機嫌を伺いし、きちんと指揮命令や叱咤激励にしたがって、組織人として宮仕えする」べき、
という、
「実に常識的というか、微笑ましいというか、未熟で無知というか、普通のサラリーマン同様の陳腐な考え」
に基づき行動してしまい、
その結果、世間を騒がす大しくじりをやらかした(ある意味、微笑ましいほどに一般ピーポーな)地裁所長がいらっしゃいます。

長沼ナイキ訴訟という事件に関連した
「平賀書簡事件」
で、憲法に悖る大チョンボをやらかした平賀健太という札幌地裁所長さん(当時)です。

「長沼ナイキ訴訟」
という事件については、話せば長くなるのですが、ごくかいつまんでお話をしますと、ベトナム戦争中、日米安保問題で国を賑わす安保論争が巻き起こっていた最中の1969年、航空自衛隊が北海道夕張郡長沼町馬追山に
「ナイキ地対空ミサイル基地」
という基地を建設しようとしました。

そうしたところ、この建設の障害となっていた国有保有林を伐採するため、当時の農林大臣が森林法第26条第2項に基づいて国有保安林の指定を解除しました。

これに反発したのが麓の一部の地域住民で、
「保水力が低下して麓に暮らす自分たちの生活が危険にさらされるし、さらにいうと、そもそも自衛隊は違憲の存在である」
などいったことを理由に
「基地建設に公益性はなく、保安林解除は違法なので、解除処分を取消せ」
という、(保守的なエスタブリッシュメントからすると)反体制的で反国家的な訴えを札幌地方裁判所に提起するに至りました。

この札幌地方裁判所の第一審を担当したのが福島重雄を裁判長とする合議体を構成する3人の裁判官でした。

当然ながら、 憲法が
「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」
と保障しているとおり、地裁所長であれ、高裁長官であれ、最高裁長官であれ、内閣総理大臣であれ、天皇陛下であれ、アメリカ合衆国大統領であれ、ローマ法王であれ、どんな偉くて立派な人の言うことであっても、福島裁判長は、ビタ1ミリ聞く耳を持たなくてよく、独立してやりたい放題法解釈運用をして良いはずです。

そうなると、ひょっとしたら、
「こんなミサイル基地建設に公益性はなく、保安林解除は違法なので、解除処分を取消した方がいいじゃん!」
という保守的なエスタブリッシュメントが聞けば卒倒しそうな、スーパーリベラルで驚天動地の判決が出ちゃうかもしれません。

しかも、そんな(保守的エスタブリッシュメントからすると)容認しがたい驚天動地の椿事が起こるかどうかは、福島裁判長の胸三寸で決まる、というかなりあやふやで不安定な状況です。

こんな、
「保守的で親米的で体制擁護的な良識あるエスタブリッシュメントからすると悪夢のような事態」
を恐れ、これを回避しようとしたのが、当時の札幌地裁所長の平賀健太という(保守的で、ゴリゴリの)オジサマです。

1969年9月14日、平賀健太札幌地裁所長は、訴訟判断の問題点について原告の申立を却下するよう示唆した
「一先輩のアドバイス」
と題する詳細なメモを、事件を担当する裁判長である福島重雄氏に差し入れました。

いや、これはアカンでしょ。

憲法76条3項に反するでしょ。

しかも、法の番人、憲法擁護の最後の砦の防人たる地裁所長がやらかした。

これはアウトです。

この事件のポイントですが、
・平賀というオッサンが、憲法を遵守すべき裁判所長という立場にありながら、加齢による認知や記憶力の低下によって憲法の学習成果が脳内から消失してしまったのか、あまりに頑迷な保守的思考のため強度の偏見により認知が歪んだせいかはわかりませんが、とにかく、法の番人でありながら、大事な大事な憲法76条3項のことが、脳の中からすっぽり抜け落ちてしまっていた(第1のしくじり)、
・しかも、証拠が残らないように、口頭で指示すればいいのに、リスク管理能力も低かったせいか、この平賀というオッサン、わざわざ自分のやったことが証拠に残ってしまう「メモにして渡す」というメッセージ伝達方法を選択した(第2のしくじり)、
・さらに、悪いことに、これを受けた福島裁判長は、武士の情けや惻隠の情を働かせ、黙って、「平賀所長、こんな憲法違反だめでしょ」とたしなめて、メモを返して穏健に指摘してあげることが可能であり、そうすれば穏便な形で話が収束したにもかかわらず、
・福島裁判長は、そのような粋な計らいをするどころか、決定的証拠であるメモを確保し、これ鬼の首を取った如く誇示して、「ほらほら、皆さん、みてみてみて! こいつ、こいつ、この所長! 法の番人、憲法を守る最後の砦の防人であるにも関わらず、憲法を全然わかっていないぞ! こんな野蛮な法の無知の極みのオッサンは、裁判官としてふさわしいのか!」といいった形で大声を上げて、事態をことさらに大事にし、晒し者にして、社会的にリンチして血祭りに上げる、というスーパー・サディスティックな方法を選択する、平賀さんにとっては悪夢のような人物だった(不幸な状況)、
という、いくつかのしくじりと不幸が重なり、ということで、特異な道筋をたどり大事件に発展していくことになりました。

このように、この1件は、
「平賀書簡問題」
となって、世間を揺るがす大事件となりました。

すなわち、平賀所長がメモを作成交付して、福島裁判長に一定の釘刺しを行った行為は、
「裁判官の独立」
を規定した日本国憲法第76条第3項に違反するとされました。

最高裁判所事務総局は、平賀所長を呼び出し、注意処分としました。

案の定というか、福島コートは、前記のような
「所長風情が何を偉そうに、メモとか出して、マウント取ろうとかしちゃってんの? そんな憲法わかっとらん所長は晒し者にして血祭りにしてくれてやる」
というくらい、パンクでロックでリベラルな福島裁判官が率いるところでしたから、出した判決も国に対して中指を突き立てるようなものでした。

すなわち、
「自衛隊は憲法第9条が禁ずる陸海空軍に該当し違憲である」
とし
「世界の各国はいずれも自国の防衛のために軍備を保有するのであって、単に自国の防衛のために必要であるという理由では、それが軍隊ないし戦力であることを否定する根拠にはならない」
という理由で、原告・住民側の請求を認める違憲判決を下しました。

ここまでは勇ましい話なのですが、やはり、揺り戻しというものはあります。

後日談としては、福島コートの判決は、その後、札幌高等裁判所と最高裁判所によって相次いで破棄され(そりゃそうですわな)、
「空気を読まず、法に違反した、憲法を知らない、ゴリゴリ保守のオッサンの先輩裁判官がやらかしたシクジリに遭遇し、惻隠の情を示すどころか、メモを証拠に、鬼の首を取ったかのように騒ぎ出し、しくじりおじさんを衆人環視の下で無知ぶりを晒すとともに、社会的に血祭りに上げた」
という
「反体制的」
という意味でアッパレな行動を起こした福島裁判官は、最高裁判所事務総局によって忌避されたか、どこぞの家庭裁判所へ左遷され、配所の月を眺める結果になりました。

ともあれ、以上の一連の経緯からおわかりのとおり、
「裁判官は、天下御免の勝手次第で、誰の命令に従うことなく、独立して職務をして差し支えない」
という憲法の原理は、嘘でも幻でも机上の空論でもなく、現実の体制運営原理として明確に存在するのです。

したがって、裁判官職権行使独立の原則というのは、
「裁判官やりたい放題の原則」
と言い換えた方がしっくりくるかもしれません。

国家三権のうち、司法権をぶんぶん振りかざす裁判所という国家機関には、地裁以上の裁判を担当できる裁判官が約3000人いますが、これら3000人が、それぞれ、独任官庁(主任大臣と同じく、個人が単独で国家機関として、国家意思を表明できるパワーを持っている)であり、しかも、権限行使は、上司もなく、干渉もチェックも入らず、やりたい放題のスーパーフリー。

民主主義を標榜する我が国においても、
「司法、すなわち裁判手続きという国家権力が振りかざされる場面」
においては、約3000の
「専制君主国家」
が存在し、そこで、圧倒的な権力(司法権)をもった独裁者が、日々、
「上司も、チェックもなく、好き放題、やりたい放題(が制度的に保障された状態で)」
権力を振りかざして、裁判という業務をさばいている、という実体が存在します。

ここで、
「裁判官やりたい放題の原則」
なんて言い方をすると、
「たしかに、憲法にはそう書いているが、そこは、理性もあり常識もある裁判官のみなさな。いかにやりたい放題だからといって、裁判官がそんないい加減なことをしないでしょう」
という声が聞こえてきそうですが、残念ながら、こういうケースがあります。

東京都内の私立小学校で学級委員を決める際、港区と千代田区から通っている生徒に5票与え、中央区と渋谷区から通っている生徒には3票、足立区と台東区から通っている生徒には2票、川崎市から通っている生徒に1票という形で付与する票数を差別すると、おそらくそういう非民主的な教育運営している教師は人権感覚をうたがわれ、即座にクビを切られるでしょう。

しかしながら、国会議員を選ぶ選挙においては、鳥取県や島根県の方々は5票与えられ、東京都民は1票しか与えられない、という選挙制度がついこの間まで存在し、しかもこの無茶苦茶な制度に基づく選挙結果を、最高裁が(多少は嫌味を言いながらも)積極的に反対せず、制度の結果が延々最高裁で容認される、というクレイジーな状況が続いておりました。

このような
「多数決ならぬ少数決による、非民主的な国民代表選出制度」
の違憲無効性が最高裁で度々審理されましたが、
「最高裁の15人の老人たちの思想・良心」
によれば(チビチビ嫌味は言いつつも、結論においては)このような制度の結果も容認する、などとされ、投票価値の不平等な長らく放置され続けてきました。

以上のとおり、裁判所は、日本国における最高・最強の権力を保持しながら、誰の指図を受けることなく、自由気ままに、個性を発揮することが憲法によって保障されており、この点において、個性の発揮が極限まで否定される行政官僚とはまったく異なるのです。

このように、
非常識な内容を含み、
「日本語を使いながら、およそ日本語の文章とは言えないほどユーザビリティが欠如し、呪文や暗号のような体裁の文書」
であり、おまけに公権的解釈が複数存在し、何を信じていいか皆目不明の、
「げに恐ろしき」
法律についてですが、
最終的に解釈運用する方々については、憲法上
「やりたい放題」
が保障されており、わりと適当に解釈されてしまいます。

まさしく、
「げに恐ろしきは法律かな」
ではないでしょうか。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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00643_“げに恐ろしきは法律かな”その4:「法律」の公権的解釈・運用は複数存在する

法律は、ときに非常識な内容を含み、日本語で書かれているものの
「まともな日本語の文章」
と言えないほどに読解不能でユーザーインターフェースが欠如している特殊な文書(もんじょ)ですが、それは仕方ないとしても、せめて、読み方や解釈や運用くらいは公権的に統一しておいて欲しいものです。

私的な解釈はともかく、公権的解釈がいくつもあっては、何を信じて行動していいかわかりませんし、迷惑千万ですから。

しかし、
「ときに非常識な内容を含み、日本語で書かれているが日本語の文書ともいえないほどユーザビリティが欠如している、この“法律”という代物」
については、なんともデタラメというか不気味この上ないことに、公権的解釈・運用が複数存在するのです。

こんなニュースを例にとって考えてみましょう。

====================>引用開始
2005年2月26日  東京地方裁判所は、特許権侵害訴訟において、日本水産の冷凍塩味茹枝豆特許(塩味茹枝豆の冷凍品及びその包装品の特許)を無効と判断し、日本水産の特許権に基づく損害賠償等の請求を権利濫用として許されないとして棄却。
<====================引用終了

ボーっとみていると、
「このニュースの根源的異常さ、奇っ怪さ」
に気づきませんが、しっかりみてみると、何とも不気味で異常な、怪現象ともいうべき
「法の公権的解釈・運用」
の実体(というかデタラメさやいい加減さ)が浮かび上がってきます。

上記ニュースの経緯を私なりに紐解くと(注:自分としてのわかりやすい理解のため、大筋を外さない程度に私なりに脚色や誇張を加えています)、

・日本水産が特許(冷凍塩味茹枝豆特許)を特許庁という奉行所の門を叩き、特許出願した
・当該出願にかかる特許は、(おそらく実体審査で、当初拒絶査定を受けた後、補正等をするなどの努力の後)特許庁において「最終的に特許要件を充足した」と判断されて成立し(特許査定を受け)、無事、設定登録を受けるに至りました
・特許庁から特許を受けた日本水産は、得意満面、「これが目に入らぬか!畏れ多くも畏くも、天下の特許庁より我が方が授かった特許なるぞ!」と我が物顔に天下万民に対して誇示しました
・ところが、天下の特許庁より下賜された特許を、あろうことか、「塩加減考えて解凍しても塩味が残る枝豆が特許? 発明? 何やそれ、そんなもん発明とか特許とかなるわけないやろ。アホくさ! ほっとけ、ほっとけ。無視や無視」といわんばかりにシカトし、平然と特許を足蹴にし、特許請求範囲に属する冷凍塩味茹枝豆を製造し販売し続ける、身の程をわきまえない不貞の輩(注:以上は、あくまで、日本水産の主観を筆者なりに推測したものです)がいました
・そこで、日本水産は、この「平然と特許を足蹴にし、特許請求範囲に属する冷凍塩味茹枝豆を製造し販売し続ける、身の程をわきまえない不貞の輩」を成敗すべく、特許庁とは別の、「裁判所」という「不貞の輩を成敗する専門の奉行所(国家権力機関)」に成敗の申し出をしました
・ところが、この「裁判所」なる奉行所は、「我が方の特許法解釈によれば、日本水産の冷凍塩味茹枝豆特許にかかる発明は、特許の要件を具備しておらず、特許に値しない、陳腐にしてありきたりで浅はかなる思考の産物である。すなわち、特許庁なる奉行所(行政機関)が特許したことこそが、愚劣で浅はかな間違いを犯したものというほかない。その方、そのような幻ともいうべき無効な特許を盲信し、これを振り回し、あろうことか、無辜なる市民を権利侵害者呼ばわりし、当奉行所に成敗を求めようなど、その方こそが、浅はか千万、夜郎自大の極み。その方の申し出こそ、権利の濫用として、許されざることは、明白である。控えおろう!」との非情で無情のお裁きを下しました。
・すなわち、裁判所という奉行所では、特許庁なる奉行所と別の法解釈・運用の下、ありえないことに、「平然と特許を足蹴にし、特許請求範囲に属する冷凍塩味茹枝豆を製造し販売し続ける、身の程をわきまえない不貞の輩」と同調し、「天下の特許庁より授かった特許」を信じ、これに依拠して成敗を申し出た日本水産を逆に「無効な権利を濫用する不届き者」扱いをするに至ったのです。
・そうして、日本水産は大いに体面を喪失するとともに、多大な時間とコストとエネルギーを費やして苦労の挙げ句取得した特許は、夢幻として儚く消え去った

ということなのかな、と考えます。

この経緯において、日本水産は、まったく悪くありません。

特許制度を利用し、特許庁という公的機関から、正式にお墨付きを得て、そのお墨付きの権威を確信し、権威への信頼を基礎に行動しただけですから。

この、日本水産にとって何とも無残でミゼラブルな帰結の根本原因は、
・我が国において、法の解釈運用が、特許庁という国家機関と、裁判所という国家機関という、複数の奉行所が行なう制度前提があり、
・それぞれの奉行所が、独自の考え方で、まったく別の「法の解釈運用」を行ない
・その結果、今回は、特許庁と裁判所で真逆の「法の解釈運用」結果となり、
・この(日本水産から観察すると)デタラメで無秩序で無責任な「法の解釈・運用」に、何の罪もない日本水産が振り回され、多大な迷惑と損害を被った
というものであり、
「法律の公権的解釈は複数存在し得る」
という法律の根源的本質に根ざした悲劇ともいえます。

さらにいいますと、この現象の背景となる国家原理は、三権分立という我が国憲法をはじめ近代憲法が採用した統治原理に根ざすもので、この
「法律の公権的解釈・運用は複数存在しうる」
という怪現象や怪現象に伴う悲劇は、近代憲法を採用する国家ではどこでも生じ得るものです。

他にも、この
「法律の公権的解釈・運用は複数存在し得る」
という怪現象を実感する事例があります。

身近なところで、刑事裁判で、裁判所が(事実認定とは別の、法の解釈運用に基づき)無罪判決を下したとします。

これも、
「法律の公権的解釈・運用は複数存在し得る」
という怪現象の1つです。

すなわち、国家機関(独任官庁)である検察官が、
「わが方の法解釈・運用によればこいつ(刑事被告人)は有罪だ」
という見解を示したのに対して、別の国家機関である裁判所が、
「何言ってんの? あんたの法解釈間違っているよ。私の法解釈運用によれば、この人は無罪だよ」
と言って、法の公権的解釈・運用が複数存在し、それぞれが齟齬矛盾をきたしている状況を看取できます。

国家賠償請求事件で請求認容判決が出る場合も同様です。

国や国を代理する訟務検事の法解釈・運用を排斥し、裁判所が別の法解釈運用を基礎に、国を敗訴させるわけですから、 ここでも、
「法律の公権的解釈・運用は複数存在し得る」
という怪現象が看取されます。

もちろん、一般的には、行政官庁も、裁判所も、そこで勤める方々は、
だいたい同じように小さいころからお勉強ができ、
だいたい同じように東大や京大を始めとするやたらと受験偏差値が高い難関大学を卒業し、
だいたい同じように大学では調子に乗ってフラフラ遊ぶことなくお勉強に勤しみ、
だいたい同じような小難しい法律の試験(司法試験や国家公務員試験)をパスして、
だいたい同じように小難しい顔やつまんなそうな顔をして地味なスーツを着てつまんなそうに仕事をしている、
だいたい同じように話しても理屈っぽく細かく退屈でつまんなそうなタイプの方々(注:以上は、世間的なイメージを私が推定したものであり、実際はそうでないかもしれません)
ですから、思考や発想や人生観は近似しており、
「法の解釈運用」
の相場観が、行政官庁と裁判所で大きくズレることは少なく、したがって、国家賠償請求事件や税務訴訟でも、9割以上の確率で請求棄却判決(行政側勝訴)が下されます。

しかし、裁判官の中には、行政官庁を敵視し、あえて行政官庁の法解釈・運用を採用し、行政側を敗訴させ、
「法律の公権的解釈・運用は複数存在し得る」
という過酷な現実を体現するような裁判官もいらっしゃいます。

かつて、法曹界において有名であった逸話に、
「東京地裁の藤山コート(法廷)」
というものがありました。

1999年ころに、 東京地方裁判所の行政専門部の1つであ地裁民事3部に、藤山雅行という裁判官が部総括として就任しました。

ところが、この藤山裁判官、 国やエスタブリッシュメントの法解釈運用とはまったく別の法解釈運用を採用することが多く、アフガニスタン難民訴訟、韓国人不法滞在者強制退去処分取消し訴訟、圏央道土地収用訴訟、小田急高架化訴訟、国保軽井沢病院医療事故訴訟、ひき逃げブラジル人強制退去処分取消し訴訟でいずれも国側敗訴の判決を下しました。

行政側に対するあまりに過酷な態度で臨み、国側敗訴判決を連発したことから、中国の歴史上有名な詩人杜甫が詠んだ
「国破れて山河在り」
になぞらえ、所属する東京地裁民事3部の名称をもじって
「国破れて3部あり」
などと言われていました。

なお、
「(当時、)東京地裁の行政専門部は、3部(民事第2部・民事第3部・民事第38部)存在したが、係属指定できず、ランダムに係属が決定するため、 この(原告有利、国側不利のバイアスが期待できる)藤山コートでの訴訟係属を試みようと、国を訴える原告サイドとしては、藤山コート(3部)に係属決定するまで、何度も訴え提起と取り下げを繰り返した」
というまことしやかな噂も法曹界では存在しました。

このような噂話が流布するくらい、
「国を破れさせる」
藤山コートの原告サイド(国を訴える側)の人気は超絶に高かったといえます。

さらにいいますと、同じ裁判所という国家機関内部においても、例えば、東京高裁が控訴審において、地裁判決を破棄し取り消す判決(控訴認容判決)を出す、ということは、東京地裁の法の解釈運用に対して、東京高裁が別の法解釈運用を行って、ダメ出しをしたものと、と観察することが可能です。

こうやってみてみると、法の公権的解釈運用は2つどころか、複数存在しうる、という、デタラメにして奇っ怪な実体がまざまざと理解されます。

いずれにせよ、法律は、非常識で、日本語でもないのは仕方がないとしても、せめて、読み方や解釈や運用くらいは公権的に統一しておいて欲しいものですが、残念なことに、公権的解釈運用も複数存在するのが、この法律の不気味で厄介なところです。

やはり、
「げに恐ろしきは法律かな」
です。

著者:弁護士 畑中鐵丸 /著者所属:弁護士法人 畑中鐵丸法律事務所

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